第2話
第2話
瞼の裏が、やけに明るい。 遠くで、雀の声がしていた。 耳の奥に残っていた広間のざわめきが、羽毛のようにほどけていく。代わりに届くのは、庭木を撫でる風の音と、どこかの窓辺で揺れる洗濯物のはためき。馬車の振動も、絹のきしみも、扇の柄が爪に食い込む感触も、もうどこにもない。頬に触れているのは、麻ではなく、もっと柔らかい、肌になじんだ綿の布だった。 ……おかしい。 わたくしは寝台に倒れ込んだまま、ドレスだったはずの装いだった。けれど、いま指先に触れているのは、寝間着の襟のレース。朝の光が、薄いカーテンを通してやわらかく差し込んでくる。窓枠の木目に、よく知っている小さな傷。幼い頃、刺繍針を落として慌てて拾ったときに付けてしまった、あの傷。 「……え」 声が、掠れた。 昨夜、泣きすぎて枯れていたはずの喉が、今は不思議なほど素直に音を立てる。違う。もっと違う。昨夜、は。昨夜、わたくしは。 寝台から身を起こすと、ふわりと金色の髪が肩を滑り落ちた。昨日――いいえ、あの夜会の朝、結い上げるのに侍女が二時間かけた髪は、今は梳かしたばかりのようにさらさらと流れていた。結い跡ひとつない。髪油の匂いもしない。 震える足で、鏡台の前まで歩く。絨毯の毛足が、素足の指のあいだをくすぐった。その感触さえ、ずいぶん久しぶりに味わうもののように思えた。幼い日、朝寝坊を叱られないようにそっと鏡台まで忍び寄った、あの朝の足裏の記憶と、それはぴたりと重なった。 鏡の中のわたくしと、目が合った。
そこにいたのは、知らない女だった。 いえ――知らないはずがない。これは、わたくしだ。わたくしの顔。けれど、わたくしの知っているこの数ヶ月のわたくしの顔ではない。 頬に、血の気がある。 それが、何より先に目についた。白粉でごまかすのをやめて数週間、青ざめた頰に自分で薄紅をはたいても浮いてしまって、結局笑われていたはずの頬。そこに、桃の内側のような、ほんのりとした赤みが宿っていた。瞼の下の隈も薄い。唇は、噛みしめすぎて切れていたはずの端が、きれいに閉じている。昨夜あれほど泣いたはずの目は、わずかに潤んでいるだけで、腫れてもいない。 「……なに、これ」 指先で、自分の頬に触れた。温かい。生きている温度が、きちんとそこにある。爪の形まで、ひとつずつ確かめるように、自分の顔を撫でていく。額、眉、鼻の頭、顎の下。そのどれもが、確かにわたくしのものでありながら、どこか懐かしかった。指の腹が、滑らかな肌の上をすべるたび、昨夜まで鏡の前で覚えた冷たい強張りが、どこにも見つからない。代わりにあるのは、よく眠った者の肌だけが持つ、内側からの淡い湿り気だった。 そのとき、扉の外から、軽い足音が近づいてきた。
「お嬢様、朝のお茶をお持ちいたしました」 マリアの声だった。――けれど、その声は、あの夜のマリアの声より、ずっと明るい。悲痛さの影もなく、いつもの控えめな弾みがあった。扉が遠慮がちに開かれ、銀盆を手にした侍女が部屋に入ってくる。湯気の立つ茶器から、よく知った茉莉花の香りが、ふわりと部屋の空気をほどいた。この匂いを、わたくしはいつからか、胸を締め付けるばかりのものとして遠ざけていた。けれど今朝は、ただ、あたたかい。 「おはようございます、お嬢様。今日はお父様がお呼びで――」 その先の言葉を、わたくしはもう聞いていなかった。 マリアの手元に、小さな朝刊が乗っている。毎朝、父様の書斎に届くのと同じ、王都の新聞。その日付が、目に飛び込んできた。 第三の月、十二日。 三ヶ月。 あの夜会は、第六の月、十一日だった。――ちょうど、三ヶ月、前。 視界が、ぐらりと傾いだ。膝に力が入らなくなって、わたくしは鏡台の縁を掴んだ。細い木の縁が、てのひらにくっきりと食い込む。その痛みすら、昨夜と違って、やけにはっきりとした輪郭を持っていた。 「お、お嬢様っ?」 マリアが慌てて銀盆を置き、駆け寄ろうとする。わたくしはとっさに、片手でそれを制した。止めたい何かが、もう一つあったから。 「……マリア」 自分でも不思議なほど、落ち着いた声が出た。 「今日は、何月、何日。――西暦で」 マリアは一瞬、ぽかんとしたあと、律儀に答えてくれた。言われた年号は、わたくしが十七になった春のものだった。婚約解消の、ちょうど三ヶ月前。まだ、殿下が「地味で退屈だ」という言葉を、心の中にも用意していなかったであろう頃の。 わたくしは、笑ってしまった。笑いたかったのではない。ただ、喉の奥で空気がへんな形に震えて、それが笑い声のようになって零れたのだ。 「……そう。ありがとう」 マリアは、不安そうに眉を寄せて、それでも何も問わずに一礼した。彼女のそういうところに、わたくしはいつも救われてきた。今更のように、その事実が胸に沁みた。問わないでいてくれることが、これほどまでに優しさの形をしているのだと、三ヶ月後のわたくしは、ついに最後まで気づかなかったのだ。
