第2話
第2話
頭の奥で、何かが軋んだ。
痛みだった。魔力の暴走でも、術式の失敗でもない。もっと根源的な——脳そのものを万力で締め上げるような、純粋な痛み。こめかみの血管が脈打つたびに、頭蓋の内側を鉄の爪で掻きむしられる感覚が走る。
視界が白く弾けた。
掌から微かに熱が漏れているのがわかる。温熱魔術は発動している。だが今の俺にはそれを制御する余裕がない。老人の胸に当てた手はそのままに、俺は雪の上に片膝をついた。膝を突いた衝撃で、凍った地面の冷たさが布越しに骨まで届いた。歯の根が合わない。痛みなのか寒さなのか、もう区別がつかなかった。
——映像が流れ込んでくる。
知らない教室。白い照明。黒板の前に立つ自分。だが今の自分ではない。もっと歳を取った、白髪交じりの、眼鏡をかけた男。チョークの粉で白くなった指先。擦り切れたスーツの袖口。その一つ一つが、他人の記憶ではなく、確かに「自分」のものとして脳に焼きついていく。
「分子運動論。温度とは分子の運動エネルギーの平均値である」
自分の声だ。間違いない。だが俺はこんな言葉を知らない。いや——知っている。知っていた。ずっと前から。
堰を切ったように記憶が溢れた。
三十二年間。化学教師としての三十二年間が、圧縮された奔流となって脳を駆け抜ける。元素周期表。化学結合。熱力学の法則。分子軌道理論。生徒たちの顔。職員室のコーヒーの匂い。定年間際の健康診断で見つかった影。病室の天井——
最後の記憶は、白い天井だった。消毒液の匂いと、心電図モニターの単調な電子音。誰かが手を握っていた気がする。その手の温もりだけが、最後まで消えなかった。
痛みが引いた。唐突に、嵐の後のように。
雪の上に両手をついて荒い呼吸を繰り返す。吐く息が白い。指先が震えている。それが魔力の消耗によるものか、記憶の衝撃によるものか、自分でもわからない。目の前に老人が横たわっている。何も変わっていない。変わっていないが——俺の中で、何かが決定的に変わった。
前世。この言葉がすんなりと腑に落ちた。
ファンタジーの定番だろう。転生、前世の記憶、チート能力。くだらないと思っていた——いや、「思っていた」のは化学教師としての俺だ。六十四年の人生を終えて、気づいたらこの世界にいた。エルト・ヴァーレンとして十八年間を生き、魔術学院で落第し、辺境に飛ばされて——今、ようやく思い出した。
感傷に浸っている暇はない。
老人の顔を見る。唇の色がさらに悪くなっている。紫を通り越して、灰色に近い。頬にはうっすらと霜が降りていた。体表温度は——触れた感覚から推測して、三十度を下回っている。低体温症。このまま放置すれば心室細動から心停止。前世の知識が、冷たい診断を下した。
温熱魔術。さっきまで井戸水すら温められなかった術。
だが今は、わかる。
温度とは何か。分子の運動だ。分子が激しく振動すれば温度は上がり、静止すれば絶対零度に近づく。魔術学院の教科書にはそんなことは一行も書かれていない。「魔力を熱に変換する」としか記述がない。変換の原理も、制御の指標も、何もかもがブラックボックスだ。
だから、俺は術式に「乗れなかった」のだ。
理論は理解していた。だが魔術学院の理論は、根本の物理現象を無視した経験則の塊だった。頭で納得できないものを、体が実行できるはずがない。それが二年間の壁の正体だ。
今なら、別のアプローチができる。
掌を老人の胸に戻す。目を閉じる。術式を描く——ただし、学院式ではない。
魔力で対象の分子振動を直接操作する。温度を「上げる」のではなく、分子の運動エネルギーを「指定した値に収束させる」。エネルギーの総量ではなく、分布を制御する。統計力学の発想だ。
これなら——イメージできる。
魔力が掌から流れ出す感覚があった。今までとはまるで違う。砂がこぼれるような散逸ではなく、水路を流れる水のように、明確な方向を持って魔力が対象に到達する。掌の下で老人の衣服が微かに温もりを帯びていくのが、指先を通して伝わった。
