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落第魔術師の科学式詠唱

第3話 第3話

第3話

第3話

老人の問いには答えられないまま、夜が明けた。

 あの後、騒ぎを聞きつけた村人が数人駆けつけて老人を家に運び込んだ。老人——名はゴドフという、村外れに一人で住む元猟師だった。夜中に薪を取りに出て足を滑らせ、そのまま動けなくなったらしい。低体温で死にかけていたところを俺が温めた、という説明に、村人たちは半信半疑の顔をしていた。

 当然だろう。井戸水すら温められなかった男が、人間の体温を正確に戻せるはずがない。

 ゴドフは翌日には意識が明瞭になり、大事には至らなかった。だが俺と目が合うたびに、あの夜の怯えた表情が一瞬よぎるのが見えた。何をされたのか理解はしていないが、体の芯を魔力で操作された違和感だけは覚えているのだろう。

 俺は何も説明しなかった。説明しようがなかった。

 ただ、日常は続く。

    *

 前世の記憶を取り戻してから、世界の見え方が完全に変わった。

 正確に言えば、魔術の見え方が変わった。

 朝の薬草摘みを終え、ハンナの作業場で乾燥工程を手伝う。ハンナは摘んだばかりの薬草を石板の上に広げ、両手をかざして乾燥魔術を行使する。魔力が薬草に注がれ、水分が蒸発していく。学院でも習った基本的な術式だ。

 ——だが、今の俺の目には、その術式の非効率さが痛いほどわかる。

 ハンナの乾燥魔術は、対象全体に均一な熱エネルギーを叩き込んでいるだけだ。水分子だけでなく、薬効成分を担う有機分子にも無差別に熱が加わる。結果として乾燥はできるが、薬効は確実に落ちている。化学教師の目で見れば、これは蒸留の原理を無視した力技だ。水の沸点と有効成分の分解温度には差がある。その差を利用すれば、薬効を保ったまま水分だけを選択的に除去できるはずだ。

「ハンナさん」

「なんだ」

「その乾燥、少し変えてみてもいいですか」

 ハンナが怪訝な顔をする。当然だ。井戸も温められない落第魔術師が何を言い出すのか。

「……好きにしろ。失敗したら弁償だ」

 石板の上の薬草に手をかざす。目を閉じ、集中する。

 昨夜と同じ感覚を呼び起こす。魔力を分子レベルの操作に変換するイメージ。ただし今回のターゲットは人体ではなく、植物組織中の水分子だ。

 水分子の振動モードを選択的に励起する。H₂Oの分子振動——伸縮振動と変角振動。その固有振動数に合わせて魔力の周波数を調整すれば、水分子だけを優先的に気化できる。薬効成分の有機分子には、できるだけエネルギーを与えない。電子レンジと同じ原理だ。前世の電磁波加熱技術を、魔力制御に置換する。

 掌から魔力が流れ出す。

 変化は即座に現れた。薬草の表面から水蒸気が細く立ち昇る。だが葉の色は変わらない。通常の乾燥魔術では茶色く変色する葉が、鮮やかな緑を保ったまま水分だけを失っていく。

「——何だ、これは」

 ハンナの声が低くなった。

 乾燥が完了した薬草を手に取り、指先で揉む。ぱりぱりと乾いた音がする。しかし香りが強い。通常の乾燥品とは段違いに、青い薬草の香りが残っている。

「水分だけを選択的に飛ばしました。有効成分——薬効のある部分には熱を加えていません」

「そんな制御、聞いたことがない」

「学院でも教えていません。でも、原理的には可能です」

 ハンナは乾燥した薬草を光に透かし、目を細めた。それから別の薬草を手に取り、嗅ぎ、また透かした。薬師としての経験が、品質の違いを正確に読み取っているのだろう。

「……この香りの残り方は、天日干しの最上等品と同じだ。いや、それ以上かもしれない」

 天日干しは手間と時間がかかるが、低温でゆっくり乾燥させるため薬効の損失が少ない。俺のやり方はそれを魔術で再現した——というより、原理を理解した上で最適化した結果だ。

「温度を上げて乾かす必要はないんです。水の分子だけを振動させれば、周囲の温度を上げなくても水分は蒸発する」

「分子?」

「……えーと、とても小さい粒のようなものです。物質はすべて、目に見えない小さな粒の集まりでできていて——」

「いい。理屈はわからんが、結果はわかる」

 ハンナは乾燥した薬草を丁寧に紙で包みながら、ちらりと俺を見た。あの夜以前とは明らかに異なる視線だった。警戒はまだあるが、その奥に観察者の目がある。使えるかもしれない道具を見定める、職人の目だ。

