第2話
第2話
朝の水汲みを終え、演習場の水瓶を満たし終えたとき、カイの脳裏にはまだ昨日の四文字が残っていた。始原の系譜。眠りの浅い夜を越えてなお、その響きは薄れるどころか、かえって輪郭を増しているようだった。
今日こそ、あの巻物の続きを探そう。古文書庫の奥にはまだ手をつけていない書架がいくつもある。あの断片と同じ筆跡の文書が、どこかに埋もれているかもしれない。
そう考えながら中庭を横切ろうとしたとき、背後から声がかかった。
「カイ。食堂に来い」
振り返ると、同期のハルトが気まずそうな顔で立っていた。風の翠の刻印を持つ温厚な少年で、カイに対して積極的に悪意を向けることはない。だがその目が泳いでいた。
「レオンが呼んでる。食堂で、全員の前で話があるって」
レオン・ヴァルシュタイン。学院始まって以来の天才と謳われる筆頭候補生。双属性の刻印——右腕に蒼炎、左腕に白雷——を持ち、実技演習では教官すら舌を巻く。学院の誰もがレオンに一目置き、レオンの言葉は教官の訓示より重い。そのレオンが、カイを名指しで呼んでいる。
嫌な予感が、胸の底を這った。
食堂に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
長卓が並ぶ広間には百人近い学生が集まっていた。朝食の時間はとうに過ぎている。にもかかわらず誰一人席を立たず、入口に現れたカイを一斉に見た。好奇、嘲り、あるいは哀れみ。百の視線がカイの肌を刺す。
広間の中央、教官席の前にレオンが立っていた。陽光が高窓から差し込み、銀灰色の髪を白く照らしている。整った顔に浮かぶのは、怒りでも軽蔑でもない。もっと冷たいもの——退屈と義務感の入り混じった、事務的な表情だった。
「来たか、無紋」
レオンの声が食堂に響いた。低く、よく通る声だった。広間の囁きが一瞬で消える。
「単刀直入に言う」
レオンが左手に持っていた一枚の紙を、カイの足元に滑らせた。羊皮紙ではない。学院の公式書式に使われる白い上質紙。その上部に、見覚えのある学院の紋章が押されていた。
退学届。
カイの視界が一瞬、狭まった。
「お前がここにいる意味を、俺は理解できない」
レオンの言葉には感情がなかった。それがかえって残酷だった。怒りや蔑みであれば、まだ反発のしようがある。だがレオンの口調は、壊れた道具の処分を提案するときのそれだった。
「刻印がない。魔術が使えない。剣技の訓練にも参加しない。学院の演習に貢献できず、ただ水を汲み、床を掃いている。それは学生ではない。使用人だ」
広間のどこかで、短い笑いが起きた。それを皮切りに、あちこちで忍び笑いが漏れる。カイは足元の退学届を見つめたまま動けなかった。文字が読めた。退学届。氏名欄は空白。カイ自身の手で名を書かせるつもりだ。
「お前のためでもある。ここにいても辛いだけだろう」
レオンの声が、一段だけ柔らかくなった。それが本心からの言葉なのか、衆目の前での体裁なのか、カイには判断がつかなかった。ただ、その微かな優しさの気配が、蔑みよりもずっと深くカイの胸を抉った。哀れまれている。最も才能ある者から、最も何も持たない者への、上からの慈悲。
カイは広間を見渡した。教官たちの姿を探した。バルネス教官が壁際に立っていた。目が合った。だが教官は視線を逸らし、腕を組んだまま黙っていた。止めるつもりはない。他の教官も同じだった。誰一人、口を開かない。黙認。あるいは、歓迎ですらあるのかもしれない。
言葉が出なかった。喉の奥が焼けるように熱い。反論すべきだと頭ではわかっている。だが何を言えばいい。刻印がないのは事実だ。魔術が使えないのも事実だ。レオンの言葉には、一片の嘘もない。
退学届が足元で白く光っている。拾い上げて破り捨てる——そんな気概があれば、とうに別の生き方をしていた。
カイは背を向けた。一言も発さず、食堂を出た。背後で誰かが「やっぱりな」と呟くのが聞こえた。足が勝手に動いた。中庭を横切り、地下への石段を下りる。一段、また一段。暗がりが近づくたびに、喉の奥の熱が目の裏側へ込み上げてくる。
