第3話
第3話
考えるより先に、体が動いていた。
高台を駆け下りる足は、もはや衰弱を忘れている。砂地芋と星辰草の茶が取り戻した体力は万全には程遠かったが、眼下の光景がカイの内側に火を点けた。荷馬車の車輪が石に乗り上げ、大きく跳ねる。御者台の人影が投げ出されかけ、辛うじて手綱にしがみついた。鉄色の牙を持つ巨獣は、その一瞬の減速を見逃さない。猛然と距離を詰め、鼻面を振り上げて荷台の後部を薙ぎ払った。木材が裂ける甲高い音が荒野に響き、荷が四方に弾け飛ぶ。
馬が嘶いた。繋具が千切れ、二頭の馬は荷車を捨てて荒野へ散った。車輪を失った荷台が地面を抉りながら滑り、砂煙を巻き上げて止まる。御者台から転がり落ちた人影が、よろめきながら立ち上がった。
少女だった。赤茶の髪を後ろで束ね、革の胸当てに商人の紋章を縫いつけた若い女。右足を引きずっている。荷台から投げ出されたときに傷めたのだろう、顔は蒼白だが、手には短刀を握りしめていた。
鉄色の巨獣が、低く唸る。間近で見るその姿は、猪の形をした災厄そのものだった。灰色の剛毛に覆われた体躯は荷馬車よりなお大きく、口元から突き出た二本の牙は研ぎ澄まされた鉄の如く鈍く光る。小さな赤い双眸が、足を引きずる少女をじっと見据えていた。弱った獲物を仕留める間合いを、獣の本能が測っている。
カイは走りながら、周囲の地形を読んだ。料理人の目は、厨房の配置を一瞬で把握するように訓練されている。火元、水場、食材の位置、動線——戦場を厨房に見立てれば、見えるものがある。
右手に、浸食で抉れた狭い谷間。幅は人ひとりが通れる程度で、両側を高い岩壁が挟んでいる。あの巨体は入れない。少女をあそこまで誘導できれば。
だが獣と少女の距離はもう十歩もない。悠長に回り込む余裕はなかった。
カイの手が、懐に仕舞った星辰草の束に触れた。乾燥させた星辰草——煎じれば甘い茶になるあの草を、カイは昨夜のうちに残りを全て火の傍で乾かしておいた。
乾燥した星辰草を火にくべると何が起こるか。鑑定の情報にはなかった。だが料理人は知っている。乾燥させた薬草の類は、直火にかければ大量の煙を出す。精油成分が一気に気化するからだ。宮廷の厨房でも、香草を焼いて燻煙を作り、肉の臭みを消す技法があった。
問題は火種だ。昨夜の焚き火はとうに消えている。だが——カイは走りながら腰に下げた鉄鍋に目をやった。拾った黒曜石の欠片は、鍋の中に入れてある。あとは摩擦で火花を散らす乾いた草さえあれば。
間に合うか。間に合わせるしかない。
カイは声を張り上げた。
「こっちだ。岩の谷間へ走れ」
少女が振り向いた。見知らぬ男の怒号に一瞬怯んだが、カイが指し示す方角を見て、すぐに意図を理解したらしい。短刀を握り直し、傷めた足を引きずりながら岩壁へ向かって駆け出す。気丈な娘だ。問答よりも生き延びることを選べる頭がある。
巨獣が反応した。獲物が動けば追う。それが捕食者の理だ。灰色の巨体が少女を追って地を蹴った瞬間、カイは荷車の残骸の傍に滑り込んだ。散乱した荷の中に、干し藁の束がある。商人が馬の飼葉に積んでいたものだろう。それを掴み取り、鉄鍋から黒曜石を抜いて地面の石に打ちつける。
火花が散った。一度、二度——三度目で、干し藁の端に赤い点が灯る。
息を吹きかけ、炎を育てる。手が震えている。背後で、獣の蹄が大地を叩く振動が伝わる。少女の息遣いが聞こえる。間に合え。
藁が燃え上がった瞬間、カイは星辰草の束をその炎に叩き込んだ。
白い煙が、爆ぜるように立ち昇った。
乾燥した星辰草は、カイの予想を超える量の煙を噴き出した。精油成分が炎に触れて一気に気化し、濃密な白煙が風に乗って荒野を覆う。青みがかった芳香が、むせ返るほどの濃さで鼻を突いた。人の鼻でさえこうだ。獣にとってはどれほどか。
鉄牙の巨獣が、前足を止めた。赤い双眸が苛立たしげに瞬き、巨大な鼻面を振り立てる。猪の嗅覚は犬にも劣らぬ。その鋭敏な鼻腔を、星辰草の煙が直撃した。獣が怒りの咆哮を上げ、頭を地面に叩きつけるように暴れる。だが煙は収まらない。風がカイの味方をし、白煙を獣の頭部に纏わりつかせていた。
「今のうちに」
カイは少女の腕を掴み、岩の谷間へ引きずり込んだ。少女が痛みに息を呑むが、声は上げなかった。狭い岩壁の隙間に二人の体を押し込む。頭上で岩が庇のように張り出し、獣からは見えない位置になる。
谷間の入口は、人がようやく横向きに通れるほどの幅しかない。あの巨体が入り込む余地はなかった。
煙幕が薄れるにつれ、獣の気配が近づいてくる。岩壁の向こうで、巨体が地面を嗅ぎ回る荒い鼻息が聞こえた。鉄色の牙が岩の縁をがりがりと引っ掻き、石の破片が二人の頭上に降り注ぐ。少女が肩を竦め、カイは彼女を庇うように身を寄せた。
だが獣は入れない。怒りに任せて岩壁に体当たりを繰り返すが、いにしえの浸食が刻んだ地形は生半な力では崩れなかった。やがて獣は苛立ちの唸りを残して遠ざかり始め、重い蹄の音が次第に小さくなっていく。
