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断魔のカイ

第2話 第2話

第2話

第2話

指先が瓦礫の壁に触れる寸前、カイは手を引いた。

右腕の紋様が警告するように脈動を速める。一度目で何が起きたか、身体が覚えている。灼熱。制御不能の奔流。そして崩落。皮膚の表面が焼けるような痛みと、骨の髄まで響く振動。あの瞬間、意識が白く飛び、次に目を開けたときには天井が落ちていた。二度目に耐えられる保証はない。

カイは拳を握り、壁から距離を取った。

暗闇の中、自分の呼吸だけが響く。浅い。空気が薄い。瓦礫の隙間から入る酸素だけでは、長くは保たない。粉塵が肺に絡みつき、呼吸のたびに喉の奥が軋む。冷静に状況を整理する。四方は岩。頭上も岩。右腕の紋様が放つ青白い光だけが、狭い空間を照らしている。光に浮かぶ岩肌は湿っていて、どこか遠くで水が滴る音がする。

動ける。骨は折れていない。だが出口がない。

上方から、くぐもった声が聞こえた。

「——カイ! カイ、いるか!」

リュートだ。

声の方向を探る。頭上やや左。距離はおそらく五メートルから十メートル。瓦礫の層がどれだけの厚さかはわからない。

「いる」

叫んだ。喉が粉塵でざらつき、声が掠れる。届いたのか。

数秒の沈黙。それから、岩を叩く音が始まった。規則的な打撃音。つるはしだ。リュートが掘っている。

「——動くな。掘り抜く」

馬鹿だ、とカイは思った。封鎖区画の崩落現場に単独で入るなど、二次崩落で自分まで埋まる。救助隊を待てばいい。カイ一人のために命を賭ける理由がない。それでも——打撃音の一つ一つに込められた力の加減が、リュートの性格そのものだった。無駄がなく、迷いがない。この男はいつもそうだ。判断したら止まらない。

だがつるはしの音は止まらなかった。一定のリズムで、岩を砕き続けている。

カイは右腕の紋様に目を落とした。皮膚の下で蠢く青白い線。これを見られたら終わりだ。魔力零の人間の身体に、説明のつかない紋様が刻まれている。それが何を意味するか、カイ自身にもわからない。だが町の人間がどう反応するかは想像がつく。

恐怖。排斥。あるいはもっと悪いもの。

右腕を作業着の袖で覆った。紋様の光が布越しに微かに漏れる。完全には隠せない。汗で湿った布地が肌に張りつき、紋様の熱が袖を通して伝わってくる。まるで腕の中に小さな炉が埋め込まれたようだ。

上方の打撃音が近づいてくる。リュートの息遣いが聞こえるほどに。荒い呼吸の合間に、押し殺した呻きが混じる。相当な力で掘り進めている。

「あと少しだ——」

岩が砕ける音。瓦礫の天井に亀裂が走り、小さな穴が開いた。リュートのランタンの光が差し込む。眩しさに目を細める。暗闇に慣れた目には、ランタンの橙色の光すら太陽のように感じた。

「生きてたか」

穴からリュートの顔が覗く。汗と粉塵にまみれた顔。目が合った瞬間、リュートの表情が凍った。

カイの右腕だ。袖の隙間から漏れる青白い光に、リュートの視線が釘付けになっている。

「——何だ、それ」

「後だ。ここを広げろ」

カイは声を低くして言った。空気が薄い。議論している余裕はない。リュートは一瞬迷ったが、すぐにつるはしを振り上げた。穴を広げにかかる。

瓦礫が崩れ、カイが這い出せるだけの隙間ができた。腕を伸ばす。リュートの手がカイの手首を掴んだ。

その瞬間——紋様が反応した。

リュートの手を通じて、何かが流れ込んでくる。いや、逆だ。リュートから何かが流れてくるのではなく、カイの紋様がリュートの中の何かを引き寄せている。微かな、だが確かな吸引力。紋様の光が一段と強まり、リュートの手首を掴む接触面から、目に見えない糸のようなものが引かれていく感覚があった。温かくて、密度がある。それは——生命力そのもののように思えた。

