第3話
第3話
眠れなかった。
右腕の紋様が脈動するたびに、皮膚の下を熱い針が走る。波のように寄せては返す痛み。カイは歯を食いしばり、壁に背を預けたまま夜を過ごした。宿舎の薄い壁の向こうから、他の坑夫たちのいびきが聞こえる。平穏な夜。カイの身体の中だけが、別の時間を刻んでいた。
紋様が動いている。
右前腕に留まっていた青白い線が、じわりと広がり始めた。上腕を越え、肩を這い、鎖骨の下へ。一本の線が枝分かれし、新たな文字を形成していく。古代の文字が皮膚の内側から浮き上がるたびに、焼き鏝を押し当てられたような痛みが走った。肉の奥を何かが這いずるような感触。自分の身体が、自分のものではない何かに書き換えられていく恐怖が、痛みよりもなお深くカイの背筋を凍らせた。
声を殺す。壁を拳で叩きたい衝動を抑え、膝を抱える。汗が顎から滴り落ちた。
夜明けまでに、紋様は左胸まで到達していた。心臓の直上。そこで線の進行が止まり、脈動が落ち着いた。まるで目的地に辿り着いたかのように。
鏡はない。だが掌を胸に当てればわかる。皮膚の表面は滑らかなのに、その下に異物がある。熱を持ち、呼吸し、カイの心拍に合わせて明滅する何か。
刻印が、完成した。
そう直感した根拠はない。だが骨の奥の疼きが消えている。三年間カイを坑道の奥へ引き寄せ続けた、あの磁力のような感覚。それが今朝、完全に沈黙していた。壁の紋様はもうカイを呼ばない。呼ぶ必要がなくなったのだ。全てがカイの中に移ったから。
作業着を重ね着した。長袖の下に包帯を巻き、その上から更に袖を下ろす。胸元まで覆えば、光は漏れない。
朝の鐘が鳴った。
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坑道に降りると、空気がざわついていた。
昨夜の崩落の影響で封鎖区画周辺の支柱点検が入り、通常の採掘ルートが半分使えない。坑夫たちは不満を漏らしながら、残った区画に詰め込まれていた。狭い。人と人の距離が近い。湿った岩の匂いと、汗と、ランタンの油煙が混じり合って、空気が重い。
カイは意識的に距離を取った。リュートに触れたときの感覚が、指先にまだ残っている。吸引。紋様が他者の何かを引き寄せる力。あれが意図せず発動したらどうなる。この密集した坑道の中で。
「カイ」
リュートが隣の坑壁から声をかけてきた。顔色は昨夜より戻っているが、目の下に隈がある。眠れなかったのだろう。カイだけではなく。
「腕、どうだ」
「——広がった。胸まで」
小声で答えた。周囲の喧騒に紛れる程度の音量。リュートの目が一瞬見開かれたが、すぐに表情を消した。
「制御できるのか」
「わからない。触れなければ大丈夫だと思う」
「思う、か」
リュートの声に非難はなかった。ただ事実を確認している。それがかえってカイの胸を刺す。こいつは怖がっていない。昨夜、力を吸われたにもかかわらず。
「距離を取れ。俺に近づくな」
カイが言った。リュートは答えず、つるはしを担いで持ち場に向かった。その背中を見送りながら、カイは拳を握った。紋様が微かに疼いた。リュートの背中に向かって、何かが伸びようとする感覚を、カイは意志の力で押し潰した。
午前の作業は平穏だった。カイは他の坑夫から離れた壁面を選び、黙々とつるはしを振るった。振り下ろすたびに右腕の紋様が微かに脈動する。だが暴走する気配はない。岩を砕く衝撃が腕を伝い、紋様がそれに反応して波紋のように光る。まるで新しい器官が、身体の動きに馴染もうとしているかのようだった。
昼の休憩。カイは坑道の隅で一人、パンを齧った。坑夫たちの輪には入らない。いつもと同じだ。ただ理由が違う。
午後。作業再開から二時間が経った頃。
異変は突然だった。
支柱の軋み。昨夜の崩落で地盤が緩んでいた区画の、隣の坑道。点検済みのはずの天井から、拳大の岩が落ちた。続いて、腕ほどの太さの岩。連鎖。
「退避しろ!」
ドルクの怒号。坑夫たちが出口に向かって走る。カイも走った。だが逆方向だ。崩れ始めた坑道の奥に、リュートの姿があった。
落盤は局所的だった。天井の一角が抜け、岩と土砂がリュートの作業場を直撃した。粉塵が視界を塞ぐ。カイはランタンを捨て、瓦礫の山に取りついた。
