第1話
第1話
「——よって、リゼッタ・ヴァルトシュタインとの婚約を、本日をもって破棄する」
王宮大広間に響き渡る声は、まぎれもなく第三王子エルヴィン殿下のものだった。
高い天井から降り注ぐ魔導灯の光が、磨き上げられた大理石の床に幾重にも反射している。空気には焚き染められた白檀の香りが漂い、どこかで楽団が演奏を止めたらしく、弦の余韻だけが天井の梁に絡みついて消えかけていた。その光の中心に立たされた私は、数百の視線を全身に浴びていた。嘲り、哀れみ、そして——それ以上に多い、好奇という名の残酷。絹のドレスの裾がかすかに揺れているのは、足元が震えているからだと、きっと誰にも悟られていない。そう信じたかった。
頭が割れるように痛い。
いつからだろう。エルヴィン殿下が罪状を読み上げ始めた頃から、視界の端がちらちらと明滅して、知らない映像が次々と流れ込んできた。白い蛍光灯。数式の羅列されたホワイトボード。珈琲の染みがついた論文の束。安っぽい回転椅子の軋み、キーボードを叩く指先の感触、深夜の研究室に充満した埃っぽい空気の匂い。そして——画面の中で微笑む、私によく似た少女のイラスト。
ああ、そうか。
私は——思い出した。
理論物理学。量子色力学の繰り込み計算を何年も続けた、地味で頑固な研究者の一生。査読論文は七本。引用数はお世辞にも多くない。それでも、解けない問いの前に座り続けることだけは誰にも負けなかった。そして疲れ果てた深夜に、息抜きで遊んでいた乙女ゲーム『聖女の導き』。その悪役令嬢の名前が、リゼッタ・ヴァルトシュタイン。
つまり、私だ。
『処刑エンド、もしくは国外追放。どちらにせよ、悪役令嬢に用意された結末は破滅のみ』
ゲームの攻略サイトに書かれていた一文が、妙に鮮明に蘇る。
「——聖女セラフィーナへの度重なる嫌がらせ、学院での悪評、そして王家への不敬。これらの罪状について、何か申し開きはあるか」
エルヴィン殿下の隣に控えるセラフィーナが、わざとらしく目を伏せている。その睫毛が微かに震えているのは、笑いを堪えているのか、それとも演技の仕上げなのか。どちらでもいい。かつて友人だった令嬢たちは扇の陰で囁き合い、誰一人として私の方を見ようとしない。ほんの三ヶ月前まで「リゼッタ様」と甘い声で呼んでいた唇が、今は毒を含んだ囁きを紡いでいる。
不思議なほど、心は静かだった。
前世で何度、実験は失敗しただろう。三年かけた仮説が根底から覆されたこともあった。学会で完膚なきまでに批判されたこともあった。指導教官に「君の着眼点は十年早い」と言われて、それが褒め言葉なのか婉曲な撤退勧告なのか、半年悩んだこともあった。そのたびに、データを見直し、仮説を修正し、また実験台に向かった。
これは——ただの初期条件の変更にすぎない。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
自分でも驚くほど、声は凪いでいた。
深く、正確に一礼する。公爵家の令嬢として叩き込まれた所作が、こういう時にこそ役に立つ。背筋を伸ばし、視線を落とし、右足を半歩引いて膝を折る。一連の動作に込めた意味はただ一つ——私はあなたに屈したのではない、礼節を尽くしただけだ。顔を上げた時、エルヴィン殿下の表情にほんの一瞬、戸惑いが走ったのが見えた。泣き崩れるか、怒り狂うか——そのどちらかを期待していたのだろう。
申し訳ないけれど、その期待には応えられない。
踵を返す。背中に刺さる視線の数を、数える気にもならなかった。大広間の扉に向かって歩く私の足音だけが、しん、と静まり返った空間に響く。
一歩、また一歩。
肩甲骨の間に汗が伝うのを感じながら、それでも背筋は伸ばしたまま。コルセットが肋骨を締め付け、呼吸が浅くなるのを意志の力でねじ伏せる。崩れるのは、この扉の向こうに出てからでいい。
大広間を出た廊下は、嘘のように人気がなかった。護衛も侍女も、誰も待っていない。断罪された令嬢に付き添う者など、いるはずもなかった。
長い回廊を一人で歩く。窓から差し込む夕陽が、赤い絨毯をいっそう深い紅に染めている。壁にかけられた歴代王族の肖像画が、無言で私を見下ろしていた。どの顔も同じように冷たく、同じように無関心だ。百年前の王も、五十年前の王妃も、今日一人の少女が歩いたこの廊下のことなど、知りもしないし気にもしない。
