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灰燼の迷宮と守護術師の帰還

第1話 第1話

第1話

第1話

朝の鐘が三度鳴り終わる前に、レイン・アッシュフォードは宿の寝台から転がり落ちた。

固い木の床が背中を打ち、一瞬だけ息が詰まる。天井の染みを見上げながら、鐘の余韻が薄い壁を震わせて消えていくのを聞いていた。三度目の鐘——つまり、夜明けの第三刻。身体を起こすと、寝台の藁が擦れる乾いた音がした。毛布は足元に丸まっている。夜中に何度も寝返りを打った証拠だった。

安宿の薄い壁を通して、隣室の冒険者が仲間と笑い合う声が聞こえる。今日はCランク昇格試験の結果発表だ。同期のうち四人がそこに名を連ねるはずだった。三年前、同じ日に冒険者登録を済ませた顔ぶれ。レインだけが、いまだEランクの刻印が押された革札を首から下げている。革札を手に取ると、Eの刻印の周囲が指の脂で黒ずんでいた。三年分の重さを、この小さな札だけが正確に記録している。

水差しの水で顔を洗い、錆びた鏡を覗く。二十二にしては疲れた目をした青年が映っていた。水滴が顎を伝い、木の床に染みを作る。鏡の縁に浮いた錆が、映る顔の輪郭を歪めていた。特別に痩せているわけでも、体格が劣るわけでもない。ただ、身体強化スキルの適性値が規格外に低い——冒険者ギルドの測定器が示した数値は、下限値すら割り込んでいた。測定師が二度計り直し、三度目に首を振ったあの日の光景を、レインは今でも鮮明に覚えている。魔力はある。だが身体に還元する回路が細すぎて、剣を振っても拳を握っても常人と変わらない威力しか出ない。

唯一の取り柄は、死なないこと。危険を察知する感覚だけが人並み以上に鋭く、三年間、レインは一度も致命傷を負わずに生き延びてきた。逃げ足だけで。

革の胸当てを締め、腰に短剣を差す。胸当ての内側には自分で縫い直した補修の跡が幾つもあり、革紐は二本が替えのものに変わっている。刃は最低限の手入れだけ施してある。振るう機会より、岩肌に打ち込んで足場を作る機会の方がずっと多い代物だ。宿の廊下に出ると、階段の途中で顔見知りの冒険者とすれ違った。相手の視線がレインの首元の革札をちらりと見て、そのまま通り過ぎる。声はかからない。もう三年も同じ宿にいるのに、名前を呼ばれたことは数えるほどしかなかった。

辺境の街フェルノートは、大陸の東端に位置する小さな交易拠点だ。北の山脈から流れ込む冷たい風が年中吹き抜け、石畳はいつも薄く湿っている。朝靄の残る通りを歩くと、パン屋の煙突から焼きたての匂いが漂ってきた。小麦と蜂蜜を練り込んだ丸パンの香りだ。店先では主人が焼き上がりを窓台に並べている最中で、湯気が朝靄と混じって白く立ち上っていた。腹が鳴る。だが今月の残金を考えれば、朝食は乾燥肉の切れ端で済ませるべきだった。腰の革袋から指二本分の肉片を取り出し、歩きながら噛む。塩気ばかりが強く、三度噛んでも繊維がほぐれない。それでも胃に何か入れておかなければ、迷宮では動けない。

ギルドの扉を押し開けると、いつもより人が多い。掲示板の前に人だかりができていて、歓声と拍手が響いていた。Cランク昇格者の名前が張り出されたのだ。

「やったな、マルク!」 「セリアも受かったぞ! 今夜は奢りだ!」

四つの名前。見覚えのある字の並び。三年前、ギルドの講習室で隣に座っていた連中だ。マルクは当時から大剣の筋が良く、講師に一番手で名指しされていた。セリアは回復術師志望で、いつも教本に付箋を挟んでいた。レインは人だかりを避けて受付の端へ向かった。朝一番の依頼書を確認するためだ。Eランクに回ってくるのは、薬草採取か荷運びか、あるいは——。

「アッシュフォード」

受付のカイラが、いつもの無表情でレインを呼んだ。彼女は余計なことを言わない。同情も嘲笑もなく、ただ業務として依頼書を差し出す。その淡白さが、レインにはありがたかった。

