第2話
第2話
屋敷に戻ったのは、もう夜も更けてからだった。
正面玄関ではなく、使用人用の通用口から通された。案内したのは古参の侍女マルタで、かつては私の髪を梳きながら他愛ない世間話をしてくれた女性だった。けれど今夜の彼女は一言も発さず、燭台を掲げる手つきにさえ、触れてはならないものを扱う慎重さが滲んでいた。
廊下には誰もいない。この時間なら夜番の衛士が巡回しているはずだが、まるで申し合わせたように人の気配が消えている。大広間での断罪の報せは、馬車が門をくぐるより先に届いていたのだろう。
私の部屋は三階の東棟にある。いや、あった。マルタが立ち止まったのは二階の西棟——客間として使われていた一室の前だった。
「こちらにお荷物をお移ししてございます」
それだけ言って、マルタは目を合わせることなく一礼し、足早に去っていった。燭台の灯りが廊下の角に消えると、あとには壁掛け燭台の細い炎だけが残された。
部屋に入る。見覚えのない寝台、見覚えのない化粧台。窓は中庭ではなく裏庭に面していて、月明かりに照らされた物干し台と薪小屋が見えた。最低限の家具は揃えてあるものの、花瓶には花がなく、暖炉には火が入っていなかった。四月とはいえ夜はまだ冷える。壁に染みついた古い煙草の匂いが、この部屋が長く使われていなかったことを物語っている。
『体のいい幽閉、というわけね』
荷物の中から夜着を探す。衣装箪笥に掛けられた数着のドレスは、社交用の華やかなものではなく、普段着の中でも地味なものばかりが選ばれていた。宝飾品の類は一つもない。
着替えを済ませ、寝台に腰を下ろす。硬い。スプリングの弾力が背中に教えてくれるのは、ここが客間であり、つまり私はもうこの家の「家族」ではないという事実だった。
翌朝、お父様への面会を願い出た。
答えは侍女を通じて届いた。盆の上に置かれた封書ですらなく、口頭の伝言。
「旦那様は、当面の間お嬢様とのご面会をお控えになるとのことでございます」
伝えたのはマルタではなく、見知らぬ若い侍女だった。名を聞いても答えず、食事の盆を置くとすぐに下がっていった。
その日から、私の生活は単純な反復になった。
朝、盆が届く。昼、盆が届く。夜、盆が届く。中身は質素だが飢えるほどではない。パンとスープ、時々果物。かつて食卓に並んでいた焼き菓子や季節の魚料理が懐かしくなるのは、三日目の朝だった。
部屋から出ることは禁じられていないが、出たところで行き場がない。廊下を歩けば使用人たちが目を逸らし、庭に出れば園丁が道具を片付けて去っていく。屋敷の中にいながら、透明な壁に囲まれているような心地だった。まるで、存在ごと括弧に入れられたかのように。
五日目の夜。私は限界だった。
限界というのは、感情のことではない。もちろん孤独は堪えた。けれどそれ以上に堪えたのは、何もしていない、という事実だった。前世で最も苦しかったのは実験の失敗ではなく、予算が通らず実験そのものができなかった空白の半年だった。手を動かせない時間は、思考を腐らせる。
深夜二時。屋敷が完全に寝静まったのを確認して、私は部屋を出た。
裸足にスリッパ。夜着の上に肩掛けを羽織っただけの格好で、階段を降りる。月明かりが窓から差し込み、廊下の大理石を青白く照らしていた。自分の足音さえ消すように、壁際を歩く。
ヴァルトシュタイン家の書庫は一階の北棟にある。公爵家の歴史と体面にふさわしく、三代前の当主が蒐集した蔵書は数千冊に及ぶと聞いていた。もっとも、リゼッタ——かつての私は、書庫になど一度も足を踏み入れたことがなかったが。
重い樫の扉に手をかける。鍵はかかっていなかった。お父様は書物に価値を置く人ではないから、施錠する習慣がなかったのだろう。蝶番がかすかに軋み、埃と古い紙の匂いが鼻腔を満たした。
燭台に火を灯す。
書庫は思っていたよりも広かった。天井まで届く書架が六列、奥行きは十数歩。窓のない部屋の空気はひんやりと乾いていて、革表紙の背が燭台の光を鈍く反射している。書架の分類は大雑把で、歴史書と詩集と家計簿が同じ棚に並んでいる始末だった。
けれど、奥の一画に「魔術」と刻まれた金属の仕切り板を見つけた時、心臓が跳ねた。
