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転生名探偵は二度死なない

第3話 第3話

第3話

第3話

カイルの手の甲についたインクの染みが、食事の間ずっと気になっていた。

 剣術の稽古帰りにインクがつく場面は限られる。稽古の前か後に書斎へ立ち寄ったということだ。だが父が視察に出ていた午後、書斎は無人だったはずだ——私が忍び込んだときには。つまりカイルは、私が書斎を出た後に入ったことになる。あるいは、私が書斎にいた時間帯よりも前に。いずれにせよ、嫡男が父の不在中に書斎で何かを書いていた。

 夕食の会話は少なかった。義母が時折フィーネに話しかけ、フィーネが答え、カイルは黙々と食べ、私は観察した。一つだけ普段と違ったのは、カイルの食べる速度だった。フィーネの証言では「最近ずっと怒ってる」とのことだったが、今夜のカイルは怒りよりも——焦りに近い空気を纏っていた。何かの期限に追われている人間の食べ方。噛む回数が少なく、皿の上を視線が泳いでいる。ナイフを握る右手に力が入りすぎていて、陶器の皿と金属が擦れる不快な音が何度か響いた。義母がちらりとカイルを見たが、何も言わなかった。その沈黙の質が、日常のものではなかった。互いに触れてはならない話題を抱えた人間同士の、張り詰めた静けさだった。銀食器が皿に触れる音だけが妙に大きく響き、蝋燭の炎が揺れるたびに食卓の影が不規則に歪んだ。料理は冷めていくのに、誰もそれを気にしなかった。

 食後、カイルは真っ直ぐ自室ではなく、書斎の方向へ歩いていった。

 追うべきか。——いや、まだ早い。

 翌朝のことだった。

 悲鳴で目が覚めた。

 侍女の声だった。甲高く、途切れ途切れの叫び。言葉になっていない。恐慌に陥った人間の声を、前世で何度も聞いた。あれは死体を発見した者の声だ。

 寝台を飛び出し、廊下に出た。既に使用人たちが一階へ駆け下りていく。その流れに混じり、階段を降りる。素足に石の床が冷たい。寝間着の裾が足首に絡みつく。廊下の壁燭台はまだ灯されておらず、薄闇の中を使用人たちの荒い息遣いだけが先導していた。まだ夜明け直後なのだろう、窓から差し込む光が薄く青い。足音の向かう先は——書斎だった。

 書斎の扉が開け放たれていた。

 中に踏み込んだ瞬間、匂いが鼻を突いた。甘い。果実が腐る手前の、あの甘さに似ている。だが果実ではない。この匂いを、私は知っている。三十年以上前——いや、前世の記憶では数年前に、何度も嗅いだ匂いだ。胃の底がせり上がるような感覚が走った。この体は嗅いだことがないはずなのに、魂が覚えている。検死台の傍らに立つたびに鼻腔にこびりついて、何日も消えなかったあの甘さだ。

 カイルが机に突っ伏していた。

 右腕を伸ばし、左手は椅子の肘掛けから垂れ下がっている。一見すると書斎で眠り込んだだけに見える。だが顔色が違う。蝋のように白く、唇だけが不自然に赤い。——まるで紅を塗ったように。

 執事のハインツが私の肩を掴んだ。

「レイン様、お下がりください。子供が見るものではありません」

 私は素直に従った。だが二歩下がりながらも、視線は書斎から離さなかった。机の上に倒れたカイルの体勢。右手の先にある水差し。窓は閉まっている。そして——机の上の花瓶。昨日の午後に見たときと同じ位置にあるが、花が一輪減っていた。

 医師が呼ばれた。近隣の村から馬を飛ばして一時間。その間、屋敷は騒然としていた。義母は書斎の前で立ち尽くし、声もなく顔を覆っていた。その指の隙間から、涙が一筋も落ちていないことに気づいた。泣けないのか、泣いていないのか——その違いは大きい。フィーネは事態が理解できないのか、義母の服の裾を握ったまま、じっとカイルが運び出されるのを見つめていた。父——辺境伯グレンは、領内の視察先から急遽呼び戻されたが、まだ戻っていない。

 医師が到着し、カイルの体を調べた。診察は長くなかった。

「毒物です」

 医師の声は低かったが、書斎の外に集まった全員の耳に届いた。

「詳しい成分は精査が必要ですが、死因は毒物の摂取による臓器不全です。おそらく昨夜遅くに発症し、明け方までに……」

 義母の膝が崩れた。侍女が慌てて支える。フィーネが泣き出した。使用人たちが口々にざわめく。

「外部の者の仕業に違いない」「裏口の鍵が——」「いや、昨日は施錠を確認した」

 私はその喧騒の中で、黙って立っていた。

 唇の不自然な赤み。甘い残り香。臓器不全。——この三つの組み合わせを、私は正確に知っている。

 カイルの遺体は応接間に安置された。白い布が掛けられ、義母が傍らに座って動かない。フィーネは侍女に連れられて自室に戻された。屋敷中が混乱と悲嘆に沈む中、私は自室の窓辺に立ち、頭の中で前世の記録を繰っていた。

