第2話
第2話
霜を踏む足音が、背後でぴたりと止まった。
カイルたちは何も言わなかった。ただ、レオンの肩越しに召集状の紫の封蝋を見て、互いに目配せをしただけだった。笑い声はなかった。かわりに、ひそめた囁きが霜の上を滑っていく。「年次審査」「魔力暴走」「本当かよ」──切れ端の言葉が、冬の空気にぶら下がる。
レオンは振り返らず、演習場の裏手へ抜けた。石畳の隙間に霜柱が立ち、踏むたびに乾いた音を立てる。懐の封筒が、心臓の鼓動に合わせてかすかに擦れた。
第三実験棟へ戻る途中、回廊の窓から中庭を見下ろす。兄のエリクが、教官の老人と並んで歩いていた。兄の手には、見覚えのある紺色の表紙のノート。──レオンの原案ノートだ。書庫の鍵付きの抽斗にしまっていたはずの。
足が止まった。
兄は歩きながらページをめくっている。時折、人差し指でインクの跡をなぞる仕草。レオンがかつて兄に見せたときと、同じ指の動きだった。教官が何か問うと、兄は穏やかに頷き、ページの一点を示す。老人は感嘆したように白い眉を上げた。
──あの抽斗の鍵は、僕と学長室しか持っていない。
胸の奥の熱が、今朝二度目の脈を打った。
レオンは窓枠に額を押しつけ、息を整えた。冷たいガラスに呼気が白く広がって、すぐ消える。怒りではなかった。恐怖でもなかった。ただ、今朝届いた召集状の「魔力暴走の嫌疑」という文字と、兄の指先にあるノートが、同じ一本の糸で結ばれているのを、静かに確信しただけだった。
審査は明朝。残された時間は、一日もない。
◆
午後の授業を終えたレオンは、測定室に呼ばれた。
年次審査の前日、全学生が魔力量の再測定を受けるのは形式的な手続きだった。銀の計器の前で手をかざすだけ。数字が記録され、翌日の審査資料に添えられる。レオンにとっては、三年ぶり三度目の茶番だ。
測定室は石造りの小部屋で、窓がひとつもない。壁の燭台が四つ、低く揺れ、古い石の匂いと、かすかな鉄錆の匂いが綯い交ぜになって鼻の奥に残る。中央に背丈ほどの円柱が立っている。上部に嵌め込まれた水晶の球体と、側面を這う銀の針。針は普段、ゼロから赤の上限までをゆっくり揺れる。
監督官は記録係の老魔術師と、立会人としてミラ。そして──兄のエリクだった。
「兄さんが、なぜここに」
「立会人だ」エリクは穏やかに微笑んだ。「弟の年次審査前だ。兄として同席するのは自然だろう」
声音は柔らかい。けれど、その目は水晶球ではなく、レオンの指先だけを見ていた。獲物の喉元を見定める猟師の目だ、と思った。幼い頃、同じ目で兄が森の罠を覗き込んでいたのを、覚えている。
レオンは円柱の前に立ち、右手をかざした。石の冷たさが、掌の下から這い上がってくる。詠唱はいらない。ただ、普段こぼさないようにしている熱を、ほんの一滴、指先に流すだけでいい。
水晶球が、かすかに震えた。
銀の針は──動かなかった。
「……ゼロ、ですね」老魔術師が羊皮紙に筆を走らせる。羽根ペンが紙を掻く音が、やけに大きく響いた。「昨年と同様、測定不能圏。第七等相当」
ミラが目を伏せた。睫毛の影が頬に落ち、その下で唇が何か言いかけ、すぐに結ばれた。エリクは軽く肩をすくめた。
けれどレオンは、そのとき初めて気づいた。
針の先端が、円柱の内側、目盛りの「向こう側」に押し付けられている。上限を示す赤の線の、さらに奥。金具に噛み込むほど深く、針は振り切れていたのだ。外から見れば、ゼロの位置で止まっているようにしか見えない。だが、針の根元がわずかに白く光っている。過負荷の熱だ。水晶球の底にも、目を凝らさなければ気づかない細かな亀裂が、蜘蛛の巣のように走っていた。
──この計器は、僕の魔力量を測れていない。最初から、一度も。
舌の裏が乾いた。喉の奥で、笑いにも似た何かが一度だけ喘いで、すぐに沈んだ。
幼い頃からそうだったのだ。計器は彼の前でだけ沈黙し、教官たちは「魔力なし」と判を押した。兄だけが、あの夜、ノートを受け取ったときに一度だけ呟いた。「お前、本当は──」と。続きは言わなかった。言わないまま、笑って返さなかった。あのときの兄の横顔を、蝋燭の光がどう照らしていたかまで、鮮明に思い出せる。
兄は、知っていたのだ。最初から。
レオンは表情を変えずに手を下ろした。針は、音もなく元の位置に戻った。
「ご苦労」エリクが記録係を労う。「弟は今夜、しっかり休ませます。明朝の審査に備えて」
兄の手が、ぽんとレオンの肩に置かれた。重い手だった。上等な香の匂い──白檀と、かすかに鉄。貴族院の応接室にだけ焚かれる、あの香だ。耳元に、囁きが落ちた。声は低く、羽毛のように柔らかく、そして刃のように正確だった。
「ノートを返してほしいか」
レオンは答えなかった。奥歯を、ゆっくり一度だけ噛みしめた。
「返してやってもいい。ただし、明日の審査で、お前が頷けばの話だ」兄の指が、肩の布をわずかにつまむ。爪の先が鎖骨の際に触れ、布越しに冷たさが走った。「魔力暴走の嫌疑を認めろ。辺境送りで済む。命は取らない。兄として、それだけは約束しよう」
──取引。
つまり、ノートを取り戻したければ、自分で自分に「無能で危険」の烙印を押せということだ。兄の新術式の原案者が自分だと訴える口を、永遠に塞げということだ。
レオンは肩にのった手の重みを、じっと数えた。子供の頃、この手は一度だけ彼の頭を撫でたことがある。母の葬儀の日、雪の中で。あのときは、手袋越しでも温かかった。今の重さは、同じ温度のはずなのに、石を載せられているようだった。まるで別物だった。
「……考えておきます」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。喉の奥はひりついていたのに、声だけが、自分のものでないみたいに凪いでいた。
エリクは満足げに頷き、測定室を出ていった。扉が閉まる瞬間、ミラがほんの一瞬だけレオンを見た。その瞳の奥に、何か言いたげな揺らぎがあった気がしたが、それもすぐに兄の背中を追って消えた。彼女の衣