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処刑令嬢は黒衣の辺境で牙を研ぐ

第2話 第2話

第2話

第2話

紫の光は、音もなく世界を呑んだ。

 石畳の冷たさが足裏から遠ざかり、代わりに、胸の奥へ直に流れ込んでくるのは、どこか遠い山の端を吹き抜ける風の匂いであった。鉄錆の香も、熟れた無花果の饐えも、継母の衣に焚き染められた白檀も、すべてが薄い紗の向こうへ退いてゆく。エルネスタは、自分がまだ立っているのか倒れているのかさえ判じ得ぬまま、ただ、肩を支える男の腕の硬さだけを頼りにしていた。薄絹越しに触れる外套の裏地は、思いのほか滑らかで、冷えた絹糸のように指先をくすぐる。

「目を閉じておれ」

 耳元で、低い声が落ちた。頭巾の奥から漏れるその声は、呪文を唱えているのか、それともただ己に言い聞かせているのか、判然とせぬ抑揚で続いている。言葉そのものは知らぬ響きであった。古き司祭が祈祷の折に唱える聖句とも違い、貴族言語の典雅な節回しとも違う。もっと深い、地の底を這う水の音に近い。その一語一語が、彼女の肌の産毛を逆立てるたび、視界の裏で紫の火花が瞬いた。

 どれほどの時が経ったのか。一瞬とも、一刻ともつかぬ空白ののち、足の裏にふたたび重さが戻った。石畳ではない。板張りの、どこか湿気を帯びた床の感触である。

 同時に、頬を打ったのは──氷である。

 否、氷ではない。風に舞う雪片であった。

 エルネスタは反射的に瞼を開いた。

 その眼に飛び込んできたのは、純白であった。

 吹雪。

 窓という窓の向こうに、乳のごとき白の渦が荒れ狂い、低く唸りを上げている。処刑広場の朝日はどこにも無く、空は灰色とも青ともつかぬ昏さに沈んで、ただ雪が、狂ったように横殴りに降り積もっていた。広場の罵声の代わりに、風が石の胸壁を叩く音が、遠雷のように絶えず響いている。石の隙間を縫って忍び込む冷気は、薄絹一枚の身を容赦なく貫き、剥き出しの二の腕には見る間に粟が立った。呼気は、吐いた端から白く凝り、睫毛の先に細かな雪の粒がひとつ、またひとつと張りついてゆく。

 ここは、どこか。

 ソラリオの都では、薔薇の蕾がほころび始める季節であった。それが一瞬のうちに、真冬の──それも、歴とした辺境の真冬の中へ、彼女は運ばれていた。朝には噴水の縁で雀の水浴びを眺めていた指先が、今は己の肘を抱いて震えている。季節そのものを一飛びに跨がれた感覚は、足元の板張りよりも、なお信じ難い。

 男は彼女の肩から腕を離し、一歩、身を退いた。黒の外套の裾が、板の間に積もったわずかな雪片を払い落とす。頭巾の奥の双眸が、じっと彼女を見下ろしていた。抜き身の刃のごときと先ほどは思ったが、こうして間近に見れば、その眼の底には刃の冷たさとは別の、奇妙なほど静かな色が沈んでいる。凪いだ湖のごとき、けれど底知れぬ深みを隠した色。見つめ返すことさえ、どこか憚られた。

「──此処は」

 声が掠れた。喉が、石畳を引きずられていた頃のままに乾いている。己の声であるのに、他人のそれを遠くから聞く心地であった。

「ドラクス辺境伯領、鷹爪城の西の塔だ」

 男──ヴァルドは、頭巾を外しもせずに淡々と告げた。

「王家の手は、ここまでは届かぬ」

 鷹爪城。名だけは聞いたことがあった。北の山脈の懐深く、幾代もの王が討伐軍を差し向けて尽く退けられたという、辺境魔術師の城。中央の貴族たちが夜会で囁く折には、必ず声を潜めた、禁忌めいた響きの名である。そこに、今、自分は立っている。処刑台から──刃が首筋を撫でたまさにその間際から、数えるほどの息継ぎもなく。

 膝が、遅れて力を失った。

 崩れ落ちかけた体を、今度はヴァルドの腕ではなく、背後に現れた古びた長椅子の背が受け止めた。彼がいつの間に置いたのか、それとも元からそこにあったのか、もはや判じる気力も無い。エルネスタは薄絹一枚の肩を震わせ、裸足の踵を板の間に突いたまま、ゆるゆると腰を下ろした。血の滲んだ踵の下に、薄い血の跡が小さく残る。板の木目の一つ一つが、冷え切った足の裏に食い込むようで、痛みとも痺れともつかぬ感覚が背筋を這い上った。

 その朱を、ヴァルドの眼が一瞬だけ掠めた。眉の一筋すら動かぬその視線の中に、けれど、ごくかすかな──憐憫とも、悔悟ともつかぬ何かが、よぎったように思えた。気のせいかもしれなかった。

