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雪つもる指に、春を灯す

第1話 第1話

第1話

第1話

雪は、音もなく世界を閉じていく。

 リィナは木の根元に背をあずけたまま、その白さをぼんやりと見上げていた。枝のあいだから落ちてくる雪片は、ひとつひとつがやけにゆっくりと舞っているように見える。風がほとんどないせいか、それぞれの粒が気まぐれに向きを変え、互いにぶつかっては離れ、まるで誰かが見えない指で編んでいる細いレースのようだった。指先の感覚はもうなかった。足も、頬も、どこからが自分でどこからが雪なのか、境目があいまいになっていく。吐く息だけが、唯一まだ体温を持っているものの証のように白く立ちのぼっては、すぐに枝の影に吸いこまれていった。

 魔獣が畑を荒らしたのは、三日前のことだ。畑番をしていたのはリィナで、見張り小屋で眠っていたわけではなかった。むしろ夜通し目を凝らし、鋤の柄を握りしめて、かじかむ手を何度もこすり合わせていた。それでも、村の大人たちが「おまえが術を使えなかったからだ」と叫んだとき、十四の彼女には反論の言葉がなかった。母は早くに亡くなり、父の記憶もない。村の隅に置かれた納屋で寝起きしていた娘など、厄を押しつけるにはちょうどよかったのだろう。石を投げた幼なじみの顔も、目を伏せて見ないふりをした隣家の女も、いまは不思議なほど遠い絵のように思い出される。

 森の奥に引きずられてきたのは昨日の夕暮れ。毛布も、火打ち石も持たされなかった。縄で縛られた手首には、まだその痕が赤黒く残っている。

 やがて、と彼女は思った。やがてこの寒さも感じなくなるのだろう。体のあちこちで鳴っていた痛みが、ひとつ、またひとつと消えていくのが、むしろ少しだけありがたかった。

 不思議と、涙は出なかった。恨みさえも、もう遠い。ただ、こんなふうに終わるのか、という淡い落胆だけが胸の底に沈んでいた。石が沈む池の底のように、静かで、誰にも知られない場所に。

 ――静かに暮らしたかったな。

 それが、凍えていく少女の最後の願いだった。誰にも急かされず、畑仕事と、薬草の匂いと、囲炉裏の火があれば、それでよかった。賑やかな祭も、誉れも、何もいらなかった。ただ、静けさが欲しかった。春の朝に畝を立てる土のにおい、夏の夕立のあとの草いきれ、秋に干した根の渋み、冬の囲炉裏で爆ぜる松脂の音。そういう、誰の目にも留まらない小さな時間だけが、ほしかった。

 目を閉じる。まぶたの裏が、白から灰色へ、やがて深い藍色へと沈んでいく。耳の奥で、自分の心臓が遠雷のように鈍く打っていた。

 ――そのときだった。

 藍色の奥で、何かがゆっくりと灯った。

 それは、思い出したことのない記憶だった。石造りの天井。煤で黒ずんだ錬金窯。棚に並ぶガラスの小瓶。琥珀色、翡翠色、濁った乳白色。ひとつひとつに小さな札が貼られ、見慣れない文字でていねいに名が記されている。指先に染みついた薬草の青い香り。誰かが「先生」と呼ぶ声。その声は若く、少しだけ掠れていて、呼ばれるたびに胸の奥がくすぐったくなるような響きを持っていた。夜更けの書庫で、羊皮紙に術式を書きつけていた痩せた手。爪の先に墨がにじみ、薬指には火傷の古い痕があった。窓の外では梟が鳴き、机の端では蜜蝋の燭台がじりじりと芯を焦がしていた。床には乾いた根が束ねて吊るされ、歩くたびにかさりと音を立て、空気はほんのりと蜂蜜と硫黄の匂いを混ぜたような、懐かしい重みを帯びていた。

 ――ああ、と声にならない声がもれた。

 知っている。この空気を、この匂いを、この指の動きを、自分は確かに知っている。窯の火加減を読むときの眉のひそめ方も、乳鉢を回す手首の角度も、蒸留器のガラスが鳴らす澄んだ音も、灰に埋めた炭がぱちりと爆ぜる瞬間の小さな震えも、薬指の腹で粉の粒度を確かめるときのざらりとした感触も、ぜんぶ。

 前世、という言葉が頭の中をすっと通り抜けていった。古代魔術文明の、末席にいた錬金術師。派手な英雄でもなければ、高名な魔術師でもない。ただ薬を煮て、石を磨き、ひっそりと人の傷を治していた名もない者。その記憶が、雪の下で凍りかけた少女の中に、静かに根を下ろしていった。根は冷えた胸のあちこちに細い触手を伸ばし、忘れていた知識の層をそっと押し上げてくる。草の名、鉱石の性質、血のめぐりを促す呼吸法。ひとつ思い出すたびに、痺れていた指先にほんの少しずつ意識が戻っていった。