正面玄関に出ると、ヴァルトシュタイン家の紋章が入った馬車が一台だけ停まっていた。他の貴族の煌びやかな馬車はとうに列を離れ、残されたのはこの一台きりだった。御者のハインツが帽子を目深に被ったまま、黙って扉を開けてくれる。その手が微かに震えているのは——怒りだろうか、それとも哀れみだろうか。
「ハインツ、お屋敷まで」
「……かしこまりました、お嬢様」
いつもと変わらない呼び方。その二音節に、不覚にも目頭が熱くなった。
馬車が動き出す。車輪が石畳を噛む振動が、革張りの座席を通じて背骨に伝わった。
窓の外を、王都の街並みが流れていく。夕暮れの市場では商人たちが店じまいを始め、焼き栗の甘い匂いと馬糞の臭いが入り混じった風が車窓から忍び込んでくる。噴水広場では子供たちがまだ走り回っている。誰も、たった今この国の公爵令嬢が一人、すべてを失ったことなど知らない。
——ここでようやく、私は自分の手を見た。
震えていた。
大広間では微動だにしなかったこの手が、誰の目もないこの薄暗い馬車の中で、止めようもなく震えている。膝の上で握りしめると、爪が掌に食い込んで小さな痛みが走った。
『怖かった?』
心の中で、自分に問いかける。
『——ええ、怖かったわ。当たり前でしょう』
前世の記憶があろうと、数百人の前で断罪される恐怖が消えるわけではない。あの大広間に満ちていた空気の重さ、石のように冷たい沈黙、そして殿下の声が天井に反響して四方から降り注いでくる感覚——あれは理屈では処理できない、身体そのものに刻まれる恐怖だった。けれど、恐怖と絶望は違う。怖いだけなら、まだ考えられる。考えられるなら、まだ動ける。
馬車の揺れに身を任せながら、私は記憶を整理し始めた。
ゲームの知識は断片的だ。悪役令嬢リゼッタのルートは序盤で退場するから、詳細なイベントまでは覚えていない。確かなのは、このまま何もしなければ破滅が待っているということ。そして——この世界には、前世にはなかったものがある。
魔術。
リゼッタの身体には、公爵家の血筋に相応しい魔力が宿っている。右手を開くと、掌の中心にかすかな温もりを感じた。血流とは違う、もっと深い場所から湧き上がるような熱。これが魔力というものか。社交界では「教養の一環」程度にしか扱われない魔術だが、前世で論文を流し読みした時——いや、ゲームの設定資料を眺めた時、この世界の魔術体系がひどく非効率に見えた記憶がある。
経験則の積み重ね。再現性の検証なし。数理的なモデル化は皆無。
それは——科学以前の錬金術そのものだ。
ならば。
社交界という戦場では、私はもう敗者だ。婚約を破棄され、友人を失い、名声は地に落ちた。エルヴィン殿下やセラフィーナと同じ土俵で戦い直す意味はない。
けれど、戦場を変えることはできる。
誰もまだ手をつけていない、学術という荒野。前世の知識と、この身体に宿る魔力。その二つがあれば——少なくとも、仮説を立てて検証する価値はある。
車窓の向こうで、最後の夕陽が王都の尖塔の影に沈んでいく。馬車がヴァルトシュタイン家の門をくぐる頃には、空はすっかり藍色に変わっていた。門柱の魔導灯が青白い光を点し、砂利道に長い影を落としている。
震えはいつの間にか止まっていた。
代わりに、胸の奥で小さな灯が点る感覚があった。恐怖でも怒りでもない。前世で何度も味わった、あの感覚。未知の問題を前にした時、仮説の輪郭がうっすらと見え始めた時の——静かな高揚。
私は握りしめていた手をゆっくりと開き、掌に薄く残った爪の跡を眺めた。
「さて」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「——実験開始だ」
馬車が止まる。屋敷の灯りは、私の部屋だけが暗いままだった。出迎えの侍女の姿はない。それでも構わない。
今夜、この屋敷のどこかに書庫があるはずだ。そこに魔術の基礎文献があるはずだ。
扉が開かれる。冷たい夜気が頬を撫でた。星が見えた。前世では光害で滲んでいた星々が、ここでは一つ一つ、針で突いたように鋭く瞬いている。
悪役令嬢の物語は、今日で終わった。だが——リゼッタ・ヴァルトシュタインの物語は、たった今、始まったばかりだ。