「灰燼の迷宮、下層調査。第六層から第七層の現況確認と地図の更新。単独可。報酬は——」

カイラが読み上げた金額に、レインは片眉を上げた。Eランク依頼にしては破格だ。宿代三月分に相当する。裏を返せば、誰もやりたがらないということでもある。

「パーティ推奨は?」 「三名以上。ただし現在、同行希望者はゼロです」

カイラの声に抑揚はない。事実を述べただけだ。だが事実というのは、時として刃より鋭く刺さる。三名推奨で希望者ゼロ。その意味を噛み砕くまでもない。Eランクの単独行に付き合う物好きは、この街にはいないのだ。レインは依頼書を手に取った。羊皮紙の端が少し湿っていて、インクが滲んでいる。

「受ける」 「確認します。単独での第七層到達は危険度Cに該当しますが、Eランク冒険者の判断で——」 「受けるよ、カイラ」

短く繰り返すと、カイラは一瞬だけレインの目を見て、それから依頼書に受理の印を押した。押印の乾いた音が、喧騒の隙間を縫って妙にはっきりと聞こえた。

背後で昇格祝いの喧騒が続いている。誰かがレインの方を振り返り、隣の者に何か囁いた。聞こえなかったふりをするのは、もう慣れていた。

「——まだ辞めてなかったのか、あいつ」

聞こえていた。いつだって聞こえている。三年前は悔しさで拳を握ったが、今はもう指一本動かない。感情が摩耗したのではなく、反応するだけの余力を身体が節約するようになったのだ。レインは依頼書を胸ポケットにしまい、ギルドを出た。朝靄はまだ晴れていなかった。

フェルノートの東門を抜けると、未舗装の街道が山裾へ向かって伸びている。灰燼の迷宮は街から半日の距離にあった。かつて大規模な火山活動で形成された洞窟群が、長い年月を経て地下深くまで枝分かれしたものだ。名前の由来は内部に堆積した火山灰——壁も床も天井も、灰色の粒子で覆われている。

街道の両脇には背の低い灌木が続き、時折、荷馬車の轍が泥の中にくっきりと残っていた。歩きながら、レインは過去の調査記録を思い返していた。灰燼の迷宮は全七層構造。第五層までは複数のパーティが踏破済みで、第六層も部分的に地図が作られている。第七層は公式記録では「行き止まり」。それ以上の深度は存在しないとされている。

日が傾き始める頃、迷宮の入口が見えた。

山肌に穿たれた横穴は、大人三人が並んで通れるほどの幅がある。入口の周囲には冒険者ギルドが設置した標識と、簡素な柵。灰色の岩壁が奥へと続き、松明の届かない先は闇に沈んでいた。標識の木板は風雨に晒されて文字が薄れかけており、「第五層以降——パーティ必須」の警告だけが赤い塗料で上書きされていた。

レインは松明に火を点け、入口の前に立った。灰と埃の混じった空気が、洞窟の奥から吹き上がってくる。乾いた、古い匂い。何百年も前から変わっていないであろう空気の層が、肌の上を這うように流れた。松明の火が灰色の粒子を照らし、空気中に浮遊する微細な灰が、まるで雪のように光の中で舞っていた。

足を踏み入れようとした瞬間、立ち止まる。

既視感だった。

この空気を知っている。この暗がりの先に何があるか、身体のどこかが覚えている気がする。松明の炎が揺れた。風ではない。レインの手が、微かに震えていた。

馬鹿げている——と、頭では思う。灰燼の迷宮には過去に二度入ったことがある。どちらも第三層までの薬草採取で、下層には足を踏み入れてすらいない。この感覚に根拠はない。

だが胸の奥で、何かが脈打っていた。心臓の鼓動とは別の、もっと深い場所にある振動。肋骨の内側を内から叩くような、低く、遠い律動。呼ばれている、と思った。暗闇の底から、途方もなく長い時間をかけて、誰かがずっと呼んでいたような——。

レインは目を閉じ、深く息を吸った。灰の匂いが肺を満たす。吐き出すと、震えは止まっていた。理屈はわからない。だが三年間、この感覚——言葉にならない直感だけを頼りに生き延びてきた。今、その直感が告げている。行け、と。

レインは息を吐き、一歩を踏み出した。松明の灯りが灰色の壁を照らす。足元の堆積した灰が、靴底の下でかすかに軋んだ。

背後で、入口から差し込んでいた夕陽が細くなっていく。振り返らなかった。振り返る理由が、フェルノートにはなかった。

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