第2話
第2話
灰燼の迷宮、第一層。
松明の炎が照らす範囲は、せいぜい五歩先までだった。それより向こうは灰色の闇が壁のように立ちはだかり、光を吸い込んで返さない。レインは壁に左手を添えながら、慎重に足を進めていた。指先に伝わる岩肌の感触は乾いていて、微細な灰の粒子がざらざらと皮膚を擦る。歩くたびに靴底が灰を踏み、くぐもった音が通路に反響した。
第一層は何度か歩いた記憶がある。薬草採取で第三層まで潜った二度の経験が、身体に最低限の地図を刻んでいた。分岐を三つ越え、傾斜が急になる下り坂に差しかかると、空気の質が変わった。湿度が上がり、壁面にうっすらと水滴が浮いている。灰が湿気を含んで黒ずみ、指で触れると泥のように指紋の跡が残った。
第二層への境界を示す、ギルドが打ち込んだ鉄杭を確認する。杭に巻かれた革紐は朽ちかけていて、最後にここを調査した者がいつだったかを物語っていた。レインは羊皮紙の地図を広げ、松明の光で現在位置を確かめた。ここまでは既知の領域だ。問題は第四層から先——地図の記載が曖昧になり、最後の数層は走り書きのような線だけが引かれている区間に入ってからだった。
第二層を抜け、第三層に入った頃から、迷宮は表情を変え始めた。
通路の幅が狭まり、天井が低くなる。松明を掲げると、頭上の岩盤に刻まれた古い亀裂が蜘蛛の巣のように広がっているのが見えた。火山活動の名残だ。亀裂の隙間から、鉄錆に似た匂いが微かに漂ってくる。地下深くの鉱脈が空気に溶け出しているのだろう。
足を止めた。
首筋の産毛が逆立つ感覚——レインはこれを「気配の糸」と呼んでいた。三年間の冒険者生活で磨かれた、唯一の武器。攻撃力も防御力もないEランクの身体が、生存のためだけに研ぎ澄ました感覚だった。
音はない。空気の流れにも変化はない。だが何かがいる。通路の先、松明の光が届かない曲がり角の向こうに。
レインは松明を左手に持ち替え、右手で腰の短剣に触れた。抜かない。抜いたところで意味がない。代わりに、足元の灰を一掴み拾い上げた。
曲がり角に近づき、灰を投げる。灰色の粒子が空中に広がった瞬間、闇の中で何かが動いた。反射的に身を翻す。岩壁に背中をぶつけながら横に跳び、通路の窪みに身体を押し込んだ。
直後、曲がり角から灰褐色の体表を持つ蜥蜴型の魔物——灰蜥蜴が飛び出した。体長は一メートルほど。牙が松明の光を反射して黄色く光る。灰蜥蜴はレインが投げた灰の残滓に一瞬だけ気を取られ、窪みに潜んだレインの存在を見失った。
その隙に駆ける。曲がり角を抜け、下り勾配の通路を全力で走った。灰蜥蜴の爪が岩を引っ掻く音が背後で響いたが、追ってはこなかった。縄張りの端まで来たのだ。
息を整えながら、レインは壁に背を預けた。心臓が肋骨を叩いている。喉の奥がひりつき、吸い込んだ灰の粒子が気管をざらざらと擦った。額を伝う汗が顎から落ち、乾いた岩肌に小さな染みを作った。灰蜥蜴はEランクでも対処可能な魔物だが、正面から斬り合えば無傷では済まない。逃げることは恥ではない。死なないことが、レインの最大の技能だった。
第四層は、それまでの層とは明確に空気が違った。
通路が広くなった。天井が高い。松明の光では上端が見えないほどの空間が、いくつも連なっている。灰の堆積が厚くなり、足首まで埋まる場所もあった。一歩ごとに灰が舞い上がり、視界が白く霞む。レインは布で口元を覆い、呼吸を浅くした。
壁面に刻まれた溝を辿る。これは過去の調査隊が残した目印だ。一定間隔で刻まれた横線を数えながら進めば、少なくとも既知の通路から外れることはない。六本、七本、八本——十二本目の溝を数えた時、レインの足が止まった。
溝が途絶えている。
ここから先は、地図の走り書きすら怪しい領域だった。レインは羊皮紙を確認し、方角を頭の中で組み立て直した。第五層への下降路は、この広間の北東——今立っている場所から見て右奥のはずだ。
広間を横切り始めた時、それは来た。
気配の糸が、身体中で同時に引き絞られた。首筋だけではない。背中、腕、腿の裏——全身の産毛が一斉に逆立つ。これまで感じたことのない規模の警告だった。内臓が縮み上がり、喉の奥に酸っぱいものがこみ上げる。視界の端が暗く狭まり、指先から血の気が引いていく。膝が笑い出すのを、奥歯を噛み締めて堪えた。身体が本能の水準で理解していた——これは、逃げられるかどうかすら怪しい相手だと。
