第2話
第2話
夜明け前の廊下は、水底のように静かだった。
使用人たちが動き始めるまで、あと半刻ほどはある。六年の習慣で身体に刻まれた時間感覚が、迷いなく私の足を導いていた。昨夜の夜会のあと、眠れたのはほんの二時間ほどだったと思う。それでも頭は妙に冴えていた。前世の記憶が脳の奥で熱を持ち続けているせいだろう。閉じた瞼の裏に、ゲームの画面が明滅するように蘇っては消えた。
攻略対象は四人。第二王子エドゥアール、騎士団長の息子レオン、宰相家の次男ユベール、そして教会の若き司祭ラファエル。隠しキャラが一人。どのルートでも悪役令嬢は断罪される。
——だから、近づかなければいい。
昨夜バルコニーで立てた方針を、もう一度反芻する。ゲームのイベントは攻略対象との接触で発生する。接触がなければフラグは立たない。単純な理屈だ。前世で学んだ生存術も同じだった。危険な場所に近づかない。危険な相手と関わらない。それだけで、致命的な失敗の大半は防げる。
半年間、息を潜めて過ごす。その間に学園での足場を固め、公爵家以外の後ろ盾になりうるものを探す。ゲームの悪役令嬢が破滅したのは、孤立していたからだ。誰も味方がいない状態で断罪されれば、どんな弁明も届かない。
『逆に言えば、味方さえいれば——』
石造りの回廊を抜けると、礼拝堂の扉が見えた。公爵家の私設礼拝堂は、屋敷の東棟にひっそりと建てられている。家族が使うのは祝祭日くらいで、普段は使用人すら近寄らない。埃っぽくて薄暗い、忘れられた場所。だからこそ私には馴染み深かった。六年前、孤児院からこの屋敷に引き取られた日の夜、泣きながら逃げ込んだのがここだった。
重い扉を押し開ける。蝶番が錆びた声で軋んだ。
薄明の光がステンドグラスを通り抜けて、石の床に淡い色彩を落としている。祭壇には先週供えられたまま替えられていない花が、茶色く萎れて項垂れていた。誰もこの場所を気にかけていない証拠だった。
——ちょうどいい。誰にも邪魔されない。
長椅子には座らず、祭壇の前に膝をついた。この世界の神、聖光神エルディアスに祈るつもりはなかった。ただ、静かな場所で思考を整理したかった。目を閉じて呼吸を整える。冷たい石の感触が膝を通じて意識を鎮めていく。
方針は三つ。第一に、攻略対象との接触回避。第二に、学園内での評価獲得。第三に——
——熱い。
指先が、脈打つように熱かった。
目を開けた瞬間、視界が金色に染まった。自分の手のひらの中心から、蜂蜜を溶かしたような光が溢れ出している。柔らかく、温かく、しかし明らかに尋常ではない輝き。
『なに、これ——』
魔力の暴走。最初にそう思った。この世界には魔法が存在する。貴族の子女であれば基礎的な魔力を持っているのが普通で、稀に制御しきれない魔力が暴発することがある——と、ゲームの設定資料集に書いてあった。
でも、これは違う。暴走なら苦しいはずだ。制御を失った魔力は身体を灼くと、ゲームの中でもそう描写されていた。
これは、痛くない。
むしろ——温かい。胸の奥から湧き上がる泉のような、穏やかで、懐かしいような温もり。前世で一度だけ高熱を出したとき、施設の職員が額に手を当ててくれた。あの手の温度に似ている。
光が広がった。私の手のひらから溢れた金色の粒子が、蛍のようにゆるやかに舞い上がり、礼拝堂の空間を満たしていく。ステンドグラスの聖人たちが、その光を受けて息を吹き返したように鮮やかに輝いた。
そして——祭壇の花が、動いた。
茶色く枯れ落ちかけていた花弁が、見る間に色を取り戻していく。白百合が純白の瑞々しさを、深紅の薔薇が露を含んだ艶を——まるで時が巻き戻されるように、一輪、また一輪と花が咲き返った。枯れた茎が伸び上がり、萎れた葉が広がり、祭壇の上に季節外れの花園が出現した。
甘い花の香りが礼拝堂に満ちた。
私は膝をついたまま、自分の手のひらを見つめていた。光は既に収まり始めている。金色の粒子が空気に溶けるように消えていく。残ったのは、ほんの少しの倦怠感と、祭壇に咲き誇る花だけ。
『——聖女の、力?』
ゲームの知識が、頭の中で警鐘を鳴らした。『聖輝のエトワール』において、聖女の力とは治癒と浄化の奇跡を起こす特別な魔力のことだ。そしてその力を持つのは、このゲームではただ一人——ヒロインであるアリアーヌだけのはず。
悪役令嬢に聖女の力が宿るイベントなど、存在しない。どのルートにも、どの分岐にも、そんな展開はなかった。
心臓が嫌な速さで鳴り始めた。前世の記憶がもたらした冷静さが、初めて揺らぐのを感じた。ゲームにないことが起きている。それは想定外だ。想定外は、計画を狂わせる。計画が狂えば——。
『落ち着いて。落ち着きなさい、リゼット』