古文書庫の重い扉を押し開け、中に滑り込んだ。扉が背後で閉まる。静寂が降りる。灯火石の仄かな明かりだけが、埃の浮遊する空気を照らしていた。
ここまで来てようやく、足が止まった。
膝が震えていた。呼吸が浅い。壁に背を預け、ずるずるとその場にしゃがみ込む。革靴の底が石の床を擦る音が、やけに大きく響いた。
目を閉じると、食堂の光景が瞼の裏に焼きついていた。百の視線。レオンの事務的な声。バルネス教官の逸らされた目。足元に滑る白い紙。
情けない。一言も返せなかった。震える声でもいい、的外れでもいい、何か一つでも言葉を返すべきだった。だが喉は凍りつき、唇は石のように動かなかった。無紋であることよりも、その沈黙が、カイ自身を最も深く傷つけていた。
——お前のためでもある。
レオンの声が耳の奥で反響する。
「うるさい」
声が漏れた。自分でも驚くほど掠れた声だった。拳を握り締めた。爪が掌に食い込む。痛みが、喉の奥の熱を別の場所へ押しやった。
「うるさいんだよ——」
立ち上がり、拳を振るった。行き場のない感情が腕を突き動かし、古文書庫の最奥の壁に叩きつけた。石の冷たさと硬さが拳の骨を打ち、鈍い痛みが肘まで走った。
だが、拳が壁にめり込んだ。
正確には——壁が、崩れた。
カイの拳が触れた箇所を中心に、石壁の表面が蜘蛛の巣状に亀裂を走らせ、乾いた音とともに内側へ崩落した。石片と埃が噴き出し、カイは咄嗟に顔を腕で覆った。
埃が薄れるまで、数十の呼吸を要した。
腕を下ろし、目を開ける。壁があったはずの場所に、人ひとりが通れるほどの穴が開いていた。灯火石の光が穴の縁を照らし、その奥に空間が広がっていることを示している。
ありえない。この壁は学院の基礎構造の一部だ。素手で崩れるような脆い造りではない。カイは自分の拳を見下ろした。皮が剥け、血が滲んでいる。だが骨は折れていない。石壁を砕くような力など、カイにあるはずがなかった。
冷たい風が、穴の奥から吹き抜けてきた。
昨日と同じ風だ。書架の隙間を抜けた、あの深い場所からの気配。それが今、壁の向こうから明確な流れとなってカイの頬を撫でている。古い石と、もっと古い何かの匂い。土でも黴でもない。もっと根源的な、大地そのものの息吹のような。
カイは灯火石を拾い上げ、穴に近づいた。足元に散乱する石片を踏むたびに、乾いた音が奥へ反響していく。反響の長さが、向こう側の空間の広さを告げていた。
穴の縁に手をかけ、身を屈めて中を覗き込む。灯火石の光が届く範囲は数歩先まで。だがそのわずかな光の中に、磨かれた石の床が見えた。埃に覆われているが、明らかに人の手で整えられた床面だった。
書庫の奥に、誰も知らない空間がある。
退学届のことが、一瞬だけ頭から消えた。恐怖よりも、痛みよりも、それ以外の何かがカイの胸を占めていた。昨日この闇の奥に感じた気配。始原の系譜という四文字。虫食いの巻物に記された、いにしえの魔術師たちの痕跡。
すべてが、この穴の向こうに繋がっている気がした。
カイは灯火石を掲げ、壁の裂け目に足を踏み入れた。崩れた石片が靴底で軋む。冷たい風が正面から吹きつけ、灯火石の炎を揺らした。光が壁面を舐めるように動き、その表面に刻まれた文様の断片を一瞬だけ浮かび上がらせた。
見たことのない文字だった。学院で教わるどの術式言語とも異なる、もっと古い——もっと原初的な線の連なり。
風が強くなった。灯火石の炎が大きく傾ぎ、影が跳ねる。カイは歩みを止めず、暗がりの奥へと進んだ。背後で、崩れた壁の欠片がひとつ、床に落ちる音がした。それきり、古文書庫の静寂が戻る。
穴の向こうの闇は深く、灯火石の光を呑み込むように広がっていた。だがカイの足は止まらなかった。戻る場所は、もうない。食堂の白い紙が待つ地上よりも、この知らない暗がりの方が、まだ息ができる気がした。
数歩先の闇の中で、何かが淡く光った。石の表面に宿る燐光のような、かすかな青白い輝き。
カイは灯火石を高く掲げ、さらに一歩、奥へ踏み出した。