リュートの顔から血の気が引いた。

「っ——」

カイは反射的に手を振り払い、自力で穴から這い出た。リュートが膝をつき、掴まれた手首を押さえている。息が荒い。

「今の、何だ」

「わからない」

嘘ではなかった。紋様が何をしたのか、カイにも理解できていない。ただ、リュートの手首に触れた瞬間、身体の奥で紋様が歓喜するように脈動したのは確かだった。

まるで飢えた獣が、餌の匂いを嗅いだように。

「リュート。大丈夫か」

「——ああ。少し、力が抜けただけだ」

リュートが立ち上がる。足元がふらついている。だが歩ける。カイは距離を保ったまま、リュートの様子を観察した。顔色は悪いが、致命的ではなさそうだ。

「行くぞ。この区画はもう長くない」

天井から砂が落ちている。岩盤の軋みが断続的に響く。二人は無言で崩落区画を抜け、封鎖の鎖をくぐり、本坑道に戻った。

---

地上への昇降機の中で、リュートが口を開いた。

「お前の腕に光る紋様がある。崩落区画で何か起きた。お前はそれを隠そうとしている」

事実の羅列。問い詰める口調ではない。確認だ。

「——そうだ」

「魔術か」

「わからない。俺は魔力零だ」

「魔力零の人間の腕は光らねぇよ」

反論できない。カイは黙った。

昇降機が軋みながら上昇する。錆びた歯車が噛み合う不快な金属音。狭い箱の中で、二人分の呼吸が重なる。リュートはカイの方を見ていなかった。正面の壁を睨むように見据え、何かを考え込んでいる。掴まれた手首を無意識にさすっている。まだ感覚が残っているのだろう。

地上が近づく。光が差し込み始めた瞬間、カイは右腕の紋様を確認した。地下では青白く脈動していた光が、地上の光に紛れて目立たなくなっている。だが完全には消えていない。注意して見れば、皮膚の下に走る線が見える。

「隠せ。今は」

リュートが短く言った。カイは頷き、袖を深く引き下ろした。

昇降機が地上に着く。夜だった。空には星が散らばり、炭鉱町ドゥルムの貧しい灯りが点々と見える。坑口に数人の坑夫が集まっていた。崩落の音を聞いて駆けつけたのだろう。冷たい夜気が肺を刺し、地下の濁った空気との違いに身体が震えた。

「おい、無事か!」

ドルクが走り寄ってくる。カイとリュートの粉塵まみれの姿を見て、顔をしかめた。

「封鎖区画が崩れたのか。怪我は」

「ない。巻き込まれたが運が良かった」

リュートが答えた。カイの代わりに。自然な口調で。カイは黙って頷くだけでいい。

だが——ドルクの視線が、カイの右手に止まった。

袖口から漏れた光。ほんの一瞬。だがドルクの目は捉えていた。

「カイ。お前の手——」

「作業灯の反射だ」

リュートが即座に割り込んだ。ドルクは怪訝な顔をしたが、それ以上は追及しなかった。背後で別の坑夫が崩落の状況を尋ね始め、ドルクの注意がそちらに逸れた。その一瞬の間に、カイは右手をポケットの中に押し込んだ。

坑夫たちの間を抜け、宿舎に向かう道すがら、リュートが低い声で言った。

「長くは誤魔化せない。紋様が消えないなら、この町にはいられなくなる」

カイはわかっていた。魔力を持たない者が異常な力を宿す。それは魔術社会において最も忌避される事象の一つだ。禁忌。呪い。汚染。どんな名前をつけられるにせよ、結末は同じだ。排斥される。

十年前と同じように。

「お前はなぜ助けた」

カイは訊いた。紋様を見た。触れたときに力を吸われた。それでもリュートは黙ってカイの側にいる。理由がわからなかった。

リュートは前を向いたまま答えた。

「お前が死んだら俺の作業量が増える。——前にも言っただろ」

同じ軽口。だが声は震えていなかった。

宿舎の扉が近づく。カイは右腕を押さえた。紋様の脈動は弱まっていたが、消えてはいない。皮膚の下で何かが蠢き、次の瞬間を待っている。

部屋に入り、扉を閉めた。暗闇の中で袖をまくる。

紋様が淡く光っていた。右前腕から上腕、肩の付け根まで。線は増えている。地下にいたときより明らかに範囲が広がっている。

広がっている——まだ、刻印は終わっていない。

カイは壁に背を預け、目を閉じた。瞼の裏に、瓦礫の壁に浮かんでいた新たな古代文字がちらつく。触れなかった文字列。あれにはまだ続きがある。

右腕が疼いた。紋様が呼応するように脈打つ。

明日。明日また坑道に降りる。封鎖区画は完全に崩れたが、紋様はカイの身体の中にある。壁に刻まれていた古代魔術は、もうカイ自身の一部になった。そしてリュートに触れたとき、紋様が何をしたのか——あの吸引の正体を、理解しなければならない。

遠くで、炭鉱の夜番の鐘が鳴った。

カイの右腕の光が、一際強く脈動した。

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