第3話
第3話
三日目の夜から、書庫は私の研究室になった。
深夜二時に部屋を出る。裸足にスリッパ、肩掛けを一枚。北棟への道順はもう体が覚えていた。廊下の大理石のどの目地が軋むか、どの角を曲がれば衛士の巡回と鉢合わせるか——すべて初日の観察で記録済みだ。実験計画において環境変数の統制は基本中の基本。この場合の環境変数は、家人の睡眠サイクルと衛士の巡回経路だった。
書庫の扉を開け、燭台に火を灯す。三代前の当主の手記を開く。昨夜の続き、三十七頁から。
ヴァルトシュタイン家の先祖は几帳面な人物だったらしい。自らの魔術実験を逐一記録に残していた。灯火術の消費魔力量、持続時間、術式を構成する各段階での魔力の変動。教科書が「古来よりこうである」で済ませていた部分を、この人は実測値で埋めようとしていた。
——惜しい。データはあるのに、分析の道具がない。
前世の私なら、このデータ群を見た瞬間にまず散布図を描く。横軸に投入魔力量、縦軸に出力。そうすれば一目で分かるはずだ。線形関係なのか、飽和曲線を描くのか、あるいは閾値を持つ階段関数なのか。
ペンと紙がいる。
書庫の奥を探すと、帳簿用の古い羽根ペンとインク壺、そして裏が白い帳簿の切れ端が見つかった。インクは乾きかけていたが、唾で湿らせれば何とか使える。優雅さの欠片もない手段だったが、公爵令嬢の矜持で微分方程式は解けない。
手記のデータを書き写し、図に起こす。
横軸——投入魔力量。縦軸——術式の出力。プロットされた点を眺める。
やはり、線形ではなかった。
投入魔力を増やしても、出力はある地点から頭打ちになる。それ自体は直感的に理解できる。問題はその飽和の仕方だった。教科書が暗黙に仮定している効率曲線と、実測値の間に、明確な乖離がある。投入魔力の三割近くが、どこかに消えている。
『三割。三割の損失』
前世で電力伝送の効率が三割も落ちていたら、送電網は成り立たない。それがこの世界では何百年も放置されてきた。誰もそれを「損失」と認識していなかったからだ。全体像を描くための道具——数理モデルがなければ、「本来どれだけ出るはずか」という問い自体が生まれない。
私は帳簿の裏紙を新たに一枚取り、震える手でペンを走らせた。
魔力伝導の基礎方程式。前世の電磁気学から類推する。魔力の流れを連続体として扱い、伝導経路における散逸項を導入する。この散逸項が三割の損失を説明するはずだ。そして散逸の原因が特定できれば、それを最小化する術式の構造も自ずと見えてくる。
仮説はこうだ。既存の術式は魔力の伝導経路が冗長で、不要な分岐が散逸を生んでいる。詠唱の各音節が魔力の流れを制御するゲートだとすれば、現行の術式はゲートの配置が最適化されていない。経験則でゲートを増やし続けた結果、本来は不要な迂回路が生まれ、そこで魔力が熱として放散されている。
つまり——詠唱を短縮し、伝導経路を直線化すれば、損失は減る。
七日目の夜。理論の骨格がようやく形になった。帳簿の裏紙は十三枚を数え、方程式と図表で埋め尽くされていた。燭台は五本目。蝋の消費量から逆算すると、この一週間で書庫に籠もった時間は合計三十時間を超えている。
検証の時が来た。
最も単純な術式——基礎灯火術を選ぶ。掌に小さな光を灯すだけの、魔術の入門篇。既存の術式では詠唱が八音節。私の理論に基づいて伝導経路を再設計すると、必要な音節は五つにまで減る。
深呼吸をする。書庫の乾いた空気が肺を満たし、埃の粒子が鼻腔をくすぐった。
前世では、理論を検証する手段は加速器だった。何十億もの予算と、何百人もの協力者と、何年もの準備が必要だった。けれど今、私の手の中には自前の実験装置がある。この身体に宿る魔力そのものが。
右手を開く。掌に意識を集中させると、あの温もりが応えるように脈打った。
短縮した詠唱を、声に出さず口の中だけで紡ぐ。五音節。魔力の流れが掌の中心に収束していくのを感じる。従来の八音節では三度の分岐を経ていた伝導経路が、五音節では一直線に——
