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無紋の始原

第1話 第1話

第1話

第1話

朝靄がまだ晴れきらぬ刻限に、カイは既に中庭の井戸端に立っていた。革の手桶を繰り返し引き上げ、演習場の水瓶を満たす——それが、冒険者学院におけるカイの一日の始まりだった。

井戸の滑車が軋む音だけが、静まり返った中庭に響く。桶を引き上げるたび、濡れた革の匂いが鼻をつき、指先に冷水の感触が沁みた。息を吐けば白い。カイは凍えた手を交互に腿に押し当てて温めながら、黙々と作業を続けた。

辺境の街バルドゥーラ。大陸の東端に位置するこの街は、魔獣の出没する未踏領域と人の営みとが隣り合う境界の地である。街の北側の丘に建つバルドゥーラ冒険者学院には、大陸各地から若き才能が集い、剣と魔術の研鑽を積んでいた。

カイもまた、その学院に籍を置く十五の少年だった。ただし、他の学生たちとは決定的に異なる点がある。

魔力の刻印を、持たない。

この世界において、魔術の素養は身体に現れる刻印によって示される。十二から十四の間に自然と浮かび上がるそれは、腕や胸、背に紋様を描き、術者としての資質を証明する。学院の同期は例外なくその刻印を宿していた。ある者は炎の赤、ある者は風の翠、ある者は大地の琥珀——それぞれの色と形が、彼らの才能そのものだった。

カイの肌には、何もない。まっさらな左腕を見るたびに、胸の奥が軋んだ。入学時の適性審査で検査官が三度も腕を確認し直したときの、あの気まずい沈黙を、カイは今でも覚えている。

「おい無紋、水まだか。午前の演習に間に合わねえぞ」

声をかけてきたのは上級生のドルクだった。太い腕を組み、カイを見下ろすその目には軽蔑と無関心が同居している。右腕に刻まれた深紅の刻印が、朝日を受けて鈍く脈動していた。カイは「すぐに」とだけ答え、重い水桶を抱えて演習場へ向かった。水が揺れるたびに革桶の縁から飛沫がこぼれ、足元の石畳を濡らした。

演習場では既に同期たちが準備運動を始めていた。剣を素振りする者、掌に魔力を灯して感覚を確かめる者。朝の陽光が彼らの刻印を照らし、それぞれの色彩が仄かに輝く。カイは水瓶に水を注ぎ終えると、演習場の端に置かれた木箱に腰を下ろした。ここがカイの定位置だった。参加は許されない。見学すら「目障りだ」と言われる。ただ、雑用が残っている間はここにいる理由がある。

教官のバルネスが訓練の号令をかけた。同期たちが二人一組で魔術の応酬を始める。防護壁に守られた演習場に、炎と氷がぶつかり合う轟音が響いた。焦げた空気の匂いと、氷が砕ける甘い冷気が交互に頬を撫でる。地面が振動し、木箱ごとカイの身体が小さく揺れた。

カイはそれを横目に、木箱の上で膝を抱えた。指先が冷たい。四月とはいえ、バルドゥーラの朝はまだ寒い。演習の熱気が遠い世界の出来事のように感じられた。

「カイ、演習場の掃除は午後でいい。午前は書庫の整理を頼む」

バルネス教官がこちらを見もせずに言った。配慮なのか厄介払いなのか、もはや区別はつかない。カイは黙って頷き、演習場を後にした。

学院の地下へと続く石段は、いつも薄暗い。壁に等間隔で据えられた灯火石の光だけが足元を照らす。湿った空気が肌に触れるたびに、地上の喧騒が遠のいていく。石段を一段下りるごとに気温が変わり、革靴の底を通して石の冷たさが足裏に伝わった。壁面には苔がうっすらと這い、指で触れるとひんやりとした水気が残る。三階分を下ると、重い樫の扉がある。古文書庫。学院の創設期から蓄積された巻物や書簡が埃とともに眠る場所だった。

ここを訪れる者は、カイ以外にいない。

教官たちですら「あの書庫にはもう読むべきものはない」と言う。分類も整理もされぬまま放置された羊皮紙の山は、確かに大半が判読不能なほど風化していた。だがカイにとっては、この薄暗い地下だけが息のできる場所だった。刻印を持たない自分を見る目がない。哀れみも軽蔑も届かない。ただ古い紙と静寂だけがある。