老人の体内で、分子が動き始めるのを感じた。
正確に言えば「感じた」というのは比喩だ。だが魔力を介して、対象の状態が手に取るようにわかる。体表面の温度分布。深部体温との乖離。凍傷の進行度。心拍の微弱なリズム。
情報が多い。だが混乱はしない。三十二年間、実験データを読み続けた頭が、自動的に優先順位をつけていく。
まず深部体温。心臓周辺を最優先で加温する。ただし急激な温度変化は逆効果だ。復温ショックで心臓が止まる。毎分〇・五度。それ以上は上げない。
次に四肢末端。こちらは後回しでいい。末端を先に温めると、冷えた血液が心臓に戻って深部温度が一時的に下がる。アフタードロップ。前世の救急医学の教科書に書いてあった。
時間が溶けた。
どのくらい経ったのかわからない。五分か、三十分か。雪が降り始めていた。俺の肩にも老人の体にも白い粉が積もっていく。だが今は中断できない。額に浮いた汗が顎を伝い、雪の上に落ちて小さな穴を開けた。集中を途切れさせるな。この老人の命は、今この瞬間、俺の掌の精度だけに懸かっている。
深部体温が三十四度を超えた。心拍が安定してきた。呼吸も深くなっている。
あと三度。
三十五度。老人の指先がかすかに動いた。
三十六度。唇に赤みが戻り始める。
三十七度——正常体温。
ここだ。ここで止める。
魔力を制御し、分子振動の励起を正確に停止させる。慣性で温度が上がりすぎないよう、微調整を加える。〇・一度の誤差もなく、三十七・〇度で安定。
……できた。
掌を離した瞬間、世界が傾いた。体中の力が抜け、雪の上に尻もちをつく。魔力の消耗が一気に押し寄せてきた。視界の端が暗い。だが、致命的な疲労ではない。学院で魔力切れを起こしたときの、あの底が抜けるような感覚とは違う。効率が段違いだった。必要な分だけを、必要な場所に、正確に送り込んだからだろう。
二年間、何をやっても動かなかった魔力が、今夜は指先の意思に従った。
分子運動論。たったそれだけの知識が、魔術の根本を書き換えた。
いや——書き換えたのではない。学院が見落としていた原理に、ようやく魔術が追いついただけだ。この世界の魔術師たちは、温度の正体を知らないまま熱を扱っている。それは目隠しをして絵を描くようなものだ。才能のある者は勘で描ける。だが俺のような凡人には、目が必要だった。
前世の知識が、その目になった。
これが——チートか。
考える余裕もなく、疲弊した体を雪の上に投げ出す。星がやけに近い。呼吸が白く立ち昇り、夜空に溶けていく。寒い。だが不思議と、震えは止まっていた。背中に触れる雪の冷たさすら、今は分子の運動が鈍っているだけだと理解できる。知識が感覚を塗り替えていく。もう、元の俺には戻れない。
隣で、老人が身じろぎした。
「う……」
低い呻き声。それから、ゆっくりと瞼が開く。焦点の定まらない目が、しばらく夜空をさまよい——そして、俺を捉えた。
老人の目が見開かれた。
恐怖。明確な、混じりけのない恐怖が、その瞳に浮かんでいた。
死にかけていた人間が助けられたときの反応ではなかった。感謝でも、困惑でも、安堵でもない。まるで——そう、まるで化物を見たかのような目だ。老人の体が本能的に後退ろうとして、力が入らずに雪の上でわずかに身を捩った。枯れ枝のような指が、雪を掴もうとして空を掻いた。
老人の乾いた唇が震え、かすれた声が漏れた。
「お前さん……何者だ」
答えられなかった。
落第魔術師です、とは言えた。辺境に飛ばされた雑用係です、とも。だが今の俺が見せたものは、そのどちらとも矛盾する。初級魔術すら使えなかった男が、体温を〇・一度単位で制御してみせた。この老人がそれをどこまで理解しているかはわからないが、体の内側を魔力で操作された感覚は、残っているはずだ。
雪が二人の間に降り積もる。音もなく、ただ静かに。世界はこんなにも静かなのに、俺の鼓動だけが煩い。
何者か——か。
俺自身、まだその答えを持っていなかった。