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落第魔術師の科学式詠唱

第1話 第1話

第1話

第1話

「落第」

 羊皮紙に押された朱印を見つめながら、俺はそれが自分の名前の横にあることを、三度確認した。

 エルト・ヴァーレン。初級課程修了試験——不合格。

 魔術学院の廊下は冬の朝日で白く光っていた。すれ違う同期たちが目を逸らす。昨日まで隣の席にいたやつが、まるで見知らぬ人間のように通り過ぎていく。まあ、そうだろう。落第者と目を合わせたところで、得るものは何もない。

 掲示板の前に立ち尽くしていると、背後から笑い声が聞こえた。振り向く勇気はなかったが、それが誰のものかはわかった。実技試験で俺の隣に立っていた同期だ。彼は涼しい顔で中級課程への進級を決め、俺は術式の発動すらできずに試験官から退場を命じられた。同じ二年間を過ごして、結果はこれだ。廊下の窓から差し込む光が、羊皮紙の朱印をいっそう鮮明に浮かび上がらせていた。

 担当教官のフェルマンが事務的に告げた赴任先は、王都から馬車で八日かかる辺境の寒村だった。

「ルーヴェン村。薬草の採取補助と、生活魔術の雑務が主な任務だ」

「……雑務、ですか」

「不服か?」

 不服も何もない。初級魔術すらまともに発動できない人間に、他に何ができるというのか。

「いえ。ありがとうございます」

 フェルマンは一瞬だけ眉を動かし、それ以上は何も言わなかった。情けでもかけてくれるのかと思ったが、そんなものはなかった。当然だ。学院は実力主義。結果を出せなかった者に、かける言葉などない。

 荷物をまとめるのに半日もかからなかった。教科書は売った。魔術杖は支給品だから返却した。返却窓口の事務官は、杖の状態を確認するふりをしながら俺の顔をちらりと見た。傷もなく、使い込まれた形跡もない杖——つまり、碌に魔術を行使しなかった証拠を、あの目は正確に読み取っていた。私物の鞄ひとつを肩に提げて、俺は王都の南門をくぐった。振り返らなかった——振り返ったところで、あの石壁の向こうに俺の居場所はもうないのだから。

    *

 八日間の馬車旅は、尻が割れるかと思うほど揺れた。

 街道を外れてからの三日間は特にひどい。舗装されていない泥道は車輪が轍にはまるたびにがたがたと跳ね、荷台に積まれた塩袋に何度も頭をぶつけた。御者のじいさんは無口で、話しかけても「ああ」か「いや」しか返さない。

 四日目の朝、峠を越えたあたりで馬車が大きく揺れ、荷台から半分転げ落ちそうになった。必死にしがみついた手が塩袋の縄を掴み、爪の間に麻縄の繊維が食い込んだ。御者のじいさんはそれを見ても何も言わず、ただ前を向いたまま手綱を捌いていた。道中、人家はほとんど見なかった。街道沿いに朽ちかけた宿場が二つあっただけで、そのうちひとつは屋根が崩れて廃墟になっていた。王都の喧騒が嘘のように、世界は静かだった。馬の蹄の音と、車輪が石を踏む音だけが、灰色の空の下にいつまでも響いていた。

 そうして辿り着いたルーヴェンは、想像以上に何もない村だった。

 石造りの家が二十軒ほど。中央に小さな井戸。周囲は枯れた畑と、灰色の山脈。木々は葉を落とし、空はどこまでも曇っていた。冷たい風が首筋を刺す。吐く息が白い。

「お前が新しい魔術師か」

 村長は小柄な老婆だった。背は曲がり、顔には深い皺が刻まれているが、目だけは鋭い。俺を値踏みするような視線で上から下まで見て、露骨に眉をひそめた。

「若いな。学院は何年だ」

「……二年です。初級課程で」

「落第か」

 隠すつもりもなかったが、はっきり言われると堪えた。俺は黙って頷いた。

 村長はため息をついた。深い、重い、期待を完全に捨てた種類のため息だ。

「まあいい。薬草摘みと井戸の温水維持はできるだろう。ハンナに聞け。あの家だ」

 指差された先にある石造りの小屋が、薬師の仕事場らしかった。

 薬師のハンナは三十代半ばの寡黙な女性で、俺を見るなり「手は荒れているか」とだけ聞いた。学院出だと言うと微かに鼻で笑い、翌朝から裏山の薬草摘みを命じた。

 こうして辺境の日々が始まった。

 朝は薬草摘み。昼は乾燥作業の手伝い。夕方は井戸水の温水維持——のはずだったが、これが問題だった。

 温熱魔術。初級の初級。学院の入学試験にすら出る基本中の基本。

 杖を構え、詠唱する。術式を脳裏に描き、魔力を集中する。教科書通りだ。何百回と練習した手順だ。

 ——何も起きない。

 水面がわずかにぬるくなる程度。冬場の井戸水は氷のように冷たく、これでは話にならない。額に汗がにじむほど集中しても、魔力が術式に乗らない。まるで指の隙間から砂がこぼれるように、力が散ってしまう。

