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処刑令嬢は黒衣の辺境で牙を研ぐ

第1話 第1話

第1話

第1話

天正にも似た遠き年月、ヴァレンツァ公爵家が栄華を誇った都ソラリオの朝。石畳には夜露がまだ残り、処刑広場の中央に据えられた断頭の台へと、鎖に繋がれた一人の娘が引き立てられていった。白い薄絹の下衣は汚れ、裸足の踵は血を滲ませている。石畳の目地に溜まった夜露が、一歩ごとに足裏を刺すように冷たく、土と血の混じった匂いが鼻先をかすめる。それでも娘──エルネスタ・ディ・ヴァレンツァは、背筋だけは折らなかった。折れば、あの女たちに笑われる。それだけは、最後の矜持として、譲れなかった。歯を食いしばった奥で、唇の裏をわずかに噛む。鉄の味が舌先に滲み、それが却って彼女の意識を鋭く研ぎ澄ました。

鉄錆びた首枷が嵌められる。冷たい金物の匂いが鼻腔を刺し、うなじに薄い切り傷ほどの痛みが走った。鎖の継ぎ目が擦れるたび、耳元で鈍い金属音が鳴り、それは遠い日、父に抱き上げられて聞いた礼拝堂の鐘の響きに、どこか似ていた。群衆の罵声は潮鳴りのごとく押し寄せ、腐った果実が幾度か足元に転がった。熟れ過ぎた無花果の甘く饐えた香りが、朝の冷気に混じってむっと立ち上る。「稀代の毒婦」「公爵家の恥」──言葉の一つ一つが、かつて彼女に頭を垂れていた民のものだと思うと、胸の奥が小さく軋んだ。昨日までは「お嬢様」と呼び、花束を差し出してきた顔ぶれさえ、今日は石を握りしめている。人の心の脆さを、こうも鮮やかに見せつけられる日が来るとは。

貴族席に目をやる。最前列、銀糸の扇で口元を覆っているのは継母ジェルトルーデ。扇の縁からのぞく口角がわずかに吊り上がり、勝者の愉悦を噛み殺しきれていない。その隣で涙を拭う仕草をしてみせるのが義妹フィオリーナ。濡れてもいない目元をしきりに押さえる白い手巾の、糊の利きすぎた白さが、却ってその芝居を寒々しく見せていた。そして一段高い玉座風の椅子に、婚約者であったはずの王太子アレクシオが、退屈を隠さぬ横顔で脚を組んでいた。膝に置かれた指先は、退屈そうに椅子の肘をとんとんと叩いている。三人の視線はいずれも、嘲りを湛えて彼女の上に止まっている。

──ああ、この光景を、私は知っている気がする。

処刑官が罪状を読み上げ始めた。曰く、王太子への毒殺未遂、曰く、王家の秘宝の横領、曰く、異国との内通。いずれも、一月前までは影も形もなかった罪状だ。婚約破棄の宣告から、まるで誰かが敷石を並べるように、罪は一つずつ積み上げられていった。弁明の機を与える者はなく、証人は義妹の下女ばかり。公爵家の当主たる父は急な「病」で床に伏し、この広場には居ない。その「病」がどのような色の薬湯から始まったのかを、今の彼女はもう、問うまでもなく知っていた。

薄絹越しに差す白い光が、眼の奥に痛いほど染みる。聖堂の鐘が、刻限を告げて三たび鳴った。鐘の余韻が石壁に跳ね返り、広場の喧騒をひととき呑み込む。処刑人が刃を構える。革手袋の指が柄を握り直す、その軋みまでが、不思議なほどはっきり聞こえた。鈍色の大刃が、朝日を受けて一瞬、鏡のように彼女の顔を映した。そこに映った娘は、十八の年には似合わぬほど、静かな目をしていた。

「主よ、罪なき者の魂を憐れみたまえ」

誰かが小さく呟いたが、それが祈りだったのか嘲弄だったのか、もはや判じる余裕はない。エルネスタは瞼を閉じる。父の笑顔、亡き母の香水、幼い日に駆け回った庭の薔薇──母の香水は、春の終わりに咲く白い薔薇に、ほんのひとさじ蜜を垂らしたような甘さだった。浮かぶ端から、掌の砂のように滑り落ちていく。

──終わる。

そう観念した、まさにその刹那であった。

ぐらり、と視界が揺れた。否、揺れたのは彼女自身の内側だ。頭蓋の奥で雷が鳴った。いや、雷などという生温いものではない。見知らぬはずの光景が、奔流となって脳裏へ流れ込んでくる。黒衣を纏い、玉座の間を歩む自分。毒杯を継母の前に滑らせる白い指先。炎に包まれる王宮、崩れ落ちる尖塔、逃げ惑う王太子の背中を冷ややかに見下ろす己の横顔。そして──同じこの断頭台の上で、既に一度、刃に首を断たれて事切れた、あの時の感触までも。首筋に走った一瞬の灼熱、鉄の味、遠ざかる空の青。すべてが、他人事ではあり得ぬ生々しさで、肌の内側に刻み直されていく。

