第2話
第2話
食堂には既に三人の姿があった。
長テーブルの上座に義兄のカイル。十七歳、辺境伯家の嫡男。背筋を伸ばし、ナイフとフォークを正確な角度で置いている。食事の作法に隙がない。だがその正しさがどこか硬い。義務として完璧を演じている人間の所作だった。カイルの向かいに義母マリエル。四十前後だろうか。柔らかな栗色の髪を簡素にまとめ、薄い微笑みを絶やさない。穏やかな人だ——少なくとも表面上は。そして義母の隣に、義妹フィーネ。八歳。椅子の上で足をぶらぶらさせ、パンの耳を千切っては皿の縁に並べていた。
「レイン、もう起きて大丈夫なの?」
フィーネが私を見つけて声を上げた。無邪気な目。警戒も計算もない。この食卓で唯一、仮面をつけていない人間だった。
「ええ。もうすっかり」
席に着きながら、食卓の空気を観察する。義母はフィーネに「お行儀よくしなさい」と囁き、自分の皿にはほとんど手をつけていない。カイルは私が着席しても視線を上げなかった。パンを切る手が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。
この席に父はいない。レインの記憶を辿る。辺境伯グレン・アルヴェスは朝食を書斎で摂ることが多い。領地経営の書類に追われているのか、それとも——家族と同じ食卓を避けているのか。先ほど書斎で見た手紙のことが頭を過ぎったが、今はまだ触れるべきではない。
「カイル兄様、今日も剣術の稽古?」
フィーネが兄に話しかけた。カイルの返事は短かった。
「ああ」
「フィーネも見に行っていい?」
「邪魔だ」
一語で切り捨てる。フィーネの顔が曇り、義母が小さく息を吐いた。だが義母はカイルを窘めなかった。窘められない、と言った方が正確だろう。義母の目がカイルに向けられたとき、そこにあったのは遠慮だった。後妻という立場。嫡男であるカイルとの間にある距離。血の繋がらない息子に対して、この人は常に一歩引いている。
一方でカイルの方にも、義母への敵意があるわけではなさそうだった。無関心に近い。だが無関心の底に何か——苛立ちとも焦燥とも違う、もっと複雑なものが沈んでいる。食事中にカイルが義母の方を一度も見なかったのは、見ないと決めているからだ。意識して視線を外す人間の首の角度を、私は前世で何百回も見てきた。
「レイン、体が辛かったら無理しなくていいのよ」
義母が私に向けた声は穏やかだった。目元に浮かぶ心配の色に嘘はない。この人はレインの実の母ではないが、義理の子に対しても誠実であろうとしている。不器用なほどに。
「ありがとうございます、母上」
私がそう答えると、カイルのフォークが皿の上で小さく音を立てた。
食後、私は屋敷の中を歩いた。病み上がりの散歩という名目は、誰にも怪しまれない。
辺境伯の屋敷は本館と離れからなる。本館一階に食堂、応接間、書斎、厨房。二階に家族の居室と客間。離れには使用人の部屋と倉庫がある。屋敷全体の構造を頭に入れながら、同時に人の動きを追った。使用人は七名。料理番の老婆、侍女二人、庭番、馬番、そして執事と小間使い。小さな屋敷だ。人の出入りは把握しやすいが、裏を返せば秘密を隠すのが難しい場所でもある。
廊下を曲がったところで、フィーネが追いかけてきた。
「レイン兄様、どこ行くの?」
「散歩だよ。体を動かさないと鈍るから」
「フィーネも一緒に行く」
断る理由はなかった。むしろ好都合だった。この屋敷の人間関係を知るには、八歳の少女ほど適切な情報源はない。子供は嘘をつくが、嘘のつき方が素直だ。何を隠し何を隠さないかで、大人たちの本音が透けて見える。
「フィーネ、カイル兄様はいつもあんな感じ?」
「ううん。前はもっと優しかったよ。でもね、最近ずっと怒ってるの」
「いつ頃から?」
フィーネは首を傾げた。
「……お父様が遠くからお客様を呼ぶようになってから、かな」
遠くからの客。私は今朝、書斎で聞いた二つの声を思い出した。父と、もう一人の男。
「そのお客様って、どんな人?」
「知らない。でもね、お母様がその人のこと嫌いなの。顔には出さないけど、お客様が来た日の夜はいつも、お母様の部屋から祈りの声が聞こえるの」
八歳の観察は侮れなかった。フィーネは大人たちの感情の機微を、理屈ではなく肌で感じ取っている。義母が客人を嫌い、カイルが苛立ち、父は書斎に籠もる。この屋敷には、外から持ち込まれた何かが空気を歪めている。
