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聖女をやめた私の辺境薬草園日和

第3話 第3話

第3話

第3話

馬の歩みが、やがてゆるやかな傾斜を登りはじめた。  彼女は外套の襟元を握りしめたまま、夕闇に沈んでいく木立の向こうに目をやっていた。梢の隙間から覗く空は、茜から紫へとゆっくり色を移し、その縁に一番星がぽつりと灯っている。馬の背の揺れは思っていたよりも大きくて、そのたびにカイゼルの腕が、彼女の体を落とさないようにそっと締め直した。締め直す、というより、ただ外套の上から手のひらで位置を確かめる、それだけの動きだった。背後から伝わってくる体温は、鎖帷子の冷たさを挟んでもなお、驚くほど実感があった。  木々がふいに途切れ、視界が開ける。  斜面の下に、低い石垣に囲まれた駐屯地の灯りが見えた。篝火が数本、風に揺れている。その向こうに、いくつもの切妻屋根が黒く並び、煙突からは白い煙が細く立ちのぼっていた。どこかで犬が一度だけ吠え、すぐに静かになる。ああ、人の住む場所だ、と、彼女は喉の奥で思った。神殿の鐘楼も、石畳の大広間も、ここにはない。代わりに、かまどの匂いと、藁と、それからほんのりと馬房の匂いが、風に乗って登ってくる。  「揺らすぞ」  短く言って、カイゼルは馬の足を少しだけ速めた。斜面を下りきると、見張りの兵が松明を掲げて近づいてくる。鞍上の彼女を見て何か言いかけた兵に、カイゼルは片手を上げるだけで黙らせた。問うな、という合図だった。兵は短く敬礼だけを返し、門のほうへ走っていく。その無駄のないやりとりを、彼女は外套の襟に顔を半分埋めたまま、じっと聞いていた。この人の言葉は少ない。少ないのに、すべてが通じている。そのことが、なぜか彼女には眩しく感じられた。

 診療小屋は、駐屯地のいちばん奥まった一角にあった。  扉を押し開けた瞬間、乾いた薬草の匂いがふわりと鼻先に流れてきて、彼女は思わず睫毛を伏せた。知っている匂いだった。けれどそれは、神殿の薬室の、陰鬱に澱んだあの匂いとはどこかちがった。風通しのいい梁の下に、幾種もの草が束ねて吊るされ、土間の隅では小さな炉に薪がくべられている。生きたまま乾かされていく草の匂いは、石室の乳鉢の底にこびりついたそれよりも、ずっと明るかった。  カイゼルは彼女を木の長椅子に下ろすと、奥の間に声をかけた。ほどなくして出てきたのは白髪の老医師ではなく、片足を少し引きずった中年の兵士だった。肩幅の広い、赤ら顔の男で、右手に薬湯の椀を持っている。老医師は往診でまだ戻っていない、と男は低く告げた。カイゼルはわずかに眉を寄せたが、すぐに頷いた。  「ブラド。この娘の、足の傷を見てやってくれ」  ブラドと呼ばれた男は、うむ、と応じて椀を卓に置き、彼女の前にどかりと腰を下ろした。近くで見ると、男の右の太腿には、布越しにも分かるほど大きなしこりがあった。古い刀傷が、うまく塞がらずに残ったのだろう。立ち上がるときも、座るときも、その足だけがひと呼吸遅れる。歩くたびに小さく顔をしかめるのを、本人は気づかれまいとして、かえってはっきりと顔に出してしまっていた。  ブラドの太い指が、彼女の足首をそっと持ち上げる。カイゼルが塗ってくれた軟膏はまだ湿っていて、傷口の周りは綺麗に拭かれていた。ブラドはそれを見て、へえ、と小さく呟いた。  「団長、手際は相変わらずですな」  「慣れていないぶん、丁寧にやった」  「そいつが一番いいんでさ」  短いやりとりの間、彼女はブラドの太腿から目を離せずにいた。座り直すたびに、男の口元がわずかに歪む。布の下で、古い傷がまだ熱を持っている。それが、見ているだけで分かった。いや、分かる、という言葉すら正確ではない。傷の奥で縮こまった筋の一本一本が、彼女の耳のすぐそばで小さく呻いているような、そんな近さだった。薬室で何年も薬草と付き合ううちに染みついた感覚が、この森に来て以来、ずっと眠っていたはずなのに、今だけは妙にはっきりと目を覚ましていた。  何か、してあげたい、と思った。  祭壇に跪くときのような、捧げる、という感覚ではなかった。ただ、目の前の人が少し楽になればいい、それだけの、ちいさな願いだった。