──これは、一度歩んだ道。

言葉にならぬ戦慄が、指先の痺れとなって降りてくる。絶望ではない。恐怖でもない。冴え渡るような、冷たい理解だった。記憶はなおも奔流を止めぬ。処刑の後、国がいかに腐り落ちていくか。王太子が異国の手に操られ、民が飢え、継母がその果てに毒を呷って死ぬまで。痩せ細った子どもが石畳に蹲る姿、炎に舐められる麦畑、鴉の群れが舞う城壁──そのいずれもが、彼女自身の罪であったかのように胸を焼いた。己が死んだ先の全ての頁が、彼女の脳裏に克明に焼き付けられていく。

──ならば、此度は。

その一語が胸に灯った時、処刑人の刃が振り下ろされた。

風が鳴る。刃風が首筋を撫でる。産毛が逆立ち、うなじの薄皮がひやりと縮む。民の一人が悲鳴のような吐息を漏らした。継母の扇がわずかに下がり、その唇が勝ち誇った弧を描こうとした──まさにその瞬間であった。

天が、裂けた。

広場の真上、雲一つなかった青空に、前触れもなく紫の閃光が奔った。雷ではない。もっと荘厳で、もっと昏い、呪文めいた光だ。空気そのものが震え、耳の奥が詰まるような圧が広場を押し包む。処刑人の振り下ろした刃が、触れぬうちにぱきりと音を立てて半ばから砕けた。大刃の切っ先が石畳を打ち、火花が散る。処刑人は為す術もなく後ずさった。革靴の踵が台の縁を蹴り、背後に転げ落ちかけた体を、同じく凍りついた助手の腕が辛うじて支える。

群衆の罵声が、一斉に悲鳴へと変わる。貴族席では王太子が椅子を蹴って立ち上がり、継母の扇が取り落とされて石の上で跳ねた。銀糸の刺繍が朝日を弾き、ちりん、と澄んだ音を一度だけ残す。義妹は短い叫びを上げて父親の肩に縋りついたが、その父親もまた、蒼白になって天を仰いでいた。

紫の光は収束し、ひとつの人影を描き出す。黒い外套を風に孕ませ、音もなく台上に降り立ったのは、長身の男であった。顔の半ばまで覆う黒の頭巾から覗く双眸は、抜き身の刃よりも冷たい。外套の裾から立ちのぼるのは、雨上がりの鉄と、遠い山の雪のような匂い。男が片手を翻すと、エルネスタの首枷もまた、薄氷を砕くような音を立てて崩れ落ちた。うなじを締め付けていた重さが唐突に消え、そのまま倒れかけた彼女の肩を、男の左腕が静かに支える。

「動くな」

男の低い声は、広場の空気そのものを押さえつけた。王太子の護衛が剣を抜こうとして、しかしその腕は空中で凍ったように止まった。見えぬ鎖に縛られたかの如く、誰一人、指一本動かせぬ。息遣いまでもが、薄い硝子の向こうに閉じ込められたかのように遠い。

エルネスタは仰ぎ見る。その黒衣、その眼差しに、ほんの微かな既視感があった。──確か、一度だけ。社交界の片隅で、言葉を交わしたことがある男。以来、王家が「危険人物」として遠ざけた、辺境の最強魔術師ヴァルド・ドラクス。あの夜、燭台の陰で交わしたのは、ほんの数言の、天候についての他愛ない会話だったはずだ。それなのに、なぜ今、この男が。

男は彼女の前に片膝をつき、躊躇いなくその手を取った。掌は硬く、冷えていて、それでいて不思議と恐怖を感じさせなかった。むしろ、長く冷水に浸していた己の指先に、ようやく血が通い直していくような、奇妙な安堵があった。

「遅くなった」

頭巾の奥、微かに笑ったようにも聞こえる声で、男は告げた。

「お前の無実は、俺が知っている」

その一言が、耳から胸へ、胸から全身へと、冷たい水のように染み渡った瞬間──再び、紫の光が広場を包んだ。継母の叫び、王太子の怒号、民の悲鳴。そのすべてが遠のき、石畳の感触すらも消えていく。視界の端で、砕けた刃が、朝日を受けてまだ鈍く輝いていた。

──これは、一度歩んだ道。だが、二度目の私は、もう泣かぬ。

光が完全に視界を呑み込む寸前、エルネスタの唇は、誰にも聞こえぬほど小さく、しかし確かに、こう動いた。

──待っていよ、あの方々。

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