第1話
第1話
シャンデリアの光が、やけに遠くに見えた。
天井から吊るされた無数の水晶が、蝋燭の炎を受けてちかちかと瞬いている。いつもならあの輝きを「星の海のよう」と感じていたはずなのに、今夜は霜の結晶のように冷たく、遠く、わたくしには決して触れられない場所にあるものに思えた。耳の奥が、綿を詰められたみたいにぼんやりとしている。
「――君は地味で、退屈だ」 王太子殿下の声が、夜会の広間にはっきりと落ちた。楽団の音はいつのまにか止んでいて、グラスの触れ合う音ひとつしない。わたくしを囲む人垣のざわめきだけが、潮騒のように寄せては引いていく。 「セリア・ローウェル伯爵令嬢。申し訳ないが、君との婚約は本日をもって解消させてもらう」 金髪の殿下は、片手にグラスを持ったまま、わたくしを見てすらいなかった。琥珀色の酒がグラスの縁でゆらゆらと揺れ、そのわずかな揺らぎのほうに、彼の意識は向いているように見えた。隣には、春の花のような色のドレスを着た侯爵令嬢。彼女の唇が、勝ち誇った弧を描いているのが視界の端に映る。頬に散らした薄紅、耳元で揺れる真珠、指先まで完璧に磨き上げられた華やかさ。わたくしが一度も手にすることを許されなかった「愛される女」の形が、そこにあった。その淡い香水の匂いさえ、風に乗って鼻先をかすめ、咲き初めの薔薇のような甘さで、わたくしの喉をひとしきり締めつけた。 ああ、と思った。ただ、ああ、と。 不思議なほど、叫びたい気持ちは湧いてこなかった。代わりに、膝の裏から力が抜けていくのがわかる。指先が冷たい。持っていた扇を落とさないようにするだけで、精一杯だった。柄に彫られた薔薇の模様が、爪の先にちくりと食い込む。その小さな痛みだけが、わたくしをこの場に繋ぎとめてくれる錨のようだった。床の大理石の冷たさが、薄い絹の靴底を通してじわりと足裏まで這い上がってくる。まるで、この広間ごと凍りついて、わたくしを底からゆっくり閉じ込めようとしているみたいに。 「……左様で、ございますか」 自分の声とは思えないほど、静かだった。喉の奥がからからに乾いていて、もう一言でも発したら、その言葉は砂になって崩れてしまいそうだった。舌の上に、先ほど口にしたばかりの果実酒の甘さが薄く残っていて、その残滓すらも今は苦くて、飲み下すのにひどく時間がかかった。 幼い頃から、王太子妃となるために全てを差し出してきた。好きだった刺繍の時間も、猫を抱く休日も、何気ない友人とのおしゃべりも、全部、全部。お茶会で出されたお菓子の一番好きな味さえ、「第二位の方を選ぶのが品のある振る舞い」と教わって飲み込んだ。舌に残る甘さを、いつも半分だけ飲み込んで、残りは礼儀に溶かして捨ててきた。雨の日に裸足で庭を駆けたいと思ったことも、夜更けに月を見ながら詩を口ずさみたいと思ったことも、全部、「はしたない」の三文字で蓋をした。胸の底の小さな棚に、わたくしは小さな「やりたかったこと」を、ひとつずつ並べては鍵をかけてきたのだ。
その積み重ねの先に、あったのはこの言葉ひとつ。 地味で、退屈。
広間の誰かが、くすりと笑った。 その小さな音が、わたくしの背筋を逆に伸ばした。泣いてはいけない。ここで崩れたら、今まで削ってきた自分が、本当に何者でもなくなってしまう。削って、削って、きれいに磨いたつもりだった石が、ただの砂利だったと認めることになる。それだけは、今はまだ耐えられない。 「承知いたしました」 わたくしはドレスの裾を持ち上げ、指先だけできれいに礼をした。淑女として習った通りの、完璧な角度で。膝の角度、首の傾き、視線の高さ。家庭教師が何度も鞭で直してくれたあの角度を、体は忘れていなかった。皮肉なことに、こんな瞬間にこそ、十五年の訓練はいちばん正確にわたくしを動かしてくれた。 「どうぞ、末永くお幸せに」 殿下の眉が一瞬だけ動いた。何か言いかけた唇を、わたくしは見ないふりをして踵を返した。 広間の大理石が、わたくしの靴音をやけに大きく響かせる。一歩、二歩。右も左も、知った顔ばかり。幼い頃から共に育った令嬢たち、伯父様の友人、王家に連なる方々。誰もわたくしの名前を呼んではくれなかった。ただ、扇の陰から、視線だけがちくちくと刺さる。肩に、背に、うなじに。見えない針が何十本も突き立てられていくようだった。 