「リュート!」
返事がない。岩をどける。素手で。爪が割れる。血が石に滲む。紋様が脈動を速めているが、構っている余裕はない。
三つ目の岩をどけたとき、リュートの腕が見えた。動いていない。
さらに掘る。肩が見え、頭が見えた。額から血が流れている。呼吸は——ある。浅い。だが生きている。
「おい、起きろ」
揺する。反応がない。リュートの身体は腰から下が瓦礫に埋まっていた。岩の重量は見た目で百キロを超える。カイ一人では動かせない。
他の坑夫たちはもう退避している。この区画に残っているのはカイだけだ。天井がまだ軋んでいる。次の崩落がいつ来てもおかしくない。
引きずり出すしかない。
カイはリュートの上半身に手を回した。肩の下に腕を通し、引き上げる体勢を取る。
触れた瞬間、紋様が反応した。
昨夜の比ではなかった。右腕から胸にかけて、青白い光が爆発的に広がる。リュートの身体に触れた両手から、何かが激流のように流れ込んでくる。温かくて、密度があって、生きている。それがリュートの中から、カイの中へ。
「やめろ——」
自分の腕に叫んだ。だが紋様は止まらない。リュートの顔色がみるみる蒼白になっていく。唇から血の気が失せ、肌が蝋のような色に変わる。
紋様が歓喜していた。飢えた獣が肉にありついたように、脈動が加速し、光が増す。身体の奥で何かが満たされていく感覚。それが恐ろしかった。力が漲るのだ。リュートの命を吸い上げるたびに、カイの身体に力が満ちていく。視界が冴え渡り、粉塵の一粒一粒まで見分けられるほどに感覚が研ぎ澄まされていく。その明瞭さが、吐き気を催すほどおぞましかった。
「離れろ——ッ」
カイは全力で自分の腕を引き剥がした。反動で背中から瓦礫に叩きつけられる。衝撃で肺の空気が抜けた。咳き込みながら手を見る。両掌が青白く光っている。震えが止まらない。
リュートが動かない。
呼吸を確認する。——ある。だが昨夜より遥かに弱い。脈は糸のように細く、肌は氷のように冷たい。カイが吸い取ったものが何であれ、リュートの身体から致命的な量を奪った。
頭上で岩盤が軋む。時間がない。
カイは歯を食いしばり、作業着の袖をリュートの身体に巻きつけた。直接触れなければいい。布越しならば。紋様の光が布を通して漏れるが、吸引は——起きない。賭けが当たった。
袖を掴み、リュートの身体を引きずる。腰を埋めていた瓦礫が崩れ、リュートが抜けた。軽い。この男はこんなに軽かったか。いや——カイの膂力が上がっている。リュートから奪った力が、筋肉を駆動している。吐き気がした。
坑道を走る。リュートを引きずりながら。背後で天井が崩落する轟音。粉塵の波がカイの背を押した。
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本坑道に飛び出したとき、坑夫たちが駆け寄ってきた。
「リュート! おい、リュート!」
ドルクがリュートを受け取る。カイは手を離し、後ずさった。
「息はある。だが意識がない」
カイの声は掠れていた。両手をポケットに突っ込む。まだ光っている。紋様の余韻が消えない。
ドルクがリュートの脈を取り、顔をしかめた。
「脈が弱すぎる。外傷はこの額の切り傷だけだが……まるで血を抜かれたみてぇだ」
その言葉が、カイの胸を刺した。血ではない。だがドルクの直感は正しい。カイはリュートから何かを抜き取った。生命そのものに近い、何かを。
リュートが担架で運ばれていく。カイはその場に立ち尽くした。右腕の紋様が静かに脈打っている。もう暴走はしていない。満たされたからだ。リュートの命を喰って、満足したからだ。
掌を見下ろす。十年間つるはしを握り続けた手。石を砕くためだけの手だった。それが今、人の命を吸い取る器官に変わっている。
制御できなかった。触れただけで発動した。この力は——カイの意思を無視する。
宿舎の医務室にリュートが運び込まれた。町医者が首を傾げている。外傷に対して衰弱が酷すぎると。説明がつかないと。
カイは医務室の外で壁に背を預けていた。中には入らない。入れない。また触れてしまったら。
袖の下で、紋様が静かに明滅している。
心臓の上に刻まれた最後の文字が、一際強く光った。まるで、次の獲物を待つように。