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聖女やめて、辺境食堂はじめます

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の光で目が覚めた。

正確には、光ではなく、小鳥の声だった。窓の隙間から差し込む細い朝日の中を、羽虫が二匹、ゆらゆらと漂っている。リーネはしばらくぼんやりとそれを眺めてから、自分がどこにいるのかを思い出した。石の調理台の隅に、もたれるように眠っていたらしい。背中が冷たい。けれど痛みはほとんどなかった。前世の神殿では、硬い椅子に座ったまま二刻の仮眠を繰り返す日々だった。それに比べれば、石の床も悪くない。少なくとも、誰かに肩を揺すられて叩き起こされることがない。

立ち上がると、身体のあちこちが軋んだ。伸びをする。天井が低いから、指先は届かないが、腕を高く上げるだけで背骨が鳴った。窓辺に寄り、蔦の隙間から外を覗く。朝靄が窪地を薄く覆っていて、草の上に露が光っている。空気が冷たい。吸い込むと、肺の奥まで澄んだ冷気が満ちた。

「……まず、水」

声に出すと、昨夜聞いたかすかな水音を思い出した。小屋の裏手だ。

入口の板戸を押し開け、外に出る。朝露に濡れた草が素足に冷たい。小屋の壁に沿って裏手に回ると、石組みの壁面から水が染み出していた。苔の間を伝って細く流れ落ち、地面に掘られた浅い窪みに溜まっている。人の手で整えられた水場の名残だった。縁石が据えてあり、溢れた水が小さな溝を通って窪地の斜面へ流れ落ちるようになっている。

手を差し入れてみる。指先が痺れるほど冷たい。掬って口に含むと、硬さのない、柔らかな水だった。甘みはないが、喉を通るときにすっと消えるような軽さがある。湧き水だ。鑑定の目が無意識に働く——濁りなし、鉄気なし、飲用に適す。

「これなら、使える」

水場が生きているなら、ここで暮らせる。屋根があり、壁があり、竈があり、水がある。あとは火と、食べるものだ。

リーネは小屋に戻り、まず蔦を剥がすことから始めた。窓を覆う蔦を一本ずつ引き、光を入れる。根が石の隙間に食い込んでいるものは無理に剥がさず、窓と入口の周囲だけを丁寧に取り除いた。日が高くなるにつれて室内が明るくなり、昨夜は見えなかった細部が浮かび上がってくる。

竈の造りは、明るい光の下で見るといっそう精緻だった。三つの焚口はそれぞれ内壁の厚みが異なり、大きな焚口は壁が薄く、小さな焚口は分厚い。薄い壁は熱を早く伝え、厚い壁はゆっくりと伝える。火力の調節を、構造そのもので行う設計だ。煙道は竈の背面を通って天井の穴に抜けている。覗き込むと、途中で管が細くなっていた。引きを強めるための工夫だろう。

前世の神殿にも大きな厨房があったが、竈は単純な箱型で、火力の調節は薪の量と送風に頼っていた。こんな仕組みは見たことがない。造った人間は、火と熱と空気の流れを深く理解していた。

焚口の中に手を入れ、内壁を指で撫でる。煤の痕跡はない。最後に使われてから気の遠くなるような時間が経っているのか、あるいは煤が残らないほど完全な燃焼をしていたのか。どちらにせよ、今のリーネに確かめる術はなかった。

棚の壺をひとつずつ確認していく。大半は空だったが、いくつかの壺の内壁に残滓がこびりついている。乾燥した粉末、結晶化した液体、紙のように薄くなった葉。いずれも用途はわからないが、保存のために意図的に密封されていた形跡があった。この場所を最後に使った人間は、また戻ってくるつもりだったのかもしれない。

昼近くになって、リーネは森へ向かった。小屋の周囲に食べられそうなものは見当たらなかったが、昨日通った獣道の脇に、見覚えのある草がいくつか生えていたのを思い出したのだ。

森の入口は小屋から歩いて数分の距離だった。木立の根元に、前世で覚えた野草が自生している。ナズナに似た白い花をつけた草、茎を折ると粘りのある汁が出る蔓草、地面を這う肉厚の葉。いずれも食用に適するものだ。鑑定の目が、毒性のないことを確かめる。聖女として叩き込まれた知識が、ここではそのまま生きる技術になった。皮肉といえば皮肉だが、今はありがたかった。

両手に抱えられるだけの野草を摘み、水場で丁寧に洗う。泥を落とし、虫を払い、傷んだ葉を除く。前世では味わう暇もなく喉に流し込んでいた食事が、今は手の中にある。自分で摘んで、自分で洗って、自分で作る。その工程のひとつひとつが、妙に新鮮だった。

竈に火を入れるときが来た。

焚口の前にしゃがみ、小屋の周囲で拾い集めた乾いた小枝と枯れ草を、中くらいの焚口に組む。火打ち石は棚の隅に転がっていたものを使った。何度か打ち合わせると、火花が枯れ草に移り、細い煙が立ち上がった。小枝に火が移る。炎が安定するまで、そっと息を吹きかけて育てる。