最初に手に取ったのは『基礎魔術式便覧』——この世界の魔術教育で最も広く使われている教科書だという。革の表紙は日焼けして色褪せ、頁の端は手垢で黒ずんでいる。三代前の誰かが熱心に読んだ痕跡だった。
頁をめくる。
図解付きの魔術式。魔力の流れを示す矢印。詠唱の音韻と対応する元素の一覧表。
最初の十頁で、私は眉をひそめた。
二十頁で、手が止まった。
三十頁で——本を閉じた。
『なぜ、変数が定義されていないの』
魔術式と呼ばれているものの正体は、経験則の集積だった。「この詠唱をこの手順で行えば、この結果が得られる」という記述の羅列。だが、なぜその詠唱がその結果を生むのかという理論的説明が、どこにもない。
別の書物を取る。『上級魔力制御論』。こちらはいくらか理論的な記述を試みているが、核心部分になると「古来よりこうである」「賢者の教えに従う」といった権威への参照で済まされている。数式は存在するが、それは計測値の整理であって、予測を生む理論モデルではなかった。
前世の言葉で言えば——現象論的記述はあるが、第一原理からの導出がない。
三冊目。四冊目。五冊目。
どれも同じだった。膨大な経験則と、それを支えるべき理論の不在。ケプラーの法則はあるのに、ニュートン力学がない。周期表はあるのに、量子力学がない。
私は燭台の灯りの中で、五冊目を閉じた。
手が震えている。だが今度の震えは恐怖ではなかった。
「これは——」
声が零れた。静まり返った書庫に、自分の声だけが反響する。
「——科学以前の錬金術だ」
前世で何年も繰り込み計算と格闘した頭が、急速に回り始めていた。魔力の伝導に関する記述を思い返す。経験的に知られている法則性。伝導効率の数値。損失の傾向。それらを統一的に説明する数理モデルが、まだこの世界には存在しない。
つまり——構築できる可能性がある。
私は便覧を開き直し、白紙の裏表紙に爪で薄く線を引いた。ペンがない。だが頭の中では既に、魔力伝導の効率曲線を支配するであろう微分方程式の骨格が形を成し始めていた。
窓のない書庫には時間の感覚がない。気づけば燭台の蝋が半分まで減り、指先はかじかみ、膝は長時間の正座で痺れていた。
それでも、頁をめくる手は止まらなかった。
六冊目の魔術書を開いた時、ある記述に目が留まる。基礎灯火術——最も初歩的な魔術の一つで、掌に小さな光を灯すだけの術式。その消費魔力と持続時間の比率が、他の術式と比べて著しく非効率だった。
『もし私の仮説が正しければ、この術式の魔力伝導経路を最適化するだけで、効率は少なくとも一・五倍になるはず』
検証したい。今すぐに。
だが、今夜はまだ早い。理論が未完成のまま実験に走るのは、前世で嫌というほど痛い目を見た。データが足りない。この書庫にある文献を全て読み、まず現象の全体像を掴む必要がある。
蝋燭の残りを確かめる。あと一時間は持つ。
私は七冊目に手を伸ばした。表紙には『魔力伝導の諸現象に関する覚書——ヴァルトシュタイン家蔵版』と記されていた。三代前の当主の手記だろうか。個人の実験記録であれば、教科書にはない生のデータがあるかもしれない。
期待に指先が熱くなるのを感じながら、最初の頁を開く。
——その時、廊下の向こうで足音がした。
衛士の巡回だ。私は咄嗟に燭台を手で覆い、炎を消した。暗闇の中で息を殺す。心臓の音が書架の間に反響しているような錯覚。足音は書庫の前を通り過ぎ、やがて遠ざかっていった。
闇の中で、私はヴァルトシュタイン家の手記を胸に抱いた。
明日の夜も来よう。明後日も。この書庫にある魔術書を全て読み、理論の骨格を組み上げる。そして——仮説が立てば、検証する。
前世では、研究室と自宅の往復だけで一生が終わった。査読者の顔の見えない評価に一喜一憂し、学会の休憩時間にまずいコーヒーを啜り、誰の役にも立たないかもしれない計算を延々と続けた。
今度は違う。ここには、理論をそのまま手で試せる「魔力」がある。
暗い書庫を抜け、階段を上る。窓の外で東の空がうっすらと白み始めていた。部屋に戻り、冷たい寝台に潜り込む。手記の革表紙の感触がまだ掌に残っている。
眠りに落ちる直前、最後に思ったのはこうだった。
この世界の魔術は、まだ誰も正しく問いを立てていない。ならば——最初の問いを立てるのは、私だ。