「湯と、衣を運ばせる」

 短く言い置いて、男は窓辺へと歩を進める。外套の下から覗く長靴の踵が、板の軋みを低く引き連れていった。窓の格子の向こう、吹雪の奥には、黒々とした山の稜線が獣の背骨のように横たわっている。あれが辺境の山並み。その向こうに、自分の生国はもう無いに等しい。

 エルネスタは、震える指を己の首筋へ這わせた。

 ある。

 喉仏の下の、薄い皮膚の継ぎ目。脈が、まだ打っている。冷え切った指先で己の脈を数えるなど、十八年の生涯で初めてのことだ。一、二、三──乱れ打つその拍動が、生きている、という事実を、余すところなく舌の先まで押し上げてくる。鉄の味が、まだ口の奥に残っていた。舌先でそっと上顎をなぞれば、広場で噛みしめた唇の傷が、ひりりと応える。その痛みさえ、今はひどく愛おしい。

 ──生きている。

 その四文字が、胸の底で鈍く炸裂した。

 途端、眦から熱いものが一筋、意思に背いて零れ落ちた。頬を伝い、顎先から薄絹の胸元へ消えていく。それを拭う前に、もう一筋、さらに一筋。止めようとして、却って止まらなくなる類の涙であった。泣かぬ、と胸に刻んだはずの誓いが、身体の方から先に裏切りを働く。継母の前でも、義妹の嘲笑の前でも、王太子の宣告の前でも一滴たりとも零さなかったその涙が、今、誰にも見られぬはずの辺境の塔で、堰を切ったように溢れてゆく。

 けれども、声は上げなかった。

 窓辺のヴァルドは、こちらを振り返りもしない。吹雪の唸りの中、ただ外套の背だけが、黙して立っている。見て見ぬ振りをしてくれているのだと、ようやく気づいたのは、涙の勢いが少し衰えてからのことだった。この男は、彼女が「令嬢」としての仮面を保てぬ数呼吸を、律儀に背を向けて待っている。広場の群衆が、貴族の涙を肴に酒を呷る者どもであったことを思えば、その背中のなんと遠く、なんと静かなことか。黒衣の肩は微動だにせず、ただ吹雪の唸りだけが、彼女の嗚咽の代わりに部屋を満たしてくれていた。

 エルネスタは両の掌で顔を覆い、声を殺して、ただ一度だけ、長く息を吐いた。

 吐息の白さが、指の隙間から立ち昇る。

 その白が風に散る頃には、彼女はもう、顔を上げていた。

 涙はまだ乾いてはいない。それでも、眼の奥の熱だけは、先ほどとは別の色に変わりつつあった。流れ込んできた二度目の記憶。国が腐り落ちていく頁の一枚一枚。継母の扇、義妹の白手巾、王太子の退屈そうな指先──あれらはすべて、今もあの都で笑っている。自分が石畳の上で事切れたものと信じ込んだまま、今宵の晩餐の酒の銘柄でも選んでいるに違いない。卓上の燭台の灯、銀器の触れ合う澄んだ音、義妹の髪に結わえられた薔薇の香──その全てが、彼女の首を刎ねた手で、今まさに供されているのだ。

 ──知らしめねばなるまい。

 唇の裏を、もう一度、軽く噛む。鉄の味は、もはや処刑の名残ではなく、己の覚悟を確かめるための味であった。冷えた指先が、次第に内側から熱を取り戻してゆく。凍えとは別の、腹の底から這い上る熱であった。

「ヴァルド殿」

 掠れた声が、吹雪の唸りの合間を縫って、男の背に届く。

 黒衣の肩が、わずかに動いた。

「なにゆえ、私を」

 問いは、それ以上続かなかった。なにゆえ助けたのか。なにゆえ、無実を知っていると言い切れるのか。なにゆえ、辺境の禁忌めいた魔術師が、中央の一令嬢の処刑に間に合うように馳せつけたのか。問うべき「なにゆえ」は幾らでもあったが、そのどれもが、今この刹那に答えを求めるには重すぎる気がした。

 ヴァルドは、振り返らぬまま、吹雪の向こうを見据えたままで、短く応えた。

「それは、追々」

 それきり、男は口を閉ざした。

 窓の外、雪の渦の奥で、何かが一度だけ、ちらりと紫に光ったように見えた。気のせいか、それとも、まだ先ほどの転移術の余韻が空に残っているのか。エルネスタには判じようもない。

 ただ、一つだけ、確かなことがあった。

 自分を断頭台から掠った紫電の掠奪者は、いまだその頭巾を外していない。

 その素顔を見るには──そして、その「追々」の答えに辿り着くには──この吹雪の辺境城で、己はもう一度、最初から生き直さねばならぬということ。

 長椅子の背にもたれ、エルネスタは細く息を吸った。冷えた空気が胸の奥まで刺さり、痛みが、かえって甘かった。窓の向こうで、吹雪は一段と強さを増し、鷹爪城の胸壁を低く揺すり始める。その唸りの底に、遠く、一羽の鷹の啼く声が混じったような気がした。

 ──此度の道は、此処から始まる。

 紫の残光がようやく消えた窓辺で、黒衣の男がふと、古傷に触れるように己の右の手首を抑えた。その仕草の意味を、彼女が知るのは、まだ少し先のことである。

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