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処刑料理人の鑑定厨房

第2話 第2話

第2話

第2話

走っていた。

 衰弱した体が悲鳴を上げている。星辰草の煎じ茶で取り戻した体力など、たかが知れていた。それでもカイの足は止まらなかった。乾いた喉が呼吸のたびに灼けるように痛み、視界の端が暗く滲む。足を踏み出すたび、膝の関節が軋んだ。三日前まで処刑台の上にいた体だ。筋肉という筋肉が限界を訴えている。それでも——聞こえたのだ。人の声を。この異世界に放り出されて以来、初めて耳にした人の悲鳴を。悲鳴の方角を見失うまいと、風の流れだけを頼りに荒野を駆ける。

 だが、二度目の咆哮を最後に、声は途絶えた。

 息を切らせて辿り着いた場所には、争いの痕跡だけが残されていた。赤茶けた大地が広範囲にわたって抉れ、低木が何本もへし折られている。地面に散らばる荷の残骸——布の切れ端、砕けた木箱の破片、踏み潰された干し果物。誰かの荷車が襲われたのだ。血痕はあったが、人の姿はない。逃げ延びたのか、それとも。

 カイは膝をつき、荒い呼吸を整えた。間に合わなかった。この体では、そもそも間に合うはずがなかった。拳を握り、爪が掌に食い込む。砂利が膝に食い込む痛みすら、今はこの悔しさに塗り潰されている。元の世界でも、いつもこうだった。手を伸ばすのが一歩遅い。守りたいものに、届かない。

 ふと、地面に刻まれた足跡が目に入った。蹄の痕だが、牛や馬のものとはまるで違う。幅が成人の頭ほどもあり、地面に深く食い込んでいる。途方もない重量の獣。

 カイは無意識に、その足跡の縁に触れた。

 何も起こらなかった。

 指先に、あの白い閃光は訪れない。土は土のまま、何の情報も流れ込んでこない。星辰草に触れたときとは違う。

 では、あの力には条件があるのか。

 カイは周囲を見回し、折れた低木の枝を拾い上げた。やはり反応はない。次に、散乱した干し果物の一つに指を伸ばす。

 光が、弾けた。

『真名:赤陽梅(セキヨウバイ)。分類:果実・保存食材。効能:糖質補給、軽度の疲労回復。毒性:なし。最適調理法:種子を除き天日乾燥。乾燥後は三年保存可。煮戻して肉料理の甘味付けに用いると風味が際立つ。過加熱により苦味成分が発生するため、調理温度に注意』

 やはり。カイは干し果物を手の中で転がしながら、確信に近いものを掴みかけていた。土や木の枝には反応しない。だが食材——口に入れられるものに触れると、あの情報が流れ込んでくる。

 検証が必要だった。

   *  *  *

 翌朝、カイは湧き水の傍で目を覚ました。昨夜は岩陰に身を寄せ、拾った干し果物を数粒齧っただけで眠りに落ちた。空腹は依然として体を蝕んでいたが、星辰草の茶と赤陽梅のおかげで、昨日よりは幾分ましだった。

 まず、手当たり次第に触れてみた。

 岩——反応なし。砂——反応なし。自分の衣服——反応なし。湧き水を掌に受ける——かすかに光が瞬いた。

『真名:鉄清水(テッショウズ)。分類:鉱泉水。効能:微量の鉄分補給。毒性:なし。調理用途:煮炊きに適する。鉄分が出汁の旨味を引き立てるが、茶を煎じる際は風味を損なう場合あり』

 水にも反応した。飲めるもの、食に関わるものであれば情報が得られるらしい。カイは荒野を歩き、目につく草や根を片端から触れていった。

 銀白色の穂草——反応なし。食用にならないものは沈黙する。

 地面に半ば埋もれた球根——光。

『真名:砂地芋(サチイモ)。分類:根菜・野生種。効能:炭水化物供給、満腹感持続。毒性:表皮に微毒あり、必ず剥皮の上加熱。最適調理法:皮を厚く剥き、灰焼きまたは蒸し。塩と油脂があれば味が格段に向上する。鉄清水で茹でると鉄分と澱粉が結合し、独特のねっとりとした食感を生む』

 カイの手が止まった。

 最後の一文。「鉄清水で茹でると」——これは単なる食材の情報ではない。この荒野にある別の食材との組み合わせまで示されている。まるで、カイの手が届く範囲の食材を把握した上で、最適な調理法を導いているかのようだ。

 背筋にぞくりとした感覚が走った。得体の知れないものに覗き込まれているような、あるいはこちらの内側を読まれているような居心地の悪さだった。便利、という言葉では片づけられない。この力は、カイが今どこにいて、何を持っているかを知っている。それは道具ではなく、まるで——カイの料理人としての記憶と、この土地の食材とを、橋渡しする意思のようなものだ。

 カイは砂地芋を掘り出し、湧き水の傍へ持ち帰った。皮を剥くための刃物がない。だが昨日の岩場で、黒曜石に似た鋭利な石を見つけていた。それを使い、芋の表皮を厚めに削ぎ落とす。

 火を熾し、石の窪みに鉄清水を満たして芋を沈める。沸騰するまで待ちながら、残りの星辰草を少量加えた。鑑定の情報にはない、カイ自身の判断だった。星辰草の甘味は加熱で引き出される。芋の素朴な味に、ほのかな甘みを添えれば食が進む。それは情報ではなく、二十年の厨房で培った料理人の勘だ。

 湯が沸き、芋が柔らかくなる頃合いを、カイは箸も串もなしに見極めた。湯の色の変化、泡の立ち方、漂う湯気の匂い。道具がなくとも、五感が調理の進行を教えてくれる。目を閉じれば、かつて立っていた厨房の喧騒が蘇る。鍋の前に立つこの瞬間だけは、異世界も故郷も変わらない。

 石の器に取り上げた芋を、ひと口齧る。

 熱い。そして——旨い。

 鉄清水の鉄分が澱粉と結びつき、ねっとりと舌に絡む。星辰草の甘味が芋の土臭さを消し、代わりに柔らかな風味を残す。素朴だが、確かに「料理」と呼べるものが、この異世界の荒野で生まれた。

 胃に食物が落ちた瞬間、体の奥底から力が湧き上がるのを感じた。星辰草の茶を飲んだときとは比較にならない。あのときは灯が点る程度だったが、今は体の隅々まで温かい血が巡っている。

 鑑定が食材の真の姿を教え、料理人の技がそれを最も良い形に仕立てる。どちらか一方では成り立たない。鑑定だけでは生の芋を齧るしかなく、料理の腕だけでは毒のある表皮を見抜けない。二つが噛み合って初めて、この力は完成する。

「なるほど」

 カイは呟いた。唇の端が、わずかに持ち上がる。処刑台の上では想像もしなかった。この手に残された料理の技が、見知らぬ世界で新たな意味を持つなどと。

 食事を終え、カイは荷の残骸が散らばる場所まで戻った。昨夜は暗くてよく見えなかったが、陽の下で改めて見ると、被害の大きさが分かる。荷車の車輪は粉々に砕け、積み荷の大半は踏み潰されていた。だが、その中から使えるものを幾つか拾い集めることができた。麻布の切れ端、革紐、そして——小さな鉄鍋。底が凹んではいたが、穴は開いていない。

 料理人にとって、鍋は剣士にとっての剣に等しい。カイはその鉄鍋を両手で持ち上げ、しばし見つめた。指先で縁を撫でると、使い込まれた鍋特有の滑らかさが残っていた。前の持ち主も、きっとこの鍋で誰かのために何かを作っていたのだろう。歪んだ鉄の塊が、ひどく頼もしかった。

 荷の持ち主が生きていることを祈りながら、カイは荒野の探索を続けた。鍋が手に入ったことで、調理の幅は格段に広がる。この荒野に散らばる食材を集め、鑑定と技を組み合わせれば、ひとまず生き延びることはできるだろう。

 だが、いつまでもこの荒野にいるわけにはいかない。人の営みがある場所を見つけなければ。

 カイは高台に登り、周囲を見渡した。南の方角に、空の色がわずかに異なる一帯がある。緑が多いのかもしれない。あるいは、水場の近くに集落があるのかもしれない。

 そのとき、大地がかすかに震えた。

 最初は気のせいかと思った。だが振動は次第に大きくなり、規則的な間隔を刻み始める。重い何かが、大地を踏みしめて近づいてくる足音。昨夜の足跡を残した、あの獣だ。

 カイは身を伏せ、高台の縁から南を覗き込んだ。土煙が上がっている。その手前に、一台の荷馬車がこちらへ向かって走ってくるのが見えた。荷台には荷が山と積まれ、御者台に人影が一つ。

 そして、その荷馬車を追うように——灰色の巨体が荒野を疾駆していた。猪に似た輪郭。だが大きさが尋常ではない。牛よりなお大きく、口元から突き出た二本の牙が、夕陽を浴びて鈍い鉄色に光っている。巨体が一歩踏み込むたびに地面が陥没し、その衝撃がカイの伏せた高台まで伝わってくる。岩の隙間に張った蜘蛛の巣が、振動で千切れて風に飛んだ。空気そのものが獣の圧に震えている。距離は詰まっている。あと数十歩もないだろう。荷馬車の馬は恐慌に駆られて走っているが、獣の歩幅には抗えない。車輪が石を跳ね、荷台から包みが一つ、また一つと転げ落ちる。それでも馬車は軽くならず、じりじりと獣の影が荷台を呑み込んでいく。

 荷馬車の御者が、悲鳴を上げた。昨夜と同じ、若い女の声だった。

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