 ブラドが手当ての道具を取りに立ち上がろうとしたとき、彼女はとっさに、その太腿のしこりの上に、指先をそっと伸ばしていた。  自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。  布越しに触れた瞬間、指の腹に、あの青い匂いのような熱がほんのりと灯った。小川のほとりで薬草を摘んだときに感じた、消えかけの残り火。彼女は慌てて指を引こうとしたけれど、手が言うことを聞かなかった。指先の奥、手首の内側の脈を打つあたりから、細い糸のようなものが一本、そろりと引き出されていく感覚があった。熱は指先から布の繊維を伝い、古い傷の奥の、固く縮こまった筋の一点に、ほとり、と落ちていく。雨の最初のひと粒が乾いた土に吸い込まれていくような、そんな落ち方だった。胸の奥で、ずっと忘れていたはずの祈りの言葉が、意味をなさないまま唇の裏側をかすかに撫でていった。ブラドが「うおっ」と小さく声を上げた。  「……なんだ、これは」  男は自分の太腿をまじまじと見下ろしている。立ち上がりかけた姿勢のまま、恐る恐る膝を曲げ、もう一度伸ばす。三度目に膝を曲げたとき、ブラドの顎が、ぽかんと下がった。  「痛みが、引いておる」  声が、少しだけ震えていた。  「戦のあとからずっと、こいつとは長い付き合いでしてな。雨の前の晩には疼いて眠れん夜もあった。女房に八つ当たりして、朝にはばつが悪くて口もきけん、そんな夜を数えきれんほど重ねて——それが、なんだ、この、ぬるま湯に浸けたみてぇな——」  言いかけて、ブラドはふと口をつぐんだ。目の端でカイゼルを窺い、それから、彼女の指先に目を落とす。骨ばった少女の白い指先が、まだかすかに湿り気を帯びたように光っている。彼女自身も、自分の指を見下ろしたまま動けなかった。指先はひやりと冷えていて、けれどその芯のところにだけ、小さな熾火が息づいているような、奇妙な感触が残っていた。こんなにも弱々しい光だったのに、それでも誰かの痛みを緩めることができるのだと、今この瞬間まで信じていなかった。膝の上に戻した手が、小刻みに震えはじめる。違う、と言いたかった。私はもう、そういう者ではないのだと。神殿を追われた日に、この手はすべてを置いてきたはずだった。置いてきたと、自分に何度も言い聞かせてきたはずだった。  けれど、声は出なかった。出せば、きっと嘘になると分かっていたからだ。喉の奥に、小さな石ころがひとつ、ことりと落ちたような気がした。石は落ちたきり、いつまでも溶けずに、息をするたびにかすかな重みを返してくる。  カイゼルは、動かなかった。  炉の火影が、黒い外套の肩にゆっくりと揺れている。彼は、ブラドの膝の動きをひとしきり見届け、それから彼女の指先に、ほんのわずかに視線を移した。ただそれだけだった。驚いた様子もなく、咎める気配もなく、何かを確かめて納得した人間の、静かな息の抜き方だった。——この人は、察した、と彼女は思った。名を問われて答えられなかった娘が、なぜこんな場所に白い衣で倒れていたのか。指先から漏れたこのささやかな熱が、何の残り香なのか。きっと全部ではなくとも、その輪郭のようなものを、この人はもう掴んでしまったのだ。  背筋に、冷たいものがすっと走った。逃げなければ、と、喉の奥がまた強張る。けれどカイゼルは、口を開かなかった。  代わりに、ブラドの肩を軽く叩いた。  「夜番と代われ。今夜はその足を休めろ」  「団長、しかし」  「命令だ」  低い声に、ブラドは渋々といった顔で頷き、最後にもう一度、彼女に向かって深く頭を下げた。恩に着る、という言葉を喉の奥で噛み潰したような、不器用な礼だった。男が診療小屋を出ていく足音は、来たときよりもほんの少しだけ、軽くなっていた。扉が閉まり、炉の薪がぱちりと小さく爆ぜる。静寂が戻ってきてようやく、彼女は自分がずっと息を止めていたことに気づいた。

 カイゼルは、何も言わなかった。  卓に置かれた薬湯の椀をそっと取り、彼女の手のひらに持たせる。まだほんのりと温かかった。彼女は俯いたまま、縁を両手で包み込んだ。問われれば、何かを答えなければならなかった。問われなければ、答えなくていい。その当たり前のことが、今の彼女には救いだった。  やがて、カイゼルは静かに言った。  「今夜は、ここで休め。明日のことは、明日でいい」  明日のことは、明日でいい。その一言が、胸の奥の裂け目に、またひとつ、やわらかな布を重ねていく。彼女は小さく頷き、薬湯をひと口すすった。苦くて、それから、ほんのりと甘かった。  扉の向こうで、夜風が篝火を揺らす音がする。まだ誰にも名を返せない自分の指先を、彼女はそっと見下ろした。消えかけていたはずの残り火が、今夜はほんの少しだけ、行き場を探して揺らいでいるようだった。

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