足元が揺れた。
地鳴りではない。何かが、灰の下を移動している。
広間の中央、厚く堆積した灰が盛り上がり、崩れた。灰の中から現れたのは、巨大な節足の先端だった。甲殻に覆われた脚が一本、二本、三本と灰を押しのけて突き出てくる。体節の継ぎ目から鈍い光が漏れ、腐った卵に似た硫黄の臭気が広間に充満した。一息吸い込んだだけで舌の根が灼け、涙が滲んだ。布越しでも防ぎきれない濃さだった。
灰蟲。第四層の主と呼ばれる大型の節足魔物だ。地図の注釈に「複数名での対処を推奨」と走り書きされていた存在が、今、灰の海から全身を持ち上げようとしている。体長は三メートルを優に超え、無数の脚が灰を掻きながら方向を定めていた。頭部の複眼がゆっくりとレインの方を向く。
走った。
考える前に身体が動いていた。北東の通路口に向かって灰を蹴立てながら駆ける。背後で灰蟲が咆哮した——喉ではなく体節の隙間から空気を押し出す、笛のような甲高い音。広間全体が振動し、天井から灰の塊がぼろぼろと落ちてくる。
通路口まであと十歩。灰蟲の脚が地面を打つ衝撃が、足の裏を通じて伝わってくる。速い。この体躯でありながら、直線の速度はレインと大差ない。
八歩。振り返る余裕はない。代わりに気配の糸が教えてくれる——右後方、三歩の距離まで迫っている。
五歩。レインは松明を後方に放り投げた。灰蟲の複眼が光源を追い、一瞬だけ突進の軌道がずれる。その隙に通路口へ滑り込んだ。
狭い。灰蟲の巨体は通路に入れない。甲殻が岩壁に衝突し、轟音とともに壁面が砕けた。破片が飛び散り、灰が爆発的に舞い上がる。レインは腕で顔を庇いながら通路の奥へ走った。
だが灰蟲は諦めなかった。通路に入れないなら、通路ごと壊す。体節を岩壁に叩きつけ、節足で掘削するように壁を崩し始めた。岩盤が軋み、天井に亀裂が走る。
足元が傾いた。
崩落が始まっていた。灰蟲の破壊が引き金となり、通路の天井が耐えきれなくなったのだ。レインは全力で走った。背後から岩塊が落下し、灰と砂礫が雪崩のように追いかけてくる。粉塵で視界はゼロに等しい。気配の糸だけを頼りに、足を止めない。右に——直感が叫ぶ。身体を右に投げ出した瞬間、左の壁が崩れ落ち、いた場所を岩塊が埋め尽くした。
轟音が遠ざかる。
粉塵が薄れるまで、どれほどの時間がかかったかわからない。数十秒か、数分か。レインは暗闇の中でうつ伏せに倒れていた。全身が灰にまみれ、左肩に鈍い痛みがある。岩の破片が当たったらしい。だが骨は折れていない。指を一本ずつ握り、膝を曲げ、身体の各部が動くことを確認した。生きている。まだ、生きている。松明は失った。予備を腰の袋から取り出し、火打ち石を擦る。三度目で火が点いた。揺れる炎に照らされた自分の手が震えているのが見えた。恐怖が、時間差で全身を這い上がってくる。
振り返ると、来た方の通路は完全に埋まっていた。灰蟲の咆哮はもう聞こえない。岩と灰の壁が、数メートルの厚さで退路を塞いでいる。
前を向いた。
松明の光が、見知らぬ通路を照らしていた。地図にはない道だ。崩落で露出した岩壁の断面は、それまでの灰色とは異なり、深い蒼灰色をしている。壁面は滑らかで、自然の侵食では説明がつかない精度で削り出されていた。天井の高さは均一で、通路の幅も左右対称に整えられている。
人の手が——あるいは、人ならざる何かの意図が加わった空間だった。
空気が違う。第四層までの乾いた灰の匂いではなく、ずっと深い場所の、水と鉱物が長い時間をかけて混じり合った冷たい気配。肌に触れる空気の温度が二度ほど低い。そして微かに、本当に微かに——水の流れる音が聞こえた。
レインは唾を飲み込み、地図にない通路の先を見据えた。松明の光は十歩先で闇に呑まれ、その向こうに何があるのかは見えない。退路はない。進むしかなかった。
一歩を踏み出す。蒼灰色の床は灰の堆積がなく、靴底が硬い石を踏む澄んだ音が通路に響いた。その音が奥へ奥へと伝わり、こだまとなって返ってくる。反響の仕方から、この先にかなりの広さを持つ空間があると知れた。
胸の奥で、あの律動がまた脈打った。入口で感じたものより、はっきりと。