Novelis
← 目次

孤児聖女は振り返らない

第1話 第1話

第1話

第1話

シャンデリアの光が、私の涙を百の宝石に変えた。

 それは皮肉だった。公爵家の養女として初めて身につけた絹のドレスよりも、頬を伝う雫のほうがよほど美しく輝いていたのだから。

「出自も知れぬ女が、よくもヴァルモン公爵家の令嬢を名乗れたものだ」

 第二王子エドゥアール殿下の声は、大広間に水が染みるように広がった。静かで、だからこそ残酷だった。周囲の貴族たちが扇の陰でささやき合う衣擦れの音が、波紋のように私を取り囲む。

 社交界デビューの夜会。私——リゼットにとって、これが初めての晴れ舞台だった。

 公爵家に引き取られてから六年。使用人と同じ棟で眠り、令嬢の教育は最低限しか与えられず、今夜のドレスも三年前の流行のお下がり。それでも鏡の前で何度も裾を直して、ようやくここに立った。

 婚約者であるはずの殿下に、挨拶を——ただそれだけのつもりだった。

「孤児院から拾われた娘がこの場に立つとは。養父殿も随分と慈悲深いことだ」

 笑いが起きた。控えめな、しかし確実に私を刺す種類の笑い。シャンパングラスの縁に唇を当てたまま目だけで私を見下ろす貴婦人。隣の令嬢の耳元に何かを囁いて、肩を震わせる侯爵家の子息。ひとりも、私と目を合わせようとはしなかった。それはつまり、私がこの場において「人」ではなく「見世物」であるということだった。

 その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 ——熱い。

 こめかみが燃えるように脈打ち、視界が白く染まった。大広間の喧騒が遠ざかり、代わりに見知らぬ映像が奔流のように流れ込んでくる。蛍光灯の下の狭い部屋。施設と呼ばれた場所。画面の中で動く、絵の少女たち。

 『聖輝のエトワール』。

 その名前が、鍵のように意識の扉を開いた。

 前世の記憶だった。日本という国で、孤児として福祉施設を出て、ひとりで生きて、ひとりで死んだ——そんな人生の記憶が、嘲笑の渦中で蘇ったのだ。

 そして同時に理解した。ここは前世で遊んだ乙女ゲームの世界。ヴァルモン公爵家の養女セレスティーヌ・ド・ヴァルモンは、聖女ヒロインに嫉妬し、攻略対象たちに断罪され、爵位を剥奪されて国を追われる悪役令嬢。

 ——それが、私。

 記憶の中のゲーム画面が再生される。学園祭の大広間。攻略対象たちに囲まれ、罪状を読み上げられる令嬢の姿。選択肢は存在しない。どのルートでも彼女は必ず破滅する。

 半年後。たった半年で、今夜と同じように衆目の中で裁かれる。

 孤児という出自ゆえに、誰も庇ってはくれない。ゲームの中でも、そして今この瞬間も。

 大広間のざわめきが、少しずつ耳に戻ってきた。目の前にはエドゥアール殿下の冷たい横顔がある。その隣で、取り巻きの令嬢たちが扇で口元を隠しながら嗤っている。

 ——ああ、そうか。

 不思議なものだった。前世の記憶を取り戻したことで、この状況がひどく既視感のあるものに変わった。施設を出た日の心細さ。就職先で「身元保証人がいない」と突き返された日。誰も味方がいない場所で、それでも足を止めなかった日々。

 誰にも守られなかった人生は、これで二度目だ。

 でも——今度は違う。前世の記憶がある。ゲームの知識がある。この世界がどう動くか、誰が何をするか、どこに落とし穴があるか。知っている。

 頬の涙は拭わなかった。拭えば、泣いていたことを認めることになる。代わりに、自然に乾くのを待った。

『今度は、知識がある』

 それだけで十分だった。前世では素手で荒野に立ったようなものだ。今度は地図がある。

 私は背筋を伸ばした。震える膝を意志の力で固定して、ゆっくりとエドゥアール殿下に向き直る。

「殿下のお言葉、胸に刻みましたわ」

 声は、自分でも驚くほど平坦だった。怒りでも悲しみでもない、凪いだ水面のような声。

 殿下が一瞬、怪訝な顔をしたのが見えた。おそらく泣き崩れるか、怒りに震えるか——そういう反応を期待していたのだろう。孤児院上がりの小娘が、大広間で恥をかかされて穏やかに微笑むとは思わなかったはずだ。

