第2話
第2話
風が、薬草の匂いを運んできた。
ほんのひと筋の、けれど確かな気配だった。枯れかけた蓬の渋み、凍っても香りを失わない山薄荷の爽やかさ、それに混じる、苔と焦げた木の匂い。リィナは雪を踏みしめながら、鼻先だけをその風の方へ向けた。前世の指先が、自分でも気づかぬうちに空気を「読んで」いる。ここから西へ少し、斜面をひとつ下ったあたり。胸の奥で、古い地図のようなものが静かに広がっていく。
歩きはじめて、どれほど経っただろう。足の裏にようやく感覚が戻り、膝はまだ震えたが、倒れるほどではなかった。木々のあいだを抜けるたび、枝から雪が小さく落ちてきて、髪や肩に積もる。そのひとつひとつが、不思議と重荷には感じられなかった。ただ、森がこちらを確かめているような、そんな気配だけがあった。
やがて、斜面の下に黒い影が見えた。
屋根の半ばが落ちた、炭焼き小屋だった。石積みの基礎は残っており、煤けた窯の口も、雪の下から顔をのぞかせている。戸板は蝶番のひとつが外れ、斜めに傾いたまま雪に埋もれていた。長らく人の手が入っていないのは、戸口に張られた蜘蛛の巣が凍りついていることからも分かる。それでも、三方の壁は立っていた。それだけで、リィナには十分だった。
――ここでいい。
声にはならなかったが、胸の奥でそう呟いたとき、不思議なほどの安堵が広がった。
戸板をそっと押しのける。軋む音が、森の静けさにひとつだけ傷をつけた。中は思ったよりも広く、奥には炭俵の残骸と、崩れかけた寝床らしき藁の山がある。天井の崩れた部分から、雪がわずかに吹きこんで床の一角に白い山をつくっていた。梁は黒く煤けているが、まだ折れてはいない。壁の土は剥がれ、隙間から外の光が幾筋も差しこんで、床に細い縞模様を描いている。
リィナは息をつき、懐の土包みにそっと指を当てた。
さて、と小さく思う。前世の記憶が、順序立てて手順を示してくれる。まずは気の淀みを祓うこと。炭焼き小屋には長年の煤と、打ち捨てられた時間が澱のように溜まっている。そのままでは火も水もうまく巡らない。古代式には、そうした場所のために組む小さな陣がある。大掛かりな祭壇も、高価な触媒も要らない。必要なのは、土と、塩ひとつまみと、澄んだ声と、辛抱強い指先だけ。
幸い、塩は――ない。
リィナは小さく笑った。笑えることに、自分で少し驚いた。塩がなければ、代わりになるものを探せばいい。前世でもよくあったことだ。倒木の陰に這う白い苔、あれは灰にすれば鉱物に似た気を持つ。小屋の裏手を覗けば、凍った湧き水の縁に石英らしき欠片が光っていた。雪を払い、掌で温めながら、必要なぶんだけを拾い集める。指先はまだ痺れていたが、作業の手順が体の奥から次々に浮かんできて、それを辿っているあいだは寒さを忘れていられた。
小屋の中央、床の土が比較的硬く締まっている場所を選ぶ。雪を掃き、煤をぬぐい、懐の土をほんのひとつまみ、その中心に置いた。石英の欠片を東西南北に。白い苔の灰を、指先でごく細い線として円に結んでいく。線は震え、ところどころ途切れた。けれど、途切れてもよかった。古代式の浄化陣は、線の完璧さではなく、結ぶ者の「願い」を骨格にする術だ。
――ここを、住める場所に。
膝をつき、両手を円の縁にそっと添える。掌に伝わる床土の冷たさは刃物のようで、骨の奥まで一気に染みた。それでも指は引かなかった。息をととのえ、前世の記憶の底から、あの歌のような術式を引き上げる。雪の下で初めて呟いたものより、少しだけ長い。音は低く、静かで、呪文というよりは古い子守唄に似ていた。唇は乾き、舌は重かったが、音節のひとつひとつが喉を通るたび、胸の奥で忘れていた鼓動の形が、ゆっくりと戻ってくるような気がした。前世で幾度も組んだ陣、幾度も唱えたあの詞(ことば)。大きな祭壇の前で張りつめた空気を裂いていたときとは違い、今の聞き手は、崩れかけた小屋の土と、自分の細い息づかいだけだった。それでも――いや、それだからこそ、声はまっすぐに円のなかへ降りていく。怖くはなかった。ただ、懐かしさに似た何かが目の奥を熱くして、そのひと筋が、零れる前にそっと睫毛の奥に吸いこまれていった。吐く息が白く円の上をすべり、石英の欠片がかすかに応えるように光を宿す。
小屋の空気が、ゆっくりと動いた。