「ああ、もういい。薪で沸かす」

 近くで見ていた男がそう言って、呆れた顔で薪を放り込んだ。周囲の視線が痛い。哀れみですらない。ただの失望だ。魔術師が来ると聞いて、少しは期待していたのだろう。それがこのざまだ。

 村人たちは最初から余所者に冷淡だったが、俺が使えないとわかってからはさらに距離を置いた。話しかけても最低限の返事しか返さない。目が合えば逸らされる。仕方がないとは思う。辺境の小さな共同体に、役に立たない人間を養う余裕はないのだ。

 日が落ちるのは早かった。割り当てられた小屋に戻り、硬い寝台に横になる。壁の隙間から入り込む冷気が容赦ない。毛布にくるまっても、足先の感覚がなくなる。

 王都の学院では、暖房魔術が廊下にまで行き渡っていた。あの頃は当たり前だと思っていた温もりが、今はひどく遠い。

 俺はなぜ、魔術を使えないのだろう。

 才能がない——それは学院でさんざん言われた。魔力量は平均以下。術式構築能力は最低評価。だが魔術理論の筆記だけは、なぜか学年上位の成績だった。頭ではわかるのに、体が応えない。理屈と実践の断絶。教官たちはそれを「典型的な理論倒れ」と呼んだ。

 屈辱だった。自分でもわかっていたから、なおさら。

 知識はある。理解もしている。なのに、掌から魔力がまともに出力されない。その原因が自分でもわからないことが、何より苦しかった。

 寝台の上で何度も掌を開いては閉じた。目を閉じれば、術式の構造は完璧に思い描ける。魔力の流れる経路も、変換の手順も、すべて頭の中にある。なのに、いざ発動しようとすると、掌の直前で何かに遮られるように力が霧散する。まるで見えない壁がそこにあるかのように。学院の二年間、その壁の正体を突き止めようとして、結局わからないまま放り出された。

    *

 ルーヴェンに来て二十日が過ぎた頃、冬が本格的に牙を剥いた。

 気温が一気に落ちた。昼間でも吐く息が凍る。山から降りてくる風は刃物のように鋭く、外に出るだけで体力を削られる。薬草摘みも日によっては中止になり、村全体が家の中に閉じこもる季節だった。

 井戸の水が凍りかけた日があった。村人総出で氷を割り、桶で水を汲み上げる。俺も手伝ったが、素手で桶の縄を引くと、たちまち指先の感覚がなくなった。隣で同じ作業をしていた男は、慣れた手つきで革手袋を嵌め直しながら、俺の赤く腫れた手を一瞥して何も言わなかった。王都育ちの体は、この土地の冬に全く適応できていない。

 その夜は、特に冷え込んだ。

 星が異様に近く見える夜だった。空気中の水分が全て凍りついたように、空が透き通っている。こういう夜は冷える。経験則で知っていた。

 眠れなくて小屋の外に出た。用を足すだけのつもりだった。

 白い吐息の向こうに、村外れの雪原が広がっている。月明かりに照らされた雪面が青白く光って——

 人が倒れていた。

 一瞬、見間違いかと思った。雪に半分埋もれた黒い塊。だが近づくにつれて、それが人間の輪郭だとわかる。

 走った。雪を踏み抜きながら駆け寄ると、そこにいたのは老人だった。薄い外套一枚で雪の上に横たわり、顔は蒼白、唇は紫色に変色している。

 触れた手の甲が、氷のように冷たかった。

 脈はある。かすかに、だが確かにある。まだ生きている。

 ——だが、このままでは死ぬ。それも、あと数分で。

「誰かっ!」

 叫んだが、深夜の村に反応はない。風が雪を巻き上げる音だけが返ってきた。家々の窓はすべて暗く、厚い壁の向こうに声は届かない。人を呼びに行く時間はない。この老人を抱えて村まで戻るのも、この体力では厳しい。老人の体は大きく、雪に半分埋もれた体を引き起こそうとしたが、自分の腕が震えるばかりで持ち上がらなかった。

 残された手段はひとつだけ。

 俺は震える手を老人の胸に当て、歯を食いしばった。温熱魔術。初級の初級。井戸水すらまともに温められなかった、あの術だ。

 でも、今は——

 老人の呼吸が浅くなっていた。吐く息がもうほとんど見えない。手の甲の皮膚は蝋のように白く、触れている掌を通じて、体温が急速に失われていくのがわかる。このまま何もしなければ、この人は雪の下で冷たくなって、朝になって誰かに見つけられるのだろう。それだけのことだ。辺境では珍しくもない冬の死。

 だが、俺の手はまだ、この人の胸の上にある。

「頼む」

 誰に言ったのかもわからない。ただ、目の前のこの人を死なせたくなかった。

 魔力を集中する。詠唱を始める。

 ——頭の奥で、何かが軋んだ。

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