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聖女をやめた私の辺境薬草園日和

第1話 第1話

第1話

第1話

目を開けた瞬間、指先に触れたのは柔らかな苔だった。  ひんやりとした感触が、祈りの床の冷たさとは似ても似つかなくて、彼女はしばらくそのまま動けなかった。頬のすぐ横で、小さな羊歯の葉が震えている。見上げた先には、高い梢の隙間からこぼれる木漏れ日があった。細い光の筋が幾本も斜めに差し込み、空気中の埃をきらきらと照らしている。どこかで小鳥が鳴いた。名も知らぬ鳥の、ひどくのんびりとした声だった。  ここは、どこだろう。  ゆっくりと体を起こす。白い衣の裾には乾いた土がこびりついていて、裸足の足の裏には湿った落ち葉の感触がした。背中も腕も、奇妙なほど軽い。かつての祭壇の重みも、頭上に掲げられていた銀の冠の締めつけも、もうどこにもない。肩甲骨のあたりに残っていた、幾千の祈りの残響のような疼きさえ、森の空気に溶けて薄れていくようだった。  代わりに、胸の奥に小さな裂け目のような痛みが残っていた。  ——罪人。  ——偽りの聖女。  石畳の上で突きつけられた言葉の冷たさを、まだ覚えている。祈りの果てに捧げ続けた力のぶんだけ、最後には何も残らなかった。命さえも。消えゆく意識の中で見た、仲間だった司祭たちの見下した微笑みを、彼女は思い出してそっと睫毛を伏せた。あの微笑みは、憎しみよりもずっと静かで、それゆえに深く胸を抉った。長年ともに祈りを重ねてきた相手が、ああも簡単に目の色を変えるのだと、あの瞬間に初めて知ったのだ。同じ聖歌を歌い、同じ蝋燭の灯りを分け合ったはずの人々の、あの不思議なほど澄んだ目つきを、彼女は生涯忘れられないだろうと思った。  けれど、ここには誰もいない。  風が吹いた。梢が鳴り、湿った土と若葉の匂いが鼻先をくすぐる。深く息を吸い込むと、胸の奥にあった裂け目の縁が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。肺の隅々まで、森の湿り気がゆっくりと満ちていく。祈祷の間にこもっていた乳香の煙とも、石の廊下に漂う蝋の匂いともちがう、生きているものたちの匂いだった。土の下で根が水を吸い上げ、葉が陽を飲み込み、虫たちが朽木を崩していく——そのすべてがひとつに溶け合った、穏やかで雑多な気配だった。

 少し歩いてみよう、と思ったのは、近くで水音が聞こえたからだった。  苔むした木の根につまずきながら、それでも足を止めずに進んでいく。木々の間隔がやがて広がり、光の束が一段と明るく差し込む場所に出た。小さな流れがあった。幅は人ひとりが跨げるほどの、細い小川だ。川底の白い石がくっきりと見えるほど水は澄んでいて、底を小魚の影がすいと横切っていく。  彼女は膝をつき、両手で水を掬った。  ——冷たい。  指先から手首へ、ひやりとした感覚がまっすぐに駆け抜けていく。顔を洗うと、睫毛の先から落ちる滴が、まるで長い夢の残りを洗い流してくれるようだった。水面に映った自分の顔は、思っていたよりも若かった。頬に赤みが差し、唇はかさついているけれど、そこに聖女の疲れ切った色はない。ただ、森のどこかで迷子になった娘の顔があるだけだった。  何度も水を掬っては顔に押し当てる。そのたびに、こめかみの奥に残っていた鈍い痛みが、薄い紙が剥がれるように少しずつ引いていった。神殿で最後に鏡を覗いたときの、落ち窪んだ目元を思い出す。あの顔はもう、この水面のどこにもいない。代わりに映っているのは、まだ名前もつかないような、生まれたての表情だった。  「……もう、聖女ではなくていい」  声に出して、初めて自分の言葉だと分かった。  誰かに祈る必要も、誰かのために力を絞り出す必要もない。朝が来るたびに重い冠を被らなくていい。ただ、この水で顔を洗って、冷たいと感じていていい。そう思うと、目の奥がじんわりと熱くなった。泣いているのか笑っているのか、自分でもよく分からないまま、彼女は水面に向かって小さく息を吐いた。吐いた息は、白くはならずに川面の上でほどけて消えた。春先の、けれどまだ朝夕には冷えの残る季節なのだろう。そんなどうでもいいことに気づけることさえ、今の彼女には奇妙な贅沢だった。  近くの茂みで、何かが揺れた。  顔を上げると、葉の陰から一匹の野兎がこちらを見ていた。茶色い毛並みがやわらかく光っている。彼女がじっとしていると、兎はしばらく鼻先をひくひくと動かし、やがて興味を失ったように草の奥へと消えていった。その小さな足音を聞き送りながら、彼女は思わず頬をゆるめる。自分を見て、逃げもせず、怯えもしない生きものがいる。それだけのことが、こんなにも胸を温めるのだと、彼女は知らなかった。神殿では、鳩さえも彼女の手から餌を啄むようしつけられていた。けれどこの兎は、誰にしつけられたわけでもなく、ただ自分の意思でそこに居て、自分の意思で去っていったのだ。その当たり前のことが、ひどく眩しく思えた。  前世の記憶の中に、こんなに静かな時間はなかった。