目に見える嵐ではなかった。ただ、澱んでいた何かが、ふっと肩の荷をおろすように下へ沈み、代わりに新しい空気が天井の裂け目からしずかに降りてくる。煤の匂いが遠のき、土の匂いが濃くなる。耳の奥で鳴っていた細かな雑音が、気づけば消えていた。陣の中央に置いた土がひと呼吸ぶんだけ温かくなり、やがて元の冷たさに戻る。それで終いだった。
リィナはしばらく、膝をついたまま動けなかった。疲れが体の芯から押し寄せてきて、指先は再び痺れた。けれど、小屋の空気は確かに変わっていた。ここは、もう「打ち捨てられた場所」ではない。誰かが住みはじめる前の、まっさらな静けさがそこにあった。
それから彼女は、ゆっくりと立ち上がり、できることを順にこなしていった。
屋根の崩れた部分には、外で拾った杉の枝を組み、蔓で仮に縛った。完璧ではないが、今夜の雪は防げる。壁の隙間には乾いた苔を詰め、外からの風を鈍らせた。床の雪を掃き、比較的乾いた藁を寝床の隅に寄せる。炭窯の奥に、黒く焦げただけでまだ使える薪の残りがあった。戸板は斜めのまま、下に石を噛ませて立てかけ直す。閉まりはしないが、獣の目をくらますには足りる。
火を熾すのは、最後だった。
前世の術式は、火を呼ぶ呪文も知っている。けれど彼女はそれを使わなかった。使えば、体のなかにもう残っていないものまで削ってしまう気がした。代わりに、懐で温めておいた乾いた樹皮と、爪ほどの石英、それに小屋の隅で見つけた古い火打ち石とを使った。何度も滑り、何度も消えかけた火花が、ようやく樹皮の端にひとつ、赤い点を残す。息を吹きかける。細い、細い煙が立ちのぼった。
火が、やっと生まれた。
炎は小さく、頼りなく、けれど確かに、小屋の中心で揺れていた。リィナはその前に膝を抱えて座りこみ、しばらく動かなかった。頬に赤みが戻り、かじかんでいた指がじんじんと痛みはじめる。痛みが、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。炎の照り返しが煤けた梁を舐め、崩れた壁の穴から夜風が細く入ってくる。その風はもう、彼女を凍えさせるものではなく、ただの夜の呼吸になっていた。
気づけば、うとうとと眠っていたらしい。
肩がかすかに冷えて、目を開けると、戸板の隙間が淡く白んでいた。夜が、明けようとしていた。
リィナは身を起こし、薪をひとつ足してから、戸を押しあけた。
朝の光が、森にうっすらと差していた。雪はもう降っておらず、枝という枝に積もった白が、昇りはじめた陽をやわらかく返している。冷たいはずの空気が、なぜか胸の奥に甘く届いた。
小屋の裏手から、かすかな水音がする。凍ってはいるが、その下でまだ息をしている湧き水の気配。昨夜は気づかなかった薬草の匂いも、朝の空気の中ではっきりと輪郭を持っていた。蓬、山薄荷、それから――あれは、傷薬に使える種類の苔だ。春になれば、もっと多くのものがここで芽吹くだろう。
リィナはしばらく、戸口に立ったまま、その景色を見ていた。
派手なものは、何もない。村の誉れも、祭の太鼓も、誰かに褒められる未来も、たぶんここには来ない。それでよかった。湧き水と、薬草の気配と、昨夜の小さな火と、煤けた梁の下の静けさ。願っていたものは、ぜんぶ、この屋根の下にあった。
――ここで、生きていける。
声に出したわけではないのに、その言葉は確かに胸の奥で形になった。前世の錬金術師の記憶が、小さくうなずくような気配がした。十四の村娘の体も、まるで同じ人間のように、そっとうなずき返した。
懐の土包みを取り出し、戸口の脇、陽のよく当たる一角にそっと置く。お守りは、もう懐にしまっておく必要はなかった。ここが、その土の帰る場所だった。
朝風が、また薬草の匂いを運んでくる。
リィナは、袖でそっと目元をぬぐった。今度は冷えて固まる涙ではなく、やわらかく乾いていく涙だった。
さて、と彼女は呟き、森の奥へ視線を向けた。
湧き水を汲む道筋を覚え、薪になる枯れ枝を集め、乾かす棚の場所を決めなければ。やることは、きりがないほどあった。けれどそのどれもが、昨日までの「生き延びる」ためではなく、「暮らす」ためのものだった。それが、こんなにも違うのだと、今朝の彼女は初めて知った。
斜面の下、雪に覆われた獣道の向こうで、何かがかさりと音を立てた。
鹿か、あるいは――人か。まだ分からない。けれど前世の感覚は、それが悪意ではないと告げていた。ゆっくりと、確かめるように近づいてくる、疲れた足どり。
リィナは戸口に手を添え、静かにその気配の方を見つめた。
森の朝は、まだ始まったばかりだった。