光が灯った。
小さな、けれど確かな光。燭台の炎とは異質の、純白に近い輝き。掌の上で揺れもせず、静かに、まるで重力を忘れた水滴のように浮かんでいる。
『明るい。従来の灯火術より、明らかに明るい』
持続時間を計る手段がないことに気づき、仕方なく心の中で数を数え始めた。一、二、三——。
百を数えた時点で、光は微塵も衰えていなかった。従来の灯火術が百二十ほどで減衰し始めることを考えると、これは少なくとも倍の持続時間を意味する。
仮説は正しかった。
胸の奥から込み上げてくるものがあった。前世で何年も味わえなかった感覚——理論が現実と一致した瞬間の、あの静かな爆発。泣きたいのか笑いたいのか分からない、けれど確かに世界の秘密を一枚めくった手応え。
——だが、次の瞬間。
光が膨張した。
白い光球が掌から溢れ、一気にその直径を三倍に広げた。熱が手のひらを焼く。制御が利かない。散逸を減らした分だけ出力が集中し、制御に必要な余裕を食い潰している。前世の言葉で言えば、フィードバック制御なしにゲインだけ上げたようなものだ。当たり前の帰結なのに、成功の興奮で見落とした。
「——っ!」
咄嗟に手を振り払う。光球が指先から離れ、放物線を描いて飛んだ。
書架に当たった。
乾ききった古い紙と革の表紙が、一瞬で炎を上げた。
悲鳴を呑み込み、肩掛けを引き剥がして炎に被せる。布が焦げる臭いが鼻を突く。押さえつけ、叩き、必死に酸素を断つ。火は幸い小さく、十秒ほどで消えた。だが残されたのは、書架の側板に刻まれた黒い焼け焦げと、二冊の本の背表紙を舐めた煤の跡だった。
書庫に焦げた紙の匂いが充満している。燭台の炎だけが何事もなかったかのように揺れている。
私は焼け跡の前に崩れるように座り込んだ。両手が震えている。成功と失敗が、こんなにも近い距離に並んでいる。
翌朝。いつもの時間に盆を持ってきた侍女の顔が強張っていた。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
五日ぶりの召喚。理由は聞くまでもなかった。
お父様の書斎は一階の南棟にある。重い扉を開けると、窓際の執務机に座ったお父様が、こちらを見もせずに言った。
「書庫の焼け跡について、説明を聞こうか」
衛士が見つけたのだろう。あるいは焦げた匂いが朝まで残っていたか。
「——申し訳ございません、お父様。魔術の練習中に、制御を誤りました」
「魔術の練習」
お父様の声に、初めて感情が混じった。それは怒りではなく、疲労だった。
「断罪され、この屋敷に戻り、謹慎の身でありながら——夜中に書庫で魔術の練習か」
私は答えなかった。ここで理論の話をしても、意味がないことは分かっていた。
「書庫への立ち入りを禁ずる。今後、北棟には近づくな」
それだけ言って、お父様は再び書類に目を落とした。反論の余地など、最初から与えられていなかった。
部屋に戻る。廊下を歩きながら、私は自分の掌を見つめた。昨夜の灯火の残像がまだそこにあるような気がした。
理論は正しかった。効率は確かに改善された。けれど制御の問題を解決しなければ、理論は理論のままだ。そして制御を学ぶには、もっと多くの文献と、安全に実験できる環境が必要になる。
書庫を失った今、この屋敷にはもうどちらもない。
窓の外では春の陽光が庭園を照らしている。薔薇の蕾はまだ固いが、あと半月もすれば咲くだろう。けれどその頃、私はまだこの部屋で三度の食事を待つだけの日々を送っているのだろうか。
寝台の下に隠しておいた帳簿の裏紙——十三枚の方程式を取り出す。焦げた肩掛けの代わりに、これだけが昨夜の成果として手元に残った。
『この理論を証明する場所がいる。この屋敷の外に』
社交界は閉ざされた。実家にも居場所はない。ならば——まだ足を踏み入れていない場所を探すしかない。
十三枚の紙を丁寧に畳み、胸元にしまう。掌にはまだ、あの光の温もりが微かに残っていた。