「身の程を弁え、精進いたします」

 深く、完璧な角度で一礼した。令嬢教育は最低限しか受けていないが、所作だけは使用人棟で何百回と練習した。膝の曲げ方、首の傾け方、裾の捌き方。それだけは、誰にも劣らない自信があった。

 顔を上げたとき、殿下の表情に微かな戸惑いが浮かんでいた。嘲弄の対象が予想通りに崩れないことへの、居心地の悪さ。取り巻きの令嬢のひとりが殿下の袖をそっと引いたが、殿下はその手を払いもせず、ただ私の目を見ていた。三秒、四秒。やがてその視線が逸れたとき、私は確信した——この人は、弱い者を踏むことでしか自分の足場を確かめられない人だ。

 それを確認して、私は踵を返した。

 大広間を横切る。視線が刺さる。ひそひそ声が追いかけてくる。背中に感じる無数の目が、薄い絹の生地を突き抜けて肌に触れるようだった。

「——あの養女、泣きもしないのね」 「強がりでしょう。明日には寝込むわ」 「そもそも孤児が夜会に来ること自体が——」

 聞こえている。全部、聞こえている。

 けれど足は止めなかった。前世でもそうだった。施設を出た日、振り返らなかった。背中に感じる視線を無視して、ただ前だけを見て歩いた。あのときも今も、振り返れば足が止まることを知っていたから。

 大広間の扉を押し開けると、夜気が頬に触れた。四月の風にはまだ冷たさが残っていて、火照った肌に心地よかった。シャンデリアの熱気に蒸されていた身体が、ようやく自分のものに戻るような感覚だった。

 バルコニーに出て、ようやく足が止まる。

 眼下には王都の夜景が広がっていた。無数の灯火がオレンジ色に街を照らし、遠くに王城の尖塔が月光を受けて白く浮かんでいる。この世界の美しさだけは、ゲームの画面越しに見たそれとは比べものにならなかった。

 手すりに指をかけた。震えていた。——ああ、やっぱり震えるのだな、と思った。心が凪いでいても、身体は正直だ。冷えた石の手すりの感触が、指先から腕を伝って、少しずつ震えを鎮めていく。

 前世の記憶を整理する。『聖輝のエトワール』は全五ルートの乙女ゲーム。攻略対象は四人と隠しキャラ一人。悪役令嬢セレスティーヌはどのルートでも断罪される。

 半年後の学園祭。それが期限。

『まず攻略対象との接触を減らす。ゲームのイベントを発生させなければ、断罪フラグも立たない——はず』

 確証はない。ゲームの世界がどこまでゲーム通りに動くのか、まだ分からない。でも何もしないよりはいい。前世で学んだことがある。完璧な計画は要らない。最悪を避ける最初の一手があればいい。残りは走りながら考える。

 冷たい風が髪を攫った。お下がりのドレスの裾が翻り、安物の靴が月光に白く光る。

 ——半年。

 前世では、もっと短い猶予で生き延びたことがある。住む場所がなくなって、所持金が三日分しかなくて、それでもどうにかした。誰の助けもなく、自分の頭と手だけで。

 だから、できる。

 涙の跡が夜風に乾いていく。私はバルコニーの手すりから手を離し、背筋を伸ばした。

 明日から動く。まずはこの世界のルールを確かめる。魔法、学園、貴族社会の力関係。ゲームの知識と現実の差異を洗い出す。使えるものは全て使う。

 大広間から漏れる音楽が、遠い世界のもののように聞こえた。あの光の中に、私の居場所は最初からなかった。でも——居場所は与えられるものではない。作るものだ。それだけは知っている。

 踵を返し、夜会場には戻らず、使用人用の通路へと足を向けた。使い慣れた石畳の感触が靴底に伝わると、不思議なほど気持ちが落ち着いた。六年間、毎日この冷たい廊下を歩いて水を汲み、薪を運び、誰にも顔を覚えられないまま暮らしてきた。でも今は、その六年が武器になる。この屋敷のどの扉がきしみ、どの使用人がどの時間にどこにいるか——私は誰よりも知っている。

 明日の朝は、礼拝堂に行こう。この世界の神に祈るつもりはないけれど、静かな場所で頭を整理したい。

 月が高かった。王都の屋根の向こうに、白い光が冴え冴えと降り注いでいる。

 その光の下で、私はまだ知らなかった。明日の礼拝堂で、この手のひらから溢れ出すものが——ゲームのどこにも書かれていなかった、もうひとつの運命の始まりになることを。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第1話 - 孤児聖女は振り返らない | Novelis