「残りも頼めるか」

「はい」

 二束目に取りかかる。今度は意識的に魔力の消費を抑えながら、水分子の振動制御に集中する。やはり効率がいい。学院式の乾燥魔術と比べて、体感で魔力消費が三分の一以下だ。

 だが——三束目に手をかけたとき、それは来た。

 前触れもなく、頭の中に映像がフラッシュバックした。

 白衣の背中。実験室の蛍光灯。試験管を洗う水音。教え子の笑い声。職員室の窓から見える校庭の銀杏並木——

 掌から魔力が乱れた。薬草の端が一瞬で炭化する。焦げた匂いが鼻を突いた。

「おい」

「すみません。少し——集中が切れました」

 額に冷や汗が浮いている。手が微かに震えていた。

 前世の記憶は、昨夜すべて戻ったわけではなかった。大枠は思い出した。化学教師だったこと。三十二年間の教職。病室の天井。だが細部は断片的で、不意に、脈絡なくフラッシュバックとして噴出する。しかもそのたびに、今の自分——エルト・ヴァーレンとしての意識が一瞬揺らぐ。

 二つの人生の記憶が、一つの頭の中で整理されていない。

「……大丈夫か」

 ハンナが、珍しく心配とも取れる声を出した。

「はい。問題ありません」

 嘘だ。問題は大いにある。だが今はまだ、この不安定さの原因も対処法もわからない。時間が必要だった。

 ハンナはそれ以上追及しなかった。炭化した薬草の残骸を無言で片付け、新しい束を差し出しただけだ。

 その日の午後、俺は村の中を歩いた。

 意識して観察すると、村の日常魔術のあらゆる場面に同じ非効率が見つかった。暖房魔術は室内の空気を無差別に加熱しているだけで、対流の概念がない。温かい空気は天井に溜まり、床は冷えたまま。照明魔術は可視光以外の波長——紫外線や赤外線——にも大量の魔力を浪費している。井戸のポンプに補助魔術をかけている男は、力の方向が水流と三十度もずれていた。

 この世界の魔術は、非効率の塊だ。

 原理を知らないまま、経験と才能だけで運用している。それでも回っているのは、魔力という資源が潤沢だからだろう。だが逆に言えば、原理さえ理解すれば、同じ結果をはるかに少ない魔力で実現できる。俺のような魔力量の乏しい人間でも——いや、むしろ魔力が少ないからこそ、効率化の恩恵は大きい。

 前世の化学知識が、この世界では武器になる。

 小屋に戻る途中、また短いフラッシュバックが来た。今度は教室ではなく、病室だった。点滴のチューブ。窓の外の夕焼け。誰かの手——その映像が消えたあと、数秒間、自分がエルトなのか、あの化学教師なのか、わからなくなった。

 足を止め、深呼吸する。白い息が夜気に溶ける。

 俺はエルト・ヴァーレンだ。前世の記憶を持つ、落第魔術師。それだけだ。

 自分にそう言い聞かせて、小屋の戸を開けた。

    *

 翌朝、井戸端で水を汲んでいると、村長の老婆が杖をつきながらやってきた。

 いつもの鋭い目ではなかった。険しいというより、疲弊した表情。杖を握る手の甲に浮いた血管が、朝の薄い光の中で青白く透けている。

 視線は俺ではなく、村の南側——畑の方角に向いていた。

 雪がまだらに残る地面の下で、凍土がゆるみ始めている。日中の気温がわずかに上がったのだろう。屋根から雫が落ちる音が、朝の静寂の中に不規則に響いていた。

「今年も畑がやられる」

 村長は独り言のように呟いた。俺に向けた言葉ではなかったのかもしれない。だがその声には、毎年繰り返される災害への諦めが滲んでいた。

「雪解け水ですか」

「ああ。山からの水が一気に来る。排水が追いつかん。毎年、春の作付けが半月は遅れる」

 半月。辺境の短い夏を考えれば、それは収穫量に直結する致命的な遅延だ。

 村長は畑を見つめたまま、小さくため息をつき、杖をついて去っていった。

 俺はその背中を見送りながら、頭の中で前世の知識を引き出していた。流体力学。土壌の透水係数。排水勾配の設計。

 ——何か、できることがあるかもしれない。

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