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聖女やめて、辺境食堂はじめます

第3話 第3話

第3話

第3話

朝になって、リーネは地下への石段の前に立っていた。

昨日結んでおいた草の目印は、朝露に濡れてしんなりと倒れかけている。石の蓋をずらすと、昨日と同じ冷たい空気が吹き上がってきた。あの甘い香りが、今朝はいっそう濃い。夜のあいだに地下の空気が凝縮されたのだろうか。鼻の奥をくすぐるような、蜜と穀物の中間にある匂い。前世のどの記憶にも重ならない、知らない香りだった。

竈の残り火から移した小枝の松明を手に、リーネは一段目に足をかけた。石段は乾いていて、滑る気配はない。幅は肩より少し広い程度で、壁の両側に手をつけば身体を支えられる。七段、八段と降りていくうちに、地上の光が背中の向こうに遠のき、松明の揺れる明かりだけが頼りになった。

十二段で、底についた。

足裏に伝わる感触が変わった。階段と同じ石だが、平らに磨かれている。松明を掲げると、炎の光が思いのほか遠くまで届いた。天井は低く、腕を伸ばせば指先が触れるほどだ。壁は上の小屋と同じ精巧な石組みで、継ぎ目にはわずかな隙間もない。空気は冷たいが、澱んではいなかった。どこかに通気の仕組みがあるらしく、松明の炎がごくわずかに横へなびいている。

そして——棚だった。

壁の両面に、石を刳り抜いた棚が天井近くまで並んでいる。三段、四段、五段。奥行きは腕の半分ほど。その棚のひとつひとつに、壺や瓶や布に包まれた塊が、行儀よく収められていた。埃は薄くかかっているが、崩れたり倒れたりしているものはほとんどない。整然と、丁寧に、いつか使うために保管された食材たち。

リーネは松明を壁の金具——これも備えつけてあった——に差し、両手を空けた。一番手前の棚から、順に確かめていく。

最初に目についたのは、琥珀色の粒だった。

拳ほどの壺の蓋を開けると、中に小さな粒が詰まっている。米粒よりひとまわり大きく、表面に透明感がある。色は深い琥珀で、光を受けると内部に金色の筋が走って見えた。指先で一粒つまむと、硬い。石のようだ。乾燥しきっているが、割れる気配はない。鼻に近づけると、あの甘い香りの源のひとつだとわかった。穀物に似ているが、穀物とは違う。前世の知識をどれだけ探っても、該当するものがない。

鑑定の目が、じわりと反応した。聖女として叩き込まれた能力——食材や薬草の性質を、触れることで読み取る技術。意識して使おうとしたことはあまりない。前世ではもっぱら毒の判定と薬草の選別に使わされていた。今、指先に触れた琥珀の粒から流れ込んでくる情報は、断片的だが確かだった。

高い栄養価。長期保存に適した構造。水を含むと膨張し、粘性を持つ。加熱により旨味成分が溶出する。

穀物のようで穀物でない。乾物のようで乾物でない。リーネは壺を棚に戻し、次の棚に手を伸ばした。

布に包まれた束を開くと、青い鱗が現れた。

魚の鱗に似ているが、色が違う。深い藍色で、一枚一枚が爪の先ほどの大きさしかない。乾燥して薄い板状になっているが、割ってみようとしても簡単には折れなかった。表面に指を当てると、鑑定の目がまた動く。

水で戻すと元の弾力を回復する。強い旨味成分を含有。少量で出汁が取れる。

魚なのか、それとも別の生き物のものなのか。前世の海にも川にも、こんな色の鱗を持つものはいなかった。けれど「旨味」という言葉が、胸のどこかに引っかかった。

さらに奥の棚には、根菜らしきものがあった。拳より少し大きく、表面が乾いて皺が寄っている。薄い皮を爪で剥くと、中身は黄色がかった白で、切り口から微かに甘い香りが立った。鑑定の目は、でんぷん質が多く、加熱で甘みが増すと告げている。

琥珀の穀物、青い鱗の乾物、甘い根菜。見たことのない食材が、この地下にはまだいくつも眠っている。棚はこの通路の奥にも続いていて、暗がりの先がどこまで伸びているのかは松明の光では見通せなかった。

リーネは手前の三種だけを両腕に抱えて、石段を上がった。地上に出ると、朝の光が眩しかった。

小屋に戻り、調理台の上に三つの食材を並べる。琥珀の粒、青い鱗、甘い根菜。どれも未知のものだ。味も食感もわからない。前世であれば、鑑定結果を報告書に記して厨房に回し、自分が口にすることはなかっただろう。聖女の仕事は判定であって、調理ではなかった。