自分に言い聞かせる。深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。石の冷たさが膝を通じて思考を冷やしてくれる。
——整理しよう。
まず、今の現象。手のひらから光が出た。枯れた花が咲き返った。これは治癒に近い力だ。生命力を回復させる類の。ゲームの聖女アリアーヌが使う力と、少なくとも外見上は酷似している。
次に、問題。もしこれが本当に聖女の力なら、隠さなければならない。ゲームにおいて聖女は教会の最重要人物だ。国の守護者であり、政治的な切り札でもある。孤児の養女がそんな力を持っていると知れたら、利用される。あるいは——排除される。
聖女はこの国に一人だけ。それが教会の教義だ。二人目が現れれば、教義そのものが揺らぐ。教義が揺らげば、教会の権威が揺らぐ。権威が揺らげば——消されるのは、後から現れたほうだ。
指先を握り込んだ。つい先ほどまで光を放っていた手のひらは、もう何の変哲もない。少し荒れた、薬草の匂いが染みついた——孤児院育ちの、普通の手だ。
『誰にも言えない。誰にも、見せられない』
祭壇の花を見上げた。咲き誇る白百合と薔薇が、動かぬ証拠としてそこにある。これをどう説明する? 先週から替えられていなかった花が、突然満開に戻っている。使用人が見れば不審に思うだろうか。——いや、そもそもこの礼拝堂に足を運ぶ者がどれだけいるか。花の状態など気にかける人間は、おそらくいない。
でも「おそらく」では足りない。
立ち上がろうとして、膝が笑った。魔力を使った反動だろうか。祈り台の縁を掴んで身体を支え、ゆっくりと息を整える。
ふと、視線を感じた。
——気のせいだろうか。
振り返る。礼拝堂の入口は薄暗い。重い扉は、私が入ったときのまま細く開いている。その隙間の向こうに、人影は見えない。朝の光が回廊の石壁をぼんやりと照らしているだけだ。
耳を澄ませた。足音はない。衣擦れの音もない。
——気のせいだ。
そう結論づけようとして、しかし胸の奥の不安は消えなかった。前世で身につけた感覚だ。誰かに見られているとき、首の後ろがわずかに冷たくなる。あの感覚が、今たしかにあった。
祭壇の花を見た。もう元に戻せない。咲いてしまったものを枯らす術は、私にはない。
——仕方ない。
できることをしよう。花瓶ごと祭壇の裏に隠し、別の——本当に枯れたままの花を代わりに置く。それで痕跡は消せる。
手早く花を移し替えながら、頭の中では別の計算が回っていた。
この力は使えるのか。使うべきなのか。ゲームの聖女が持つ力と同じものなら、治癒だけでなく浄化——毒や穢れを祓う力もあるかもしれない。前世の薬学知識と組み合わせれば、この世界の医療に革命を起こせる可能性すらある。
でもそれは、聖女だと名乗ることと同義だ。名乗れば、教会に目をつけられる。教会に目をつけられれば、ゲームのシナリオに関係なく破滅する。
『使わない。少なくとも今は。まずはこの力の正体を確かめる。制御する方法を探す。前世の知識に、手がかりがあるかもしれない』
計画を修正した。攻略対象との接触回避は変わらない。だがもう一つ、やるべきことが増えた。この力について調べること。図書室の魔法理論書、薬草学の文献、聖女に関する歴史書——使えるものは全て使う。
花を隠し終え、手についた花粉を払った。祭壇は元通り寂れた姿に戻っている。これでいい。
礼拝堂を出るとき、もう一度だけ振り返った。
薄明の光がステンドグラスを通り抜けて、何もない祭壇を淡く照らしている。裏に隠した白百合の甘い香りだけが、かすかに漂っていた。
——誰かが、あの光を見ていたとしたら。
その考えを振り払うように、扉を閉めた。錆びた蝶番がまた軋む。今度はその音が、秘密を封じる錠前の音に聞こえた。
回廊に朝日が差し込み始めていた。東の窓から入る光は白く、礼拝堂の中で見たあの金色とは似ても似つかない。当たり前の朝の光。その平凡さに、少しだけ救われた。
使用人棟へ戻る足取りの中で、自分の手のひらを何度も見た。何の変哲もない。光の気配すらない。
あれは本当に起きたことなのだろうか。もしかしたら、寝不足の頭が見せた幻覚だったのかもしれない。——そう思いたかった。でも祭壇の裏で息を吹き返した花たちが、それを許さなかった。
遠くで鐘が鳴った。六時の鐘だ。使用人たちが動き始める。公爵家の一日が始まる。
私はいつも通りの顔を作り、いつも通りの歩幅で、冷たい石畳を踏んだ。昨夜の夜会で嗤われた孤児の養女。それ以上でもそれ以下でもない、透明な存在。
——でもこの手のひらの奥に、透明では済まないものが眠っている。
それを誰かが見ていたのか、いなかったのか。答えは、回廊の向こう側の暗がりだけが知っていた。