火が焚口に馴染んだ瞬間、竈の空気が変わった。

炎が、吸い込まれるように奥へ向かう。煙道の引きが強い。けれどそれだけではなかった。少量の小枝にしては、熱が異様に強い。焚口の上に翳した手のひらが、すぐに熱くなる。同じ量の薪であれば、前世の厨房の竈の倍——いや、それ以上の熱量がある。

「……こんなに、少しの火で」

内壁の石が蓄熱しているのだ。焚口に投じた熱を逃さず、壁全体で抱え込んで放射する。だから少ない燃料で、大きな火力が得られる。竈という形をした、ひとつの精密な装置だった。

棚にあった金属の鍋——底が丸く、取っ手のない独特の形——を竈に載せ、水を張る。沸くまでの時間が、驚くほど短かった。湯気が立ち始めると、リーネは野草をちぎって鍋に入れた。白い花の草を先に、粘りのある蔓草を後から。肉厚の葉は最後に、火を落としてから余熱で。

特別なものは何もない。野草と水だけの、素朴な汁物だった。

鍋から椀——これも棚にあった石の器——に注ぐと、薄い緑色の汁が湯気を立てた。香りは青く、少し苦い。両手で器を包み、口元に運ぶ。

熱い。舌先に苦味が触れ、そのすぐ後を追うように、草の青い甘みがふわりと広がった。喉を通ると、胃の底にじんわりと温かさが落ちていく。美味いとは言い難い。味付けもない、ただ茹でただけの野草の汁だ。けれどリーネは、二口目を運ぶ手を止められなかった。

自分で摘んで、自分で火を起こして、自分で作ったもの。その事実が、舌の上の苦味よりもずっと温かい。前世では、冷めた粥の味すら覚えていない。味わうことが許されなかった。今、この器の中の素朴な汁物を、誰に急かされることもなく口に運んでいる。その一口ごとに、身体のどこかで凍っていたものが少しずつ溶けていくような気がした。

器を空にして、リーネは小さく息をついた。竈の残り火がぱちりと爆ぜる。窓から午後の光が差し込んで、石の調理台を白く照らしている。静かだった。虫の声と、風の音と、竈が冷えていく微かな音だけが、小屋の中を満たしている。

「……明日は、もう少しましなものを作ろう」

誰に言うでもなく呟いて、リーネは立ち上がった。鍋と器を水場で洗い、棚に戻す。竈の灰を掻き出し、焚口の周りを掃除する。ひとつひとつの動作が、ここでの暮らしの輪郭を少しずつ描いていく。

夕方近く、小屋の裏手で薪に使えそうな枝を探していたとき、足元に違和感があった。

草に隠れていたが、地面の感触が違う。土ではなく、硬い。しゃがんで草を掻き分けると、石が見えた。平たく整えられた石が、規則的に並んでいる。人の手で据えられたものだった。

土を払っていくと、石組みの範囲が広がった。一辺が三歩ほどの正方形に、切り揃えた石が敷き詰められている。その中央に、地面と段差のある部分があった。石の蓋のように見える。縁に指をかけて持ち上げようとしたが、重い。体重をかけてずらすと、石の擦れる低い音とともに、暗い隙間が現れた。

地下へ続く石段が、闇の中に沈んでいた。

冷たい空気が、地面の裂け目から吹き上がってくる。土と石の匂いに混じって、かすかに——あの甘い香りがした。小屋に入ったとき、最初に感じたのと同じ、蜜のような深い残り香。

リーネは石段の縁にしゃがんだまま、しばらく暗がりを見つめていた。降りてみたい気持ちはある。けれど日が傾いている。明かりもない。今日はやめておこう。

石の蓋を元に戻し、位置がわかるように傍の草を結んで目印にした。立ち上がると、西の空が茜色に染まり始めていた。明日の朝、明るくなってから降りればいい。急ぐ理由はどこにもない。

小屋に戻り、竈にもう一度火を入れた。夜の冷え込みに備えて、大きな焚口に太めの枝を組む。炎が安定すると、小屋の中がほのかに温まった。竈は暖を取るにも申し分ない。

壁の古代文字が、炎の光を受けて影を揺らしている。昨夜のように光ることはなかった。けれどリーネは、あの文字が竈と無関係ではないことを、なんとなく感じていた。この場所にはまだ、知らないことがたくさんある。

地下には何があるのだろう。あの甘い香りの正体は何だろう。

答えを急ぐつもりはなかった。今日は火を起こせた。汁物を作れた。それで十分だ。明日には明日の発見がある。

リーネは竈の前に座り、炎を眺めた。火の粉がときおり舞い上がり、煙道に吸い込まれて消えていく。静かな夜だった。前世の夜とは、何もかも違う夜だった。

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