あの子、かわいそうね。でも、仕方ないわよね。だって、ねえ。 聞こえないはずの囁きが、なぜか耳の奥で生まれて広がる。同情の衣を纏った嘲笑ほど、人を深く切り裂くものはないのだと、このとき初めて知った。 背筋を、伸ばす。顎を、引く。十数年、染みついた姿勢だけが今のわたくしを支えていた。大階段を降りるまで、あと何歩だろう。数えながら歩いた。五十七、五十八――。数字だけに集中していれば、泣かずに済む気がした。六十一、六十二。手すりに触れた手のひらに、冷たい真鍮の感触が伝わる。その冷たさに、ほんの一瞬だけ、わたくしは現実へ引き戻された。 扉の手前で、一度だけ振り返った。 シャンデリアの下で、殿下と侯爵令嬢は、もうわたくしの方を見てもいなかった。二人はもう次の曲の話をしていて、彼女の笑い声が高く跳ねるのが、ここまで届いた。わたくしの存在は、たった今この夜会から消えたのだ。十五年が、たぶん数秒で。
「――お嬢様」 御者のトマスが、馬車の扉を開けてくれていた。白い息を吐きながら、視線を床に落として。彼はきっと、何もかも察していた。夜の冷気が、剥き出しの肩にじわりと染みる。遠くで犬が一度だけ吠え、石畳の向こうで夜警の鐘が低く鳴った。その音は、どこか別の世界の出来事のように遠かった。 「ありがとう」 わたくしは微笑もうとして、失敗した。頬の筋肉が、正しい動かし方を忘れてしまったみたいだった。 馬車に乗り込み、扉が閉まる。外の音が遠ざかる。車輪がゆっくりと回り始め、石畳の上を揺られる。規則正しい振動が、体の芯に溜め込んだ何かを少しずつ揺さぶり出していく。 そのときになって、ようやく、堰を切ったように何かが喉の奥から込み上げてきた。 「……っ」 声を殺そうとして、うまくいかなかった。片手で口を押さえ、もう片方の手でドレスを握りしめる。高級な絹の生地が、わたくしの指の中で皺になっていく。母が「嫁入り前に一度だけ」と仕立ててくれた、新雪のような色の絹。それが今、わたくしの汗と涙でぐしゃぐしゃになっていく。 好きだった、と思った。 殿下のことを、嫌いではなかった。少なくとも、嫌いにならないようにずっと努力してきた。彼の隣に立てる女性になろうと、鏡の前で何百回も表情の練習をした。政治のことも、歴史のことも、異国の言葉も、全部覚えた。苦手だった早起きも、嫌いだった苦い薬草茶も、「殿下がお好みだから」と理由をつければ飲み込めた。それなのに。 地味で、退屈。 その四文字が、胸の真ん中をじわじわと焼いていく。低温の火傷のように、痛みはあとからあとから広がって、呼吸を浅くした。 窓の外を街灯が流れていく。涙でぼやけて、光の滲みになる。泣かないようにしてきたのに、もう、どうでもよかった。誰も見ていない。ここには、わたくししかいない。 「……っ、う……」 両手で顔を覆い、わたくしは生まれて初めて、誰のためでもなく、自分のためだけに泣いた。王太子妃候補のセリアでも、伯爵令嬢のセリアでもなく、ただのセリアとして。肩が震える。嗚咽が漏れる。そのひとつひとつが、今までずっと胸の奥に閉じ込めていた小さなわたくしの悲鳴のように思えた。 欲しかったものが、たくさんあった。言いたかった言葉が、山ほどあった。笑いたいときに笑って、怒りたいときに怒って、好きなものを好きだと言う、そんな当たり前のこと。庭の隅で見つけた四つ葉のクローバーを、恥ずかしがらずに誰かに見せる、そんなこと。雨上がりの水たまりを、足裏でぱしゃりと割ってみること。台所でつまみ食いをして叱られること。名前も知らない野の花を、ただ「きれい」と言って髪に挿すこと。 全部、もう、間に合わないのだろうか。 馬車はやがて屋敷に着き、わたくしはふらふらと自室まで歩いた。侍女のマリアが何か言いかけたけれど、わたくしはただ首を振ることしかできなかった。ドレスのまま寝台に倒れ込み、目を閉じる。枕に頬を押し当てると、冷たい麻の匂いがした。 もう一度、やり直せたら。 そんなことは、きっと叶わない願いだと知っていた。知っていたのに、意識が遠ざかる最後の一瞬、わたくしは強く、強く、そう願った。 ――神様。もし、ほんの少しでもわたくしの声が届くのなら。 次は、自分のために生きてみたい。
瞼の裏が、やけに明るい。 遠くで、雀の声がしていた。