けれど今、この竈の前に立っているのは聖女ではない。

リーネは中くらいの焚口に火を入れた。昨日と同じように、少しの小枝であっという間に熱が立ち上がる。金属の鍋に水を張り、琥珀の粒をひと掴み落とした。

最初は何も起きなかった。粒は鍋底に沈んだまま、石のように硬い姿を保っている。水がぬるくなり、やがて細かな泡が立ち始めた頃——粒が膨らみ始めた。ゆっくりと、本当にゆっくりと。琥珀の色が薄くなり、粒の輪郭がぼやけて、互いに溶け合うように崩れていく。鍋の中の水が、透明から乳白色に変わった。

匂いが変わった。あの甘い香りの奥から、もっと深い、複雑な芳香が立ち上ってくる。穀物を炊いたときの素朴な匂いではない。出汁を引いたときに近い、旨味の凝縮された香り。鍋の中身はとろりとした粥のような状態になり、表面がことことと小さく波打っている。

木の匙で掬い、唇に近づける。熱い。ふうふうと息を吹きかけて、少しだけ口に含んだ。

舌の上で、濃厚な旨味が広がった。穀物の粥とは別物だ。出汁そのものを飲んでいるような、深い、丸い味わい。ほのかに甘みがあり、後味にかすかな苦味が残る。それが不快ではなく、もう一口を誘う。身体が温まるのがわかった。胃の底から、じんわりと。

「……これは」

呟いて、リーネは匙を鍋に戻した。こんな食材が、あの地下に眠っていた。いったい誰が、何のために集めて保存していたのだろう。

小さな焚口にも火を入れ、別の鍋に水を張った。青い鱗を数枚、水に浸す。しばらくは何も変わらなかった。火にかける前に、まず水で戻してみようと思ったのだ。

鍋の前にしゃがんで待つ。窓から差し込む光の角度が変わり、調理台の影が少しずつ動いていく。急ぐ理由はない。この時間そのものが、前世にはなかったものだ。鍋の中の水を覗き込みながら、ただ待つということ。何かに追われることなく、目の前の変化をただ見守るということ。

やがて、鱗が変化し始めた。乾いた薄板だったものが、水を吸って厚みを取り戻していく。藍色が鮮やかになり、縁が半透明に変わった。一枚を箸で挟み上げてみると、ぷるりとした弾力がある。指で押すと跳ね返す。引っ張ると伸びて、離すと戻る。

こんな食感のものは、前世にもなかった。

端をちぎって口に入れてみる。噛むと、弾力の奥から旨味が染み出した。魚の干物に似ているが、もっと澄んでいて、臭みがない。噛めば噛むほど味が出る。歯触りの良さが心地よく、気づけば二枚目に手が伸びていた。

戻し汁も味見してみた。鱗から溶け出した成分で、水がほんのり青みがかっている。口に含むと——これも旨い。琥珀の穀物の濃厚さとは違う、澄んだ旨味が舌を洗うようだった。

調理台の上に並んだ食材を、リーネはしばらく見つめた。琥珀の穀物は出汁の素材になる。青い鱗は、具にも出汁にもなる。甘い根菜はまだ試していないが、鑑定の目が告げた通りなら、加熱すれば甘みが増すだろう。この三つを組み合わせたら、何ができるだろう。

胸の奥で、何かが動いた。

前世にはなかった感覚だった。義務でも使命でもない。誰かに命じられたわけでもない。この手で、この食材で、何かを作りたい。この竈の火で、自分の食べるものを作りたい。ただそれだけの——けれど確かな衝動が、指先に熱を送っている。

自分のために料理を作りたい。

その思いは、聖女だった頃のリーネには存在しなかったものだった。神殿で作られる食事は聖女のためのものではなく、聖女の身体を維持するためのものだった。味も見た目も関係ない。必要な栄養を、必要なだけ摂取する。それは料理ではなく、補給だった。

今、目の前にある未知の食材は、誰のためでもない。リーネが見つけ、リーネが調べ、リーネが味見をした。この続きを作るのも、リーネだ。

竈の火が、ぱちりと爆ぜた。小さな火の粉が舞い上がり、煙道に吸い込まれていく。窓の外では、午後の風が草を揺らしている。

リーネは琥珀の粥の鍋を火からおろし、蓋をした。明日、この粥と青い鱗と、まだ試していない甘い根菜を合わせてみよう。一つの料理として、組み立ててみよう。どんな味になるかはわからない。失敗するかもしれない。でも、それでいい。

自分のために作って、自分で食べる。そのためだけに、明日の朝が待ち遠しいと思えること自体が、今のリーネにとっては小さな奇跡だった。

鱗の戻し汁を一口すすりながら、リーネはふと窓の外に目をやった。西の空が赤みを帯び始めている。今日もまた、静かな夕暮れが来る。誰にも急かされない夜が来る。そして明日には——自分だけの料理が待っている。

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