第3話
第3話
あの朝から三日が経った。
三日間、私は何事もなかったかのように過ごした。使用人棟で目を覚まし、最低限の身支度を整え、学園の講義に出席し、図書室で魔法理論の文献を読み漁り、薬草学の教科書に付箋を挟む。誰にも話しかけず、誰の目にも留まらない——六年かけて完成させた透明な日常を、いつも通りなぞっていた。
けれど手のひらだけが、いつも通りではなかった。
ふとした瞬間に熱を感じる。講義中にペンを握る指先が、ほんの一瞬だけ金色に滲む。誰にも見えない程度のかすかな光。それでも心臓が跳ね上がる。あの礼拝堂での出来事は幻覚ではなかったのだと、この手が何度も証明してくる。
そして四日目の朝、答え合わせが来た。
学園の中庭を横切ろうとしたとき、背後から声がかかった。
「——おい、ヴァルモンの」
低く、しかし通る声。振り返ると、木陰にもたれるようにして一人の青年が立っていた。騎士科の制服に腕を組み、木漏れ日の中で琥珀色の目がまっすぐにこちらを見ている。
レオン・ド・グランヴィル。騎士団長の嫡男にして、『聖輝のエトワール』第二の攻略対象。
『——最悪だ』
接触回避。それが大前提だったのに、向こうから来た。しかもこの人物は、ゲームにおいて「直感型」として設定されている。理屈よりも勘を信じ、嘘を見抜く目を持つ——攻略対象の中で最も誤魔化しにくい相手。
「リゼットですわ。セレスティーヌ・ド・ヴァルモン、と呼んでいただいても構いませんけれど」
平静を装い、公爵令嬢の微笑みを貼り付けた。このまま挨拶だけ交わして立ち去れれば上出来だ。
「名前はどうでもいい」
取り付く島もなかった。レオンが木陰から一歩踏み出す。長身が影を落とし、朝の陽光を背にしたその表情が読み取りにくい。
「三日前の朝、礼拝堂にいただろう」
心臓が止まった——ように感じた。実際には脈が速まっただけだろうが、血の気が引く感覚は確かだった。
「礼拝堂には毎朝参っておりますわ。信仰深い令嬢ですもの」
「俺が聞いてるのは祈りの話じゃない」
レオンの目が細まった。琥珀色の虹彩に、朝日の光が鋭く反射する。
「あの光は何だ」
沈黙が落ちた。中庭の噴水の音が、やけに大きく聞こえた。遠くで学園の鐘が講義の開始を告げているが、レオンは動かない。私も動けない。
『見られていた』
あの朝、礼拝堂を出るとき感じた視線。気のせいではなかった。首の後ろの冷たさは、前世から受け継いだ正確な警報だった。
選択肢を頭の中で並べる。全面否定。部分的肯定。話題の転換。——いや、この相手に小手先は通じない。ゲームのレオン・ド・グランヴィルは、ヒロインが嘘をついたときに真っ先に気づく人物だ。完全な嘘は悪手。かといって、聖女の力だと認めるわけにもいかない。
「……魔力の暴発ですわ」
答えるのに、おそらく二秒ほどかかった。その二秒が致命的だったかもしれないが、嘘よりは半端な沈黙のほうがまだましだ。
「暴発」レオンが繰り返した。信じていない目だった。
「ええ。お恥ずかしい話ですけれど、孤児院の出ですから魔力の基礎訓練を受けておりませんの。時折、制御しきれない魔力が溢れることがあるのです」
半分は本当だ。魔力の基礎訓練を受けていないのは事実だし、制御できていないのも事実。嘘は「暴発」という解釈だけ。誤魔化すなら、真実の中に嘘を混ぜるのが最善だと、前世で学んだ。
「暴発で——花が咲くのか」
背筋が凍った。花まで見られていた。祭壇の裏に隠したはずの花を、目撃された後では意味がない。
「……魔力が生命力に干渉することは、理論上あり得るとお聞きしましたわ。図書室の文献にも——」
「俺は文献の話を聞きたいんじゃない」
レオンが一歩、距離を詰めた。圧迫感がある。騎士科の生徒特有の、身体に叩き込まれた重心の低さが、ただ立っているだけの所作にも現れている。
「あの光は暴発なんかじゃなかった。俺は戦場で何度も治癒魔法を見ている。親父の部隊付きの治癒師が使うのを、子どもの頃から見てきた。——あの光は、治癒だ」
否定する言葉が喉に詰まった。見抜かれている。いや、見抜かれたのは「治癒」までだ。聖女の力だとは言われていない。そこを死守すればいい。
「……仮にそうだとして」
声を低くした。令嬢の仮面をわずかに外し、レオンの目を見返す。
