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聖女をやめた私の辺境薬草園日和

第2話 第2話

第2話

第2話

落ち葉を踏む音が、ひとつ、またひとつと近づいてくる。  彼女は動けなかった。逃げるべきだと頭のどこかが囁くのに、体のほうがとうに諦めてしまっている。両腕で自分を抱きしめたまま、視線だけをそろそろと持ち上げる。黒い外套の裾が、夕風にゆるやかに揺れていた。長靴の踵は、見た目に反してずいぶん静かに土を押している。馬を驚かせないための歩き方が、そのまま彼女のためにも使われているのだと気づくまで、少しだけ時間がかかった。  男は、彼女から数歩離れた場所で足を止めた。近づきすぎず、遠ざかりもしない、その距離の測り方がひどく慣れていた。夕日が肩の線に金の縁を引き、逆光の中で顔の輪郭だけが黒く滲んでいる。それでも、こちらを見下ろす眼差しの温度だけは、なぜかはっきりと伝わってきた。  「……立てるか」  低い声が、もう一度降ってきた。  彼女は小さく首を振った。頷くことも、言葉を返すこともできなかった。喉の奥にずっと固まっていた何かが、やわらかい問いかけを受けて、かえってほどけずにいる。男はそれを責めなかった。ただ、手にしていた革の水筒の蓋を外し、自分の手のひらに少量をこぼしてみせてから、そっと彼女の前に差し出した。毒ではない、と、そうやって示したのだと分かるまで、また数拍かかった。  震える手で受け取る。指先は冷え切っていて、革の感触さえ遠かった。一口、含む。ほんのわずかに薬草の香りがする水だった。舌の上に広がった湿り気が、喉の奥のつかえを溶かしていくのを感じて、彼女は初めて自分がどれほど渇いていたのかを思い知った。もう一口、もう一口と含むうちに、睫毛の先に小さな雫が溜まっていく。それが水のしずくなのか涙なのか、自分でも分からなかった。

 「名は」  水筒を返したあと、男は静かに尋ねた。命じる口調ではなかった。ただ、呼ぶための名を知りたい、それだけの問いだった。  彼女は唇を開きかけて、閉じた。  前世で呼ばれていた名は、もう口にしたくなかった。聖女、とつけられて呼ばれたあの名は、祈祷の間に響くたび彼女から何かを削っていった。石畳の上で最後に叫ばれたあの名は、呪いのようにまだ耳の奥にこびりついている。それ以外の名を、彼女は持っていなかった。生まれたときに母がつけてくれたはずの名さえ、神殿に引き取られた日から誰も呼んでくれなくなっていたのだ。  喉を、何度か上下させる。  「……わかりません」  掠れた声が、ようやくひとつだけ零れた。  嘘ではなかった。本当に、分からなかった。自分をどう呼べばいいのか、どの名が自分のものなのか、この森の空気の中では何ひとつ確信が持てなかった。男は、それを聞いても表情を動かさなかった。意外そうな顔も、訝しむ顔も、哀れむ顔もしなかった。ただ、夕暮れの光の中で一度だけゆっくりと瞬きをした。  「——そうか」  それから、ひどく短く、彼は続けた。  「なら、それでいい」  彼女は、目を見開いた。  それでいい、と、そう言ってくれる人がいるのだと、彼女は知らなかった。名乗れないことを、今この瞬間に答えられないことを、そのまま置いておいていいと許してくれる声を、彼女は長いこと聞いていなかった。喉の奥で固まっていた何かが、今度こそ音もなく崩れていく。小川のせせらぎに紛れるほど小さな嗚咽が、自分の口から漏れていることに気づいて、彼女は慌てて袖口を押し当てた。泣くつもりなどなかった。泣ける場所だと、思っていなかった。  男はそれ以上何も問わなかった。代わりに、膝をついた。  土の湿り気も厭わず片膝を落とし、彼女と同じ高さに視線を合わせる。外套の裾が落ち葉の上に広がった。近づいた分だけ、相手の顔の造作がようやく見えた。短く刈った黒髪、日に焼けた肌、鼻筋の横に薄く残る古い傷痕。眼窩の奥の双眸は、思ったよりもずっと静かな色をしていた。剣を振るう者の眼だと、すぐに分かった。それでいて、今この瞬間、彼女に向けられている色には刃の気配がひとかけらもなかった。  「足を、見せてくれるか」  そう言われて、彼女はようやく自分の足の裏が傷だらけなのを思い出した。

 男は腰の革袋から、乾いた麻布と小さな硝子壜を取り出した。壜の中身は、淡い緑の軟膏だった。蓋を開けた瞬間、馴染みのある青い匂いが立ちのぼって、彼女はわずかに息を詰める。——知っている匂いだ。神殿の薬室で何度も擂り潰した、あの草の香り。陽の当たらない石造りの棚の奥、乳鉢の底に張りついた緑の粘りを、指先で拭っては壜に移した、あの退屈で穏やかな午後の時間まで、匂いと一緒にふっと蘇ってくる。こんな辺境の騎士が、どうしてこれを、と思うより先に、男の指先が彼女の足首にそっと触れた。  節くれだった、大きな手だった。  剣胼胝の固さが、足首の細い骨の上をそろりと滑る。無骨な、というのがまず浮かんだ言葉だった。繊細さとは程遠い手だ。指先は分厚く、爪は短く切り揃えられ、甲には新しい擦り傷がいくつも重なっている。手当ての手順も、決して熟練のそれではなかった。麻布を湿らせる順番を一度迷い、軟膏を掬う量を少し多く取りすぎて、ばつが悪そうに小さく咳払いをした。掬いすぎた分を壜の縁で落とそうとして、指の背にべたりとつけてしまい、今度は低く唸るような息を短く吐く。その不器用さが、かえって彼女の肩から力を抜かせた。この人は、怪我人の扱いに慣れていないわけではないのだろう。ただ、こんなふうに怯えた娘の足に触れることに慣れていないだけなのだと、彼女にはなんとなく分かった。  神殿で、彼女の足に触れた者たちはいつだって手際がよかった。白い手袋をはめた侍女たちが、寸分の狂いもない動作で沐浴の油を塗り、金の櫛で髪を梳き、儀礼用の靴を履かせた。あの手つきはどれも美しく、そして、どこまでも彼女のためではなかった。祭壇に上がる「聖女」という像を整えるための、道具としての手入れだった。触れられているあいだ、彼女はいつも自分の足が自分のものではないような気がしていた。磨かれ、飾られ、誰かの祈りのために捧げられる石像の足先。痛いと言っても、冷たいと言っても、その声はきっと白い手袋の上を滑って落ちていくだけだったろう。  けれど今、足の裏の小さな切り傷に押し当てられている麻布は、ただ彼女の痛みを鎮めるためだけにそこにあった。  ひやりとした軟膏が皮膚に触れた瞬間、じんとした熱が傷口から這い上がってきた。男の指が、迷いながらも丁寧に薬を伸ばしていく。強く押しすぎないように、けれど塗り残しのないように、慎重に何度も往復するその動きを、彼女は息を詰めて見つめていた。触れられている、と、久しぶりに思った。祭壇の上で無数の視線に触れられていた感覚とは、まるで違った。これは、皮膚の表面で止まってくれる触れ方だった。胸の奥を覗き込もうとしない、力を引き出そうともしない、ただ傷のためだけの手だった。男の呼吸は静かで、ときおり、傷の具合を確かめるように軽く息を止めては、また細く吐き出す。その呼吸の間合いが、不思議と彼女自身の呼吸まで整えていくのが分かった。  胸の奥の裂け目の縁が、また少しだけ柔らかくなる。  それが痛いのか、温かいのかも分からないまま、彼女はそっと俯いた。俯いた拍子に、ほろりと一滴、軟膏の壜の上に雫が落ちた。男はそれに気づかないふりをしてくれた。気づかないふりが、こんなにもやさしいものだとは思わなかった。小川のせせらぎが、ふたりの沈黙の間を静かに流れていく。梢の向こうでは、さっきの鳥がまだ、のんびりとした声で鳴いている。

 手当てが終わると、男は立ち上がり、自分の外套を肩から外した。  「夜は冷える」  そう言って、彼女の背にそれを掛ける。厚い布は夕日の熱をまだ含んでいて、肩に触れた瞬間、まるで誰かの体温そのもののように感じられた。裾を引き寄せると、馬と革と、それから微かな鉄の匂いがした。鉄の匂いは、けれど血の気配ではなく、長く使い込まれた鞘のそれだった。  男は馬の手綱を軽く引き、低く言った。  「駐屯地まで、馬で四半刻ほどだ。医者もいる。——俺はカイゼル。辺境守備を預かっている」  カイゼル、と、彼女は口の中だけで繰り返した。その名は、不思議と耳に馴染んだ。  抱き上げられる瞬間、彼女は思わず身を固くしたけれど、男の腕は驚くほど静かに彼女を持ち上げた。鞍の上に横座りに乗せられ、前に回された腕の中で、彼女はようやく深く息を吐く。外套越しに伝わってくる体温が、まだ信じきれないほど温かい。  馬がゆっくりと歩き出す。  木々の間を抜けていくそのたびに、遠くの空に一番星がひとつ、またひとつと灯りはじめていた。名前のない自分を、名前を問わないまま連れていってくれる誰かがいる。それがこの先どこへ続く道なのか、彼女にはまだ分からない。分からないまま、彼女は外套の襟元を、そっと指先で握りしめた。  森の匂いの向こうから、かすかに、かまどの煙の匂いが流れてきた気がした。

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