 日が少しずつ傾いていった。  小川のほとりに腰を下ろしたまま、彼女は足元に生えた草を眺めていた。細長い葉、ぎざぎざとした縁、葉裏のかすかな銀色。祈りと同じくらい長く学んだ薬草の知識が、自然と口の中で名前を結んでいく。傷を癒す草、熱を下げる草、眠りを誘う草。かつては神殿の薬室で、司祭たちのために擂り潰していた草たちだ。石の乳鉢に擦れる乾いた音と、換気の悪い薬室にこもる青臭い匂いが、まぶたの裏に一瞬だけよみがえって、すぐに川のせせらぎに洗い流された。  指先で一枚、そっと摘まんでみる。  青い匂いが立ちのぼった。同時に、指の先にほんの微かな熱が灯る。ずっと昔、祭壇で光を放っていたあの力の、ひどく頼りない残り香のようなものだった。かつてなら、この程度の熱には気づきもせず、もっと激しい光を引き出そうと身を削っていただろう。けれど今は、その弱々しい温もりがむしろ愛おしかった。消えかけの残り火を、両手で囲って守るような気持ちで、彼女はしばらく指先を見つめていた。  それはもう、誰かに捧げるほどの光ではなかった。  だから、これでいい、と思った。  小さな傷を手当てできるくらいで、ちょうどいい。兎の足の棘を抜いてやれるくらいでいい。祭壇に掲げられる必要など、もうどこにもない。誰かの願いを背負うには小さすぎて、けれど自分の手の届く範囲をあたためるには十分な、そんな火で、きっともう十分だった。  ——そのとき、遠くで地面が震えた。  気のせいかと思ったが、震えは次第に規則正しい拍を刻み始めた。どくん、どくん、と大地そのものが鼓動しているようだった。やがてそれが馬の蹄の音だと気づいたとき、彼女の体は条件反射のように強張った。前世、神殿の兵が自分を引き立てに来たときの音と、よく似ていた。鎖帷子の擦れる音、石畳を叩く無数の蹄、そして扉の向こうから響いた冷たい命令の声——それらの記憶が一度によみがえり、喉の奥がきゅっと締まる。指先が氷のように冷え、さっきまで灯っていた微かな熱さえ、怯えてどこかに引っ込んでしまったようだった。  逃げなければ、と思った。けれど立ち上がろうとした膝が、空腹と疲労であっけなく崩れる。視界が揺れた。摘んだ薬草が指先から落ち、冷たい小川の水面に吸い込まれていく。流されていく小さな緑の葉を目で追いながら、彼女は自分の無力さに唇を噛んだ。この体はまだ、何ひとつ自分のものになりきっていないのだ。  蹄の音が近い。  木々の向こう、傾いた陽の中に、一頭の黒い馬が現れた。鞍上の人影は大きく、黒い外套の裾が夕風にゆっくりとなびいている。彼女は咄嗟に、両腕で自分の体を抱きしめた。胸の奥の裂け目が、悲鳴のように疼いた。  ——また、連れ戻されるのだろうか。  ——また、あの石畳の上に引きずり出されるのだろうか。  けれど、馬上の人影は彼女を見つけると、なぜか手綱をそっと引いた。慌てず、怒鳴らず、ただ静かに馬の足を緩めたのだ。その気配に、ほんのわずかだけ、張り詰めていた肩の力が抜ける。馬は数歩先で素直に歩みを止め、長い鼻面から白い息を吐いた。鞍上の人物は、驚かせまいとするかのように、しばらくその場から動かなかった。小枝の折れる音さえ立てないように気を配っているのが、息遣いだけで伝わってきた。  低く、落ち着いた声が降ってきた。  「——怪我は、しているか」  彼女は答えられなかった。怪我の有無より先に、その声のやわらかさに喉がつかえてしまったからだ。命じるのでも、咎めるのでもない。ただ目の前の誰かを案じる、それだけのためにかけられた言葉を、彼女はもう何年も受け取っていなかった。夕暮れの光が、黒い外套の肩に金色の縁を描いている。その人物がゆっくりと馬を降りる気配を、彼女は息を殺して見つめていた。長靴が落ち葉を踏む、控えめな音が一歩、また一歩と近づいてくる。  苔の匂いがした。小川の音がした。  そして、自分の新しい物語の、最初の一歩を踏み出す音が、どこかで確かに鳴り始めていた。

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