 王都連続毒殺事件。被害者七名。全員に共通した症状——死後、唇が鮮やかな赤色を呈する。死の直前に甘い匂いが体から発せられる。死因は複数臓器の同時不全。当時の王都では「紅唇病」と呼ばれ、最初は風土病と誤認された。私がそれを毒殺だと見抜いたのは、三人目の被害者の検死に立ち会ったときだった。

 あの毒には名前がなかった。少なくとも、一般に流通する毒物辞典には載っていなかった。特殊な調合が必要で、材料の一つに北方の高山帯にしか自生しない菌類が含まれる。王都で私が追った供給経路は、この菌類の入手ルートを逆算することで浮かび上がった。そしてその経路の末端に、メルヴィス家の名前があった。

 同じ毒だ。

 カイルを殺した毒は、前世で七人を殺した毒と同じものだ。唇の色、匂い、死因の進行——特徴が完全に一致している。この毒は市場に出回るものではない。偶然、同じ毒が辺境で使われることはありえない。つまり——前世の毒物供給網と、この屋敷の事件は繋がっている。

 窓の外を見た。中庭に使用人たちが集まり、何かを話し合っている。外部犯の侵入経路を議論しているのだろう。彼らの結論は最初から決まっている。外の誰かが忍び込み、カイルを殺した。屋敷の人間は皆が被害者だ。——だがそうではない。

 あの毒を使うには知識がいる。調合法、投与量、そして何より入手経路。外部犯が偶然この毒を手に入れ、たまたま辺境伯家の嫡男に使うことは、確率の上でほぼ不可能だ。この事件は、あの毒を知る者——あるいはあの毒を供給する者に繋がっている。そしてこの屋敷には、メルヴィス家の紋章が押された手紙が届いていた。

 目を閉じた。暗闇の中に、前世の処刑台が浮かんだ。群衆の怒号。灰色の外套の男の薄笑い。掌を返す証人。——あのとき暴けなかった真実が、別の形で再び目の前に現れている。瞼の裏で、処刑台の木目まではっきりと見えた。あの日の風の匂い、縄が軋む音、そして何もできなかった自分の拳の痛み。この子供の体の奥で、三十年分の悔恨が脈打っている。

 偶然ではありえない。

 前世の事件と、今の事件。同じ毒、同じ紋章、同じ供給網。二つの世界に跨がる糸が、この辺境の書斎で交差した。私が転生したこの場所で。

 扉を叩く音がした。控えめな、しかし急いた叩き方。

「レイン兄様……」

 フィーネの声は震えていた。扉を開けると、目を真っ赤に泣き腫らした妹が立っていた。鼻の頭が赤く、頬に涙の跡が何筋も残っている。唇を噛んで懸命に嗚咽を堪えているのが分かった。握り締めた両手の指先が白くなっている。この子はずっと一人で耐えて、誰かに助けを求める勇気を絞り出してここまで来たのだ。

「お母様が……みんなに疑われてる」

 その言葉に、思考が一瞬止まった。

「お母様が、カイル兄様の部屋の前を昨夜うろうろしてたって、メイドのリーゼが言ってるの。お母様は違うって言ってるのに、誰も聞いてくれないの」

 義母に容疑が向いている。動機は——嫡男を排除すれば、義母の産んだ子が相続権を得る。古典的な動機だ。だがこの段階でそこに飛びつくのは早すぎる。あの毒の入手経路を義母が持っているかどうか、まだ何も分かっていない。

 フィーネの肩が小刻みに震えていた。

 前世の記憶が重なった。あのときも、最初に疑われたのは無実の人間だった。真犯人は常に、疑いの矛先を他者に向ける技術に長けていた。そしてその冤罪を晴らそうとした探偵が、次の標的にされた。

「フィーネ」

 私はしゃがんで、妹の目線に合わせた。

「泣かなくていい。真実は必ずはっきりする」

 前世では、その言葉を誰にも言えなかった。

 フィーネの手を握りながら、書斎で見た光景を思い返す。花瓶。水差し。閉じた窓。そして——昨夜、カイルの手の甲にあったインクの染み。カイルは死の直前まで、書斎で何かを書いていた。それが何であったか、まだ確認できていない。

 屋敷の外で馬蹄の音が響いた。父が戻ったのだろう。これから屋敷はさらに混乱する。だが混乱の中にこそ、人は本性を見せる。

 握った拳の中に、前世の記憶が熱く脈打っていた。

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