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雪つもる指に、春を灯す

第3話 第3話

第3話

第3話

獣道の気配は、ゆっくりと近づいてきた。

 ひと足、またひと足。雪を踏む音が、こちらの呼吸に合わせるように間をとっている。慣れた足どりだ、とリィナは思った。雪を恐れず、けれど蹴散らしもしない。長い年月、森に足を許されてきた者だけが持つ歩幅だった。戸口の柱にそっと手を添え、身構えるでもなく、ただ目だけをその方向へ向ける。

 やがて、白い息の塊がひとつ、木立の陰から現れた。

 老いた男だった。鹿の毛皮を肩から羽織り、背には使いこまれた弓と、空の獲物袋。煤色の髭には霜が降りていて、まつ毛にまで白いものが凍りついている。右足を、かばうようにして引きずっていた。一歩進むごとに、膝の下あたりで小さく顔をしかめる。そのたびに、雪が微かに軋んだ。

 男は小屋の前でいったん立ち止まり、目を細めた。煙突から細くのぼる朝の煙を見つけて、わずかに驚いたような顔をする。それから、戸口に立つリィナに気づくと、深く、深く息を吐いた。敵意ではない。むしろ、長く歩き続けてようやく灯を見つけた、という類の息だった。

 「……娘さん。済まんが、火に当たらせちゃもらえんかね」

 声はしわがれ、けれど低く落ち着いていた。リィナは少しだけ考え、こくりと頷いた。前世の感覚が静かに告げている。この人は、森の礼儀を知っている人だ。

 「どうぞ。中、片づいてませんけれど」

 言ってから、自分の声がずいぶんかすれていることに気づいた。昨夜の術式と、ひと晩の静けさのせいだ。男は無理に笑おうとはせず、ただ軽く会釈をして、戸板の隙間から身を滑りこませた。戸が閉まる一瞬、外気と一緒に、獣の毛と、古い汗と、森の下草の匂いが、薄く土間に流れこんだ。

 囲炉裏代わりに組んだ小さな火のそばに、男は慎重に腰を下ろした。右足を伸ばすときに、奥歯を噛む音がかすかに聞こえた。リィナはその音を聞き逃さなかった。

 「お怪我、ですか」

 「古傷さ」と男は言った。「若いころ熊にやられた。冬になると疼いて、歩きが鈍る。昨日は欲をかいて沢まで下りた。帰りに、この足が言うことを聞かなくなってな」

 ズボンの裾を少しまくると、膝の下に赤黒く盛り上がった古い傷痕が見えた。幅のある爪痕が四本、斜めに皮膚を引き裂いた跡で、縫合もろくに受けられなかったのだろう、縁が厚くめくれたまま固まっている。周囲の皮膚は冷えで青ざめ、ところどころ固くこわばっている。炎症というほどではない、けれど血の巡りが長いあいだ滞っている――前世の指が、その痕の声を聞き取った。触れずとも分かる。骨の近くで、細い脈が冬の石のように冷えきっていた。

 「少し、待っていてください」

 リィナはそう言って、戸口脇に置いた土包みのそばへ戻り、昨日集めておいた薬草の束と、湧き水の縁で拾った赤茶けた鉱石の欠片を取り出した。蓬の乾いた葉、山薄荷の茎、それに倒木の裏から剥いできた苔の切れ端。鉱石は、掌で割ると中に細かな鉄色の粒が散っている。前世の棚で何度も触れたものと、ほとんど同じ性質を持っていた。

 火のそばに、昨夜の浄化陣で使った石英の欠片のひとつを置き、その上に、小屋の隅から見つけた欠けた土鍋を据える。雪を溶かした水を注ぎ、薬草を順に落とし、鉱石を砕いて最後に入れた。指先で火加減を測る。大きくしてはいけない。煮るというより、湯気で薬気を引き出すのだ。前世では、この手順を「ささめ煮」と呼んでいた。声に出さず、胸の奥でその名を呟いただけで、手が勝手に動いた。蓬が先に香り、遅れて山薄荷の尖った清涼が立ちのぼり、最後に鉱石の、鉄を舐めたような鈍い匂いが底に沈む。順番を違えれば薬にはならない。掌が憶えている順に、静かに落としていく。

 湯気が立ちのぼると、土鍋の口からふわりと青い匂いが広がった。男がわずかに目を瞠る。

 「……薬師さんかね、あんた」

 「いえ」とリィナは答えた。「ただの、山暮らしの者です」

 嘘ではない、と自分に言い聞かせた。前世の名も、古代式の呼び名も、いまここでは要らない。

 鍋の中のものを、布きれの上にそっと広げ、余分な水気を木べらで落としていく。やがて、青い色をしたとろりとした軟膏が残った。湯気にあてた指先は、驚くほどなめらかにその膏(こう)をすくいあげる。まだ仄かに温かいそれを、男の古傷にゆっくりとのせていった。指の腹で、傷の縁から中心へ、血の流れを呼び戻すように円を描く。固くなった皮の下で、眠っていた熱が薄く目を覚ましていくのが分かった。