灯火石を掲げ、奥へ進む。埃の匂いと、古い紙の匂い。書架の間を縫うように歩きながら、カイは一巻の羊皮紙を手に取った。先日途中まで読みかけていたものだ。

バルドゥーラ周辺の地誌を記した古い記録。大半は街の成り立ちや交易路の変遷といった退屈な内容だったが、カイはこうした古文に没頭する時間が嫌いではなかった。文字を追う間だけは、刻印のことも、同期の視線のことも忘れられる。

巻物を広げ、灯火石の明かりに近づけた。虫食いだらけの羊皮紙に、かろうじて読み取れる文字が連なっている。

——この地に学院が興される遥か以前、いにしえの魔術師たちがこの丘を選んだのは、地脈の交差点に位置するためであった。彼らは大地の力を直接汲み上げ、現在の術式体系とは根本的に異なる技法を——

ここで文字が途切れていた。虫食いと経年劣化で、続きは判読できない。カイは巻物を裏返し、残った文字を拾おうとした。羊皮紙の裏面は表よりさらに状態が悪く、指先で触れると乾いた繊維がぼろぼろと崩れた。灯火石を限界まで近づけ、目を細めて文字の痕跡を追う。断片的に読み取れたのは、わずか数語。

「——始原の、系譜——」

見慣れない言葉だった。学院の教科書にも、これまで読んだどの書物にも出てこなかった表現だ。カイは眉をひそめ、その四文字を唇の中で繰り返した。始原の系譜。始まりの血筋、という意味だろうか。声にするたび、言葉が舌の上で奇妙な重みを持つ気がした。

気になって周囲の書架を探ったが、関連する記述は見つからなかった。古文書庫の蔵書に体系的な目録はない。この断片がどの文脈に属するのか、手がかりは皆無だった。

カイは巻物を元の場所に戻し、小さく息を吐いた。

「始原の系譜、か」

言葉だけが頭の隅に残った。意味も由来もわからない。ただ、その響きがなぜか胸の奥に引っかかる。刻印を持たない自分が、いにしえの魔術師の記録に惹かれるなど滑稽だとわかっている。それでも——この四文字には、何か見過ごしてはならないものが潜んでいる気がした。

地下の静寂の中で、灯火石の光が微かに揺れた。空気の流れが変わったのだろうか。カイは顔を上げ、書庫の奥を見やった。灯りの届かない暗がりが、じっとこちらを見返している。冷たい風が書架の隙間を抜け、積み上げられた羊皮紙の端をかすかに揺らした。地上からの風ではない。もっと深い場所から——書庫の、さらに奥から流れてくるような気配だった。

いつもと同じ書庫のはずだった。だが今日に限って、その闇の奥に、まだ自分の知らない何かがあるような——そんな錯覚が拭えなかった。

石段を上がり地上に戻ると、午後の陽が中庭を白く照らしていた。演習場からは相変わらず魔術の応酬が響いている。カイは目を細め、光の眩しさに一瞬立ち止まった。地下の暗がりに馴れた目には、同期たちの刻印が放つ淡い輝きが、いっそう鮮烈に映る。

——明日もまた、同じ一日が来る。

水を汲み、雑用をこなし、書庫に潜り、誰とも言葉を交わさずに眠る。刻印は明日も現れない。カイにはそれがわかっていた。わかっていて、それでも学院を去れない。ここを出れば、行く場所がない。

だが、あの言葉だけが消えなかった。

始原の系譜。あの巻物の、虫食いの向こうに何が書かれていたのか。いにしえの魔術師たちは、この丘の地下で何をしていたのか。

カイは中庭を横切りながら、もう一度だけ地下への石段を振り返った。夕暮れの光が斜めに差し込み、最初の数段だけを照らしている。その先は、闇。

明日、もう一度あの巻物を探そう。もっと奥まで調べれば、続きが見つかるかもしれない。

それが何の役に立つのかはわからない。刻印のない自分に、古い魔術の記録など無縁のはずだ。

——それでも。

足を止め、カイは自分の左腕を見下ろした。何も刻まれていない、ただの肌。十五年間ずっとそうだった。明日もきっと変わらない。

けれど今日、あの古文書庫の闇の奥に、確かに何かの気配を感じた。それが何であれ、カイが自分の意志で踏み出せる唯一の一歩は、あの石段を下りることだけだった。

灯火石の残り火が、地下の入口でちらちらと瞬いている。まるで、明日また来いと言うように。

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