第1話
第1話
刃が、陽光を弾いた。
処刑台の上に立つカイの目に映ったのは、よく研がれた大剣の刃先ではなく、その向こうに広がる抜けるような青空だった。皮肉なものだ、と思う。宮廷の厨房に二十年も籠もり続けた男が、最後に仰ぐ空がこれほど美しいとは。
群衆がどよめいている。王妃毒殺の大罪人を一目見ようと、王都ヴェルトハイムの中央広場には朝から人垣ができていた。罵声が飛ぶ。石が飛ぶ。腐った果実が、カイの頬をかすめて処刑台の板を汚した。果汁の甘ったるい腐臭が鼻に届き、カイは反射的に顔をしかめた。料理人の鼻は、最後まで食材の匂いを嗅ぎ分けようとするらしい。
膝をつかされ、両手を背に縛られた姿勢のまま、カイは群衆の最前列に立つ男を見た。侍従長グレイヴァス。王妃の最後の夕食に毒を仕込んだ張本人。その顔に浮かぶのは悲嘆の仮面だったが、カイには見えていた——唇の端に、かすかに刻まれた笑みの線が。
あの夜、カイは確かに異変に気づいていた。調理台に残されたわずかな粉末の痕跡。香辛料では説明のつかない、かすかな苦みの残り香。だが気づいたときには遅かった。王妃はすでにあの料理を口にし、そしてカイの運命は決まっていた。
「弁明は」
カイの声は掠れていた。三日の間、水すら与えられなかった喉から絞り出した言葉は、群衆の喧騒に呑まれて消えた。
「罪人に弁明の余地なし」
執行官の声は事務的だった。手続きとして問い、手続きとして退けた。それだけのことだ。
カイは目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、厨房の風景だった。銅鍋が並ぶ棚、石窯から立ち昇る熱、朝一番に届く野菜の青い匂い。あの場所だけがカイの世界だった。孤児として拾われ、下働きから始め、二十年かけて宮廷料理長の座にまで登り詰めた。包丁を握る手だけが、カイに居場所を与えてくれた。
だが結局、厨房の外の世界がカイを許さなかった。権力の暗闘に巻き込まれ、利用され、そして捨てられる。料理人とは所詮、そういう存在なのだろうか。
風が首筋を撫でた。執行人が大剣を振りかぶる気配が、空気の動きで伝わる。
——せめて、最後にもう一度だけ、誰かのために料理を作りたかった。
鋼が風を裂く音がした。
首筋に衝撃。
そして、世界が途絶えた。
* * *
最初に感じたのは、渇きだった。
喉の奥が砂を詰めたように乾いている。唇が割れ、舌が口蓋に貼りつく。カイは意識の底から浮き上がるように目を開けた。
空が、あった。
だがそれは、王都の空ではなかった。見渡す限りの荒野が広がり、赤茶けた大地に背の低い草がまばらに生えている。空は紫がかった藍色で、見たこともない二つの月が地平線の近くに浮かんでいた。太陽は一つだが、やけに大きく、橙色の光が荒野を薄く染めている。
風が運んでくる匂いも異質だった。乾いた土と、どこか金属的な甘さが混じった、嗅いだことのない空気。王都の空気にはいつもあった煤と馬糞の匂いが、ここには一切ない。
ここは、どこだ。
カイは身を起こそうとして、全身に走る痛みに呻いた。手足は自由だった。縄は消えている。首筋に手を当てると、傷はなかった。ただ、体が極限まで衰弱しているのが分かる。三日間の飢えと渇きは、この身体にもそのまま引き継がれているらしい。
死んだはずだ。あの刃は確かに首に届いた。だがこうして息をしている。理解が追いつかないまま、カイは本能に従って動いた。水を探さなければ。食べ物を見つけなければ。思考よりも先に、生き延びるための判断が身体を突き動かす。
這うようにして周囲を見回す。岩の陰に、一叢の草が生えていた。細く、銀色がかった葉を持つ見慣れぬ植物。毒草かもしれない。だが、この衰弱した体では選り好みしている猶予はない。
カイは震える指で茎に触れた。
その瞬間、視界が白く弾けた。
脳裏に、文字が浮かぶ。見たこともない言語——だが不思議と、意味が直接流れ込んでくる。
『真名:星辰草(セイシンソウ)。分類:薬草・微魔力含有。効能:微量の魔力回復、軽度の解毒作用。毒性:なし。最適調理法:天日乾燥の後、弱火で煎じる。生の状態では苦味が強く栄養吸収率が低いが、乾燥と加熱により苦味成分が甘味に転化し、効能が三倍に増幅される』