 男は、ぴくりとも動かなかった。ただ、目を閉じていた。閉じた瞼の端が、一度だけ、こらえるように震えた。

 薬が皮膚に染みていくあいだ、リィナは低い声で、古いひとふしを口ずさんだ。前世で傷に向けていた、歌とも祈りともつかないもの。大仰な詠唱ではない。ただ、「ここを通ってよい」と血の道に囁くだけの、短い作法。男の膝の下で、こわばっていた筋が、ほんのわずかにゆるんでいくのが、掌越しに分かった。

 しばらくして、男が目を開けた。

 「――ほお」

 それだけ言って、自分の膝を見下ろす。試すように、足首を小さく回した。さっきまでの軋みが、音を立てずに動いた。男の顔の皺が、ゆっくりとほぐれていく。驚きを通り越して、どこか途方に暮れたような表情だった。

 「この古傷はな、娘さん。村の薬師にも、町の医者にも診てもらった。どれもしばらく持てば上々で、冬になればまた疼くと言われ続けてきた。それが、この、ひと塗りで」

 男は言葉を途中で飲みこみ、代わりに深く頭を下げた。煤色の髭から、溶けた霜がひとしずく落ちた。

 「何を、返せばいいかわからん」

 リィナは少しのあいだ、返事を探した。代金という言葉は、前世でもこの森でも、うまく馴染まなかった。ただ、男の下げた頭のつむじに、朝の光が静かに降りているのを見ているうちに、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。誰かの痛みが、自分の手の下でほどけていく。それを見届ける時間が、こんなに穏やかなものだとは、十四の村娘は知らなかった。

 「……お気になさらず。薬草は、森のものですから」

 そう言うのが、精一杯だった。男はしばらく顔を上げず、それから静かに立ち上がった。足の運びは、来たときよりずっと軽かった。

 「名を、聞いてもいいかね」

 「リィナ、です」

 「わしはゴルド。この森の向こうの谷筋で、ひとり猟をしている。……また来ても、構わんか」

 リィナは小さく頷いた。頷いてから、自分がそれをためらわなかったことに、少しだけ驚いた。

 ゴルドはもう一度、深く頭を下げてから、戸口を出ていった。足跡は昨日の彼女のものより、ずいぶんしっかりと雪に残っていた。

 戸を閉めかけたそのとき、外でかすかな物音がした。

 振り返ると、戸口の雪の上に、布包みがひとつ置かれていた。いつの間に戻ってきたのか、ゴルドの背中はもう木立のあいだに小さくなっている。リィナはそっと包みを解いた。

 ずしりとした黒パンがふたつ。麻袋にひとつかみの粗い塩。そして、古びてはいるが、厚みのある毛織の毛布が一枚。どれも、猟師が冬を越すために蓄えていたものであろうことは、布の匂いですぐに分かった。

 黒パンの端を少しだけちぎり、口に運ぶ。酸味のある固いパンが、奥歯で砕けた瞬間、なぜか目の奥がじんと熱くなった。塩の粒を指先でつまむ。ほんのひと粒が、舌の上で前世のどんな薬剤よりも鮮やかに光った。毛布を肩にかけると、羊の脂のかすかな匂いと、昨夜までとは違う重みが、背中にゆっくりと降りてきた。

 誰かの役に立った、ということ。その返礼として、誰かの蓄えの一部がここに届いた、ということ。村にいたころ、一度もなかったやりとりだった。石を投げられ、目を伏せられ、縄で縛られることしか知らなかった掌に、いま、黒パンと塩と毛布の温度が確かに載っている。

 リィナは戸口に座りこみ、毛布を膝にかけたまま、しばらく動けなかった。涙は出なかった。出ないかわりに、胸の奥のずっと深いところが、ゆっくりと、暖炉の奥の熾火のように、赤く息づいていた。

 やがて、風が薬草の匂いを運んできた。昨日と同じ匂いなのに、今朝はその中に、パンの酸味と塩の結晶のきらめきが、ほんの少しだけ混じっているような気がした。

 ふと、ゴルドの言葉を思い出す。――また来ても、構わんか。あのひと言の裏に、なにか言い残されたことがあった気がした。足の具合を確かめるときの、少し曇った目。あれは自分の痛みの話だけをしている目ではなかった。

 谷筋のどこかに、同じように冬の古傷を抱え、けれど森までは辿り着けない誰かがいるのかもしれない。リィナは膝の毛布をそっと握り直し、戸口の向こう、雪の獣道が消えていく方角を、静かに見つめた。

 次に戸板が軋む朝は、きっと、もう少しだけ騒がしい。

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