扉が閉まる。 ひとりになった部屋で、わたくしは鏡の前にへたり込んだ。ドレスの代わりに、薄い寝間着の膝が絨毯にこすれる。その感触にすら、涙が出そうになる。 夢ではない。夢では、絶対にない。 夢の中の朝は、こんなに鼻の奥がつんとしない。夢の中の日付は、こんなに具体的な数字を持たない。夢の中のマリアは、こんなに戸惑った顔をしない。 時が、戻った。 そう理解した瞬間、体の奥から、二つの震えが同時に込み上げた。ひとつは、歓喜。もうひとつは、恐怖。指先から肘へ、肘から肩へ、冷たい水と熱い湯が同時に注ぎ込まれるような、奇妙な揺らぎ。歯の根が、かち、と鳴った。 また、あの三ヶ月を歩き直すのだ。あの、毎朝鏡の前で「今日こそ殿下に気に入っていただこう」と自分に言い聞かせた三ヶ月を。侯爵令嬢に少しずつ距離を詰められていることに気づきながら、気づかないふりをした三ヶ月を。父様に「殿下の最近のご様子は?」と尋ねられるたび、「とてもご健勝でいらっしゃいます」と微笑んだ三ヶ月を。 もう一度、あれを繰り返す――? いいえ。 喉の奥から、ほとんど無意識に、声が漏れた。 「……いいえ」 鏡の中のわたくしが、顔を上げる。頬に血の気がある、あの見慣れない女が、わたくしを見返していた。その目の奥に、わたくしはひとつの光を見た気がした。知らない女のようで、けれどおそらく、いちばん古い――十七の春を迎える前の、何も諦めていなかった頃のわたくしに、よく似た目だった。 いいえ、繰り返さない。 わたくしは、ゆっくりと立ち上がった。ドレスの裾を持ち上げる必要のない寝間着の膝を、両手で払う。鏡台の上に置かれていた櫛を手に取り、そっと髪を梳いた。一筋ずつ、昨夜の自分から今朝の自分へと、糸を通し直すように。昨夜――三ヶ月後の夜、泣き腫らした目をして枕に突っ伏した自分の頭の中に残っていた記憶が、今は全部、わたくしの武器になる。 彼が、いつ、どの茶会で、あの侯爵令嬢と長く話し込んでいたか。どの舞踏会の夜から、わたくしへの手紙の返事が一行減ったか。どの贈り物を喜び、どの詩を退屈だと眉をひそめたか。わたくしが必死で覚えた、あのひとの些細な癖の全部。それは、地味で退屈な令嬢を作るための道具だった。けれど、この三ヶ月前の朝から見れば、それは全部、未来を知る札だった。 ――知っているのだ、わたくしは。 誰よりも早く、これから起きることの全部を。 指先に、新しい熱が灯る。昨夜、果実酒の残滓で苦く濡れていた舌の上に、いまは朝の空気の、冷たく澄んだ甘さが満ちていた。息を吸うたび、胸の奥がわずかに軋む。けれどそれは、泣きすぎた後の軋みではなく、長く使わずにいた楽器が、久しぶりに弦を張られたときの、あの張り詰めた音に似ていた。 「――ありがとうございます、神様」 小さく、本当に小さく呟いて、わたくしはもう一度、鏡の中の自分と目を合わせた。 次は、自分のために生きてみたい、と泣きながら願った、あの最後の一瞬の声が、遠くでこだましていた。叶ったのだ、とは、まだ思わない。与えられたのではなく、返してもらった時間なのだと、そう思うことにした。 返してもらった時間は、返した分だけ、きちんと使う。
窓の外で、雀がもう一度鳴いた。 新芽のきらめく庭を見下ろしたとき、玄関の方角から、馬の嘶きと、聞き慣れない車輪の音が届いた。まだこんな朝早くに、父様への来客だろうか。胸の奥で、小さな予感が羽を広げる。 わたくしの知る三ヶ月前には、この朝、この時間に来客の予定などなかったはずだ。 記憶の中の日課に、ひとつだけ、知らない影が混じっている。 それが何を意味するのか、まだ、わたくしには分からなかった。