「仮に私の魔力に治癒の性質があるとして——それを他言されるおつもりですか」
レオンの表情が、一瞬だけ変わった。怒りでも軽蔑でもない。——驚き、だろうか。おそらくこの人は、私が泣いて口止めを頼むか、激昂して否定するかを想定していた。交渉の姿勢で向き合うとは思っていなかったのだ。
「他言はしない」
間を置かず、レオンが言った。
「ただし、条件がある」
条件。前世でも今世でも、その言葉の後に良い話が続いた試しはない。
「あれが暴発だろうが治癒だろうが、制御できていないのは事実だろう。目撃したのが俺じゃなく教会の人間だったら、今頃お前は審問にかけられている」
正論だった。反論の余地がない。教会が聖女の力の無許可使用を知れば、異端審問の対象になる。この世界の教会はゲームで描かれていた以上に政治的で、排他的だ。それは図書室で読んだ歴史書が裏づけている。
「だから、俺が見張る」
「……は?」
思わず、令嬢の仮面が剥がれた。完全に素の声が出てしまった。
「制御できるようになるまで、俺がお前を見張る。暴発が人目につけば面倒なことになる。それを防ぐ」
「なぜ、そこまで——」
「騎士が市井の民を守るのに理由が要るか」
その言い方は卑怯だ、と思った。反論を封じる完璧な建前。けれど琥珀色の目には建前以上の何かがあった。それが何なのか、今の私には読み解けない。
ゲームのレオン・ド・グランヴィルは、庇護欲の強い人物だ。弱者を守ることに使命感を持ち、それゆえにヒロインに惹かれていく。——つまり今、私がその「庇護対象」の位置に入りかけている。これは非常にまずい。攻略対象との接触を避けるどころか、監視という名目で日常的に関わることになる。
『断るべきだ。何としても断るべきだ』
頭ではそう思った。でも——レオンの指摘は正しかった。制御できない力を一人で抱えるのは危険だ。次にいつ暴発するか分からない。礼拝堂のように人気のない場所ならまだしも、講義中に手が光ったら。
「……一つだけ、お約束いただけますか」
「何だ」
「この件を、誰にも——本当に誰にも話さないこと。お父上にも、ご学友にも。それが守られる限り、お好きに見張ってくださいませ」
レオンが、初めて口の端をわずかに上げた。笑みと呼ぶには硬すぎるが、敵意のない表情だった。
「約束する」
それだけ言って、レオンは踵を返した。長い歩幅で中庭を横切り、騎士科の校舎の方へ消えていく。
残された私は、噴水の縁に座り込んだ。膝の力が抜けていた。緊張が解けた反動だろう。噴水の水音が、さっきとは違って穏やかに聞こえた。
『攻略対象との接触回避——初日で失敗じゃない』
苦い笑いが込み上げた。計画とはこういうものだ。前世でも、綿密に立てた計画が三日と持たなかったことなど何度もある。大事なのは、崩れた計画にしがみつくことではなく、新しい状況で最善を探すこと。
指先を見た。まだ少し、熱い気がする。
聖女と名乗ることはできない。攻略対象を完全に避けることも、もうできない。ならば——第三の道を探すしかない。
聖女の力を使わず、かつ隠すだけでもなく。自分の手と知識で、この世界に居場所を作る道。前世の薬学知識は、この世界でも通用するはずだ。魔法と薬草学を結びつければ、聖女の奇跡に頼らなくとも人を癒せるかもしれない。
それは力を封じるのではなく、力に頼らない自分を作るということだ。
——まだ、半年ある。
噴水の水面に、朝の光がきらめいていた。金色ではない。ただの、白い朝の光。
立ち上がり、図書室へ向かう足を、薬草学の書架のほうへ変えた。この学園には使われていない薬草園があると、先日の講義で教師が零していた。あそこなら、誰の目にも触れずに研究ができる。
背中に視線を感じた。振り返ると、騎士科の校舎の窓に人影があった。——レオンだ。もう見張りを始めている。
『本当に律儀な人』
溜息をつきつつも、不思議と不快ではなかった。六年間、誰にも見られていなかった背中を、初めて誰かが見ている。それは監視であっても、透明ではないということの証明だった。
——でも、油断はしない。味方かどうかはまだ分からない。
薬草学の書架は、学園の図書室の最奥にある。埃を被った古い文献の間に、私が探すべきものがきっとある。聖女の力ではなく、自分の知識で立つための——最初の一歩が。