中庭に面した回廊を歩きながら、私は自然にフィーネの手を握っていた。前世の私ならしなかった行為だ。他人に触れること、触れられることを避けて生きてきた。だが今は——この小さな手の温かさが、不思議と思考を澄ませてくれた。
午後、機会が訪れた。
辺境伯が領内の視察に出かけ、カイルは剣術の稽古で離れにいる。義母は自室で針仕事。使用人たちは厨房と庭に散っている。書斎が無人になる時間帯を、午前中の観察で既に割り出していた。
フィーネを「少し疲れたから部屋で休む」と言って先に帰し、私は一人で一階へ降りた。
書斎の扉は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。辺境の屋敷では珍しくない。外敵への備えはあっても、家族間で部屋に鍵をかける習慣はないのだろう。
中に入ると、朝とは違う静けさがあった。窓から午後の光が差し込み、机の上の書類を白く照らしている。壁には領地の地図と、歴代辺境伯の肖像。本棚には法令集と農事記録が並んでいる。実務家の書斎だった。装飾よりも機能を重んじる人間の部屋。
机の上を見た。朝見えた手紙は、もうそこにはなかった。片付けられたか、引き出しにしまわれたか。だが私が探しているのは手紙の内容ではない。今の段階では、あの紋章の正体を確認できればいい。
机の隅に封蝋の欠片が残っていた。手紙を開封した際に剥がれ落ちたものだろう。小指の爪ほどの赤い蝋。それを指先で拾い上げ、窓の光に翳した。
紋様は不完全だったが、蛇の鱗の一部と秤の片腕が見て取れた。これで十分だった。
メルヴィス家。前世の法廷で偽証を行ったヨルク・メルヴィスの家紋。王都の中流貴族で、表向きは薬種商を営む一族。私の前世の捜査では、連続毒殺に使われた毒物の供給経路を辿った先に、必ずこの家の影があった。だが証拠を固める前に、私は捕らえられた。今にして思えば、メルヴィス家は単なる偽証者ではなく——毒物供給そのものに関与していた可能性がある。
封蝋の欠片をそっと元の位置に戻した。痕跡を残してはならない。私がこの紋章に反応したことを、誰にも知られるべきではない。
書斎を出ようとしたとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。革靴。歩幅は広く、速い。カイルだ。稽古から戻ったらしい。
私は静かに書斎の扉を閉め、反対側の廊下へ身を滑らせた。角を曲がったところで、自分の心臓の音を聞いた。速い。だが焦りではなく、久しぶりの感覚——事件の糸口を掴んだときの、あの鋭い高揚だった。
前世の連続毒殺事件と、この辺境伯の屋敷。繋がりがある。その繋がりがどこまで伸びているのかは、まだ分からない。だが一つだけ確かなことがある。
父はあの手紙の差出人と、何らかの関係を持っている。義母はその相手を恐れている。カイルはその影響で変わった。この屋敷の歪みの中心には、あの紋章がある。
自室に戻ると、窓の外では夕暮れが始まっていた。遠くの山の稜線が赤く染まり、屋敷の影が中庭に長く伸びている。
扉を叩く音がした。
「レイン兄様、一緒にお夕飯食べよう」
フィーネの声だった。
「ああ、今行く」
扉を開けると、フィーネが不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「レイン兄様、なんか変わった」
「変わった?」
「うん。前より……目が怖い」
八歳の直感は、時に論理を超える。私は意識して表情を緩めた。
「熱のせいだよ。まだ少し寝ぼけてるんだ」
フィーネは納得していない顔をしたが、それ以上は追及せず、私の手を引いて廊下を歩き始めた。その小さな手の力が、妙に心強かった。
食堂へ向かう途中、書斎の前を通りかかった。扉の隙間から、父の声が漏れていた。
「——次の届け物は、いつ届く」
届け物。誰に向けた問いかは聞こえなかった。だがその声には、朝の穏やかさとは異なる——低く、慎重な響きがあった。何かを待っている。あるいは、何かを恐れている。
フィーネの手を握り返しながら、私は思考を巡らせた。メルヴィス家からの手紙。定期的な届け物。義母の祈り。カイルの苛立ち。断片はまだ線にならない。だが断片の数は確実に増えている。前世の私なら、この段階で書斎に忍び込み、手紙を盗み読んでいただろう。そして——その性急さが命取りになった。
今は待つ。観察し、信頼を築き、この屋敷の人間たちが自ら口を開く瞬間を作る。
食堂の扉を開けた。カイルが既に席についていた。その手の甲に、稽古でついたものとは違う——インクの染みがあるのを、私は見た。