 リィナは目を開けた。

 まつ毛に積もった雪が、ぱらりと落ちる。視界はぼやけていたが、木々の輪郭も、枝に積もる雪も、さっきまでとはまるで違って見えた。あの木の樹皮には解熱の成分が宿る。あの苔は止血に使える。根元の赤い実は――毒だ、けれど乾燥させれば眠り薬になる。左手の奥、倒木の陰にのぞく細い葉は、噛めば口の中の傷を塞ぐ。さらにその向こう、雪に半ば埋もれた蔓は、煎じれば冷えた四肢に血を巡らせる。

 世界の呼び名が、音もなく書き換わっていく。恐ろしかったはずの森が、薬箱の蓋を開けたときのように、整然とした顔つきに変わっていく。風に揺れる枝の一本一本が、棚に並んだ小瓶のラベルのように、彼女の中で名と用途を取り戻していった。

 震える手を、ゆっくりと雪に差し入れた。指先に触れる土は、凍ってはいるけれど、息をしていた。湿り気と、落葉の気配と、眠っている無数のちいさな命。虫の卵、菌糸、去年の種。どれもまだ死んではいない。手のひらに少しだけ、土をすくう。重みが、驚くほど優しかった。鼻先まで近づけると、かすかに甘く、かすかに苦い、雪の下でじっと春を待つものたちの匂いがした。

 唇はかじかんで、うまく動かなかった。それでも彼女は、前世の記憶の底から、ひとつの古い術式をそっと引き上げた。歌のような、祈りのような、やわらかな音の連なり。大仰な呪文ではない。ただ、土と自分のあいだに細い糸を渡し、「わたしはここにいる」と告げるだけの、小さな作法。息が白く長く伸びて、雪のあいだに溶けていく。

 てのひらの土が、かすかに温かくなった。

 ほんのわずかな熱。炎でも、光でもない。ただ、「ここに在る」ことを確かめるような、小さなぬくもりだった。それが指を通って腕を伝い、胸の奥に届いたとき、リィナの睫毛からひとすじ、温かいものがこぼれた。頬の途中で、その雫はもう一度冷たくなり、けれど通った跡だけは、確かに熱を覚えていた。

 泣いているのだと気づくのに、少し時間がかかった。

 憎しみでも、悔しさでもなかった。ただ、生きていてもいいのかもしれない、という遠い予感が、雪の下でそっと芽を出した。その細い芽を守るように、彼女は土を握りしめる。握った指のあいだから、小さな湯気のようなものがほんの一瞬立ちのぼって、すぐに消えた。

 やがて、ゆっくりと膝に力を込めた。

 立ち上がる、というより、雪のなかからひとり分の体を掘り起こすような動作だった。膝の関節が軋み、背中に張りついた氷の層がぱりぱりと剥がれる。髪の先から粉雪がこぼれ落ちる。森はしんと静まり返り、遠くで梟が一度だけ鳴いた。その声は責めるでもなく、励ますでもなく、ただ「聞いている」とだけ告げているようだった。足の指を一本ずつ、靴のなかでそっと曲げてみる。まだ木の枝のようにぎこちなかったが、確かに自分のものとして返事をしてくれた。

 木々のむこう、わずかに風向きの違う場所がある。前世の感覚が、そう教えていた。朽ちかけた木の匂い。人の手が入った痕跡。煤のかすかな残り香。おそらくは打ち捨てられた炭焼き小屋。屋根さえ残っていれば、今夜をしのげる。火口になる乾いた樹皮も、あのあたりなら拾えるはずだ。

 リィナは土をひとつまみ、手巾の端にくるんで懐にしまった。お守りのように。証のように。この土が、さっき自分に「生きてみろ」と囁いた最初のものだから。布越しに伝わるかすかな重みが、胸のすぐ下で小さな鼓動と響き合っている気がした。

 一歩、雪を踏みしめる。足の裏に感覚はまだ戻らないけれど、体重を預けるたびに、雪がきしきしと返事をする。足跡はすぐに新しい雪に消されていく。それでいい、と彼女は思った。誰の目にも残らなくていい。自分はただ、静かにこの森の片隅で、もう一度、最初から暮らしを組み立ててみたいだけなのだから。薬草を乾かす棚を作ろう。小さな窯を積もう。水を汲む道を覚えよう。

 白い息を吐き、震える指をそっと握りなおす。掌の奥には、まださっきのぬくもりの残響があった。

 雪雲の切れ間から、遠い星がひとつ、まばたくように光った。前世の錬金術師は、その光を覚えていた。同じ星の下で、名もない薬をいくつも煮た夜があった。そして十四歳の村娘は、今夜、その光の下で、生まれ直そうとしていた。

 ――風が、かすかに薬草の匂いを運んできた気がした。

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