カイは手を離し、呆然と草を見つめた。今のは何だ。触れただけで、この草の名前も、性質も、調理法までもが頭に流れ込んできた。まるで、長年その食材を扱い続けた料理人の経験知が、一瞬で注ぎ込まれたかのように。
魔力、という言葉が引っかかった。前世の王宮にも魔術師はいたが、カイ自身は魔力とは無縁の人間だった。だが今、指先にかすかな熱を感じる。この力は、この世界で新たに授かったものなのか。
理解は後でいい。今はまず、生き延びることだ。
カイは星辰草を数本引き抜いた。料理人としての習性が、手を勝手に動かす。葉の厚み、茎の硬さ、折ったときに漂うかすかな青い芳香。鼻を近づけ、匂いを確かめる。情報は嘘をついていない。毒草特有の刺すような臭気はなく、薬草に共通する清涼感がある。
乾燥させるには時間がかかる。だが煎じるためには火と水が要る。カイは荒野を見渡した。百歩ほど先に、岩が折り重なった窪地がある。水が溜まっている可能性は低くない。
立ち上がろうとして、膝が笑った。体力の限界が近い。それでもカイは歯を食いしばり、一歩を踏み出した。
窪地に辿り着くと、果たして岩の割れ目から細い水が湧き出していた。口をつけて啜る。冷たく、わずかに鉄の味がする。だが腹に沁みるその感覚に、カイの目尻に熱いものがこみ上げた。
生きている。まだ、生きている。
火を起こす術はあった。孤児として拾われる前、路上で暮らしていた幼少期に身につけた技だ。乾いた草を集め、石を打ち合わせる。何度目かの火花が草に移り、小さな炎が立ち上がった。
カイは岩の窪みに水を溜め、火にかけた。鍋はない。だが料理人の工夫とは、道具がない場所でこそ試されるものだ。平たい石を選び、表面を焼いて殺菌する。星辰草を細かく千切り、石の上に並べて火の傍に置いた。完全な天日乾燥には程遠いが、火の熱で水分を飛ばすことはできる。
待つ間、カイは空を見上げた。二つの月は少しずつ位置を変え、一方は沈みかけ、もう一方は天頂へ向かっている。見知らぬ星々が瞬き始めていた。
——ここが死後の世界なのか、それとも別の世界なのかは分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。この手はまだ、料理を作れる。そしてこの不思議な力は、食材の真の姿を教えてくれる。
半刻ほどで、星辰草は縁が丸まるほどに乾いた。それを湧き水に浸し、弱火にかける。煎じること、しばし。立ち昇る湯気の匂いが変わった。青臭い苦味の気配が消え、代わりにほのかな甘い芳香が鼻をくすぐる。あの情報の通りだ。苦味成分が甘味に転じている。
カイは石の器に煎じ液を移し、口をつけた。
温かい。そしてほんのりと甘い。喉を通り、胃に落ちた瞬間、体の芯に小さな灯が点ったような感覚があった。疲労が消えるわけではない。だが、指先のこわばりがわずかに緩み、霞んでいた視界が澄む。「魔力微回復」とはこういうことか。この世界の理がどういうものかは分からないが、効能は確かだった。
二杯、三杯と飲み干すうちに、カイの体は最低限の機能を取り戻していった。立ち上がれる。歩ける。まだ飢えは消えないが、動ける体があれば食べ物は探せる。
料理人の本能が囁く。この世界には、まだ見ぬ食材がある。真名を持ち、知られざる力を秘めた食材が、この荒野の先に広がっているはずだ。
カイは残った星辰草を丁寧に束ね、衣の内側に仕舞い込んだ。火の始末を済ませ、湧き水で手を洗う。どんな状況でも、調理の後に手を清める。それは二十年の厨房暮らしが骨身に刻んだ、料理人としての矜持だった。
そのとき——風向きが変わった。
荒野の彼方から、甲高い悲鳴が届いた。人の声だ。それに重なるように、大地を揺るがす低い咆哮。カイの知らない音だったが、本能が告げていた。あれは獣の声だ。それも、途轍もなく大きな。
足がすくむ。逃げるべきだと理性が叫ぶ。この衰弱した体で、見知らぬ獣に近づくなど正気の沙汰ではない。
だが、悲鳴がもう一度響いた。若い女の声。恐怖と痛みに引き裂かれた叫びが、夕暮れの荒野を走り抜けてくる。
カイの足は、悲鳴のほうへ向かっていた。