荒野に、静寂が戻った。
カイはゆっくりと息を吐いた。指先が震えていた。全身の力が抜け、岩壁にもたれかかる。
「——あんた、何者だ」
隣で、少女が言った。息を切らし、額から血を流しながらも、その声には怯えよりも猜疑が勝っている。短刀はまだ手放していなかった。
「料理人だ」
カイは答えた。
「料理人」少女は眉をひそめた。「料理人が、なんで荒野のど真ん中にいる」
「長い話になる」
「足が折れてるかもしれないから、長い話を聞く暇はあるよ」
少女は岩壁に背を預け、右足を庇うように投げ出した。カイの目が、料理人の観察眼でその傷を捉える。足首が不自然な角度に腫れている。折れてはいないだろうが、ひどい捻挫だ。
「名前は」
「リーネ。リーネ・ファスベル。行商をやってる。——やってた、と言うべきか。荷は全部あの化け物に潰された」
声は平坦だったが、唇が微かに震えていた。行商人にとって荷は全財産だ。それを一瞬で失う恐怖と絶望を、この少女は気丈さで塗り固めている。
「あの獣は」
「鉄牙猪。この辺りの荒野に棲む魔獣さ。普通は街道沿いには出ないんだけど、この季節は繁殖期で気が立ってるって、出発前に聞いてはいたんだ」
リーネは自嘲するように口の端を歪めた。「聞いてはいた」のに、一人で街道を走った。行商人の矜持か、あるいは他に選択肢がなかったのか。カイは問わなかった。
「手当をする。足を見せてくれ」
「あんた、医者なのか」
「料理人だと言った。だが、少しだけ心得がある」
宮廷の厨房では、火傷も切り傷も日常だった。手当の基本は叩き込まれている。カイは谷間の奥に湧き出た薄い水の流れで手を洗い、麻布の切れ端でリーネの足首を固定した。腫れを抑えるために、昨日見つけた砂地芋の皮——微毒があるが、外用の冷却には使える——を薄く削いで患部に当てる。鑑定が「表皮に微毒あり」と告げたあの情報が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
リーネは処置の間、一言も声を上げなかった。痛みに耐える目だけが、カイを真っ直ぐに見つめている。
「——あの煙、何だったんだ」
「星辰草を燃やした。匂いが強いから、獣の鼻を利かなくさせる」
「星辰草を知ってるのか。この辺の薬草師でも見落とすような草だよ、あれは」
カイは答えなかった。知っている理由を説明するには、あの鑑定の力について話さなければならない。まだ、この世界の常識が分からない。異質な力を持つ者がどう扱われるのか——前世で、才能があるというだけで権力に目をつけられ、利用された記憶が、喉元に冷たい手を当てている。
「まあいい」リーネは追及しなかった。「理由はどうあれ、あんたに命を救われた。恩は返す。行商人の信条だ」
夕闇が谷間にも忍び込んできた。鉄牙猪が完全に去ったとは限らない。今夜はこの谷間で夜を明かすのが賢明だろう。
カイはリーネに告げて、谷間の外へ出た。用心しながら荷の残骸まで戻ると、鉄牙猪の巨体が荒野に横たわっているのが見えた。動いていない。先ほど暴れた際に岩壁に何度も突進した衝撃で自ら傷つき、そのまま力尽きたらしい。灰色の剛毛に覆われた脇腹が、もう上下していなかった。
カイは慎重に近づき、その巨体に手を触れた。
視界が、白く染まった。
これまでとは比較にならない情報の奔流が、脳裏を灼いた。
『真名:鉄牙猪(テツガイノ)。分類:魔獣・可食大型種』
そこまでは星辰草や砂地芋と同じだった。だがその先が違う。文字が次々と枝分かれし、部位ごとの詳細が雪崩のように押し寄せてくる。
『肩肉——真名:鉄牙猪の赤身。繊維が極めて硬く、通常の調理では食用に耐えない。六刻以上の低温煮込みにより繊維が崩壊し、獣脂と膠質が溶け出して深い旨味を生む。星辰草との相性極めて良好。煮込み汁に薬効が移行する』
『腿肉——真名:鉄牙猪の腿。血抜きが不十分だと強い獣臭が残る。頸動脈からの即時放血が必須。適切に処理すれば赤身の中で最も滋養に富み、負傷回復を促進する成分を含有する』
『牙——真名:鉄牙。食用不可。ただし煮出した汁は骨格強化の効能あり。刃物・道具の素材としても優秀』
『脂——真名:鉄脂。融点が高く常温で固形を保つ。調理油として万能。塗布すれば防水・防寒の効果あり』
情報がようやく途切れたとき、カイは膝をついていた。額に汗が滲み、頭の奥がずきずきと痛む。だが痛みよりも、胸の内に湧き上がるものの方が強かった。
二十年、厨房に立ち続けた料理人の血が、静かに滾っている。
鉄牙猪。この世界では食えないとされているのかもしれない。だが鑑定は告げている。正しく血を抜き、正しく切り分け、正しく火を通せば——この肉は、人を生かす力になる。
カイは巨獣の前に跪いたまま、呟いた。
「——この肉、食えるのか」
問いは独り言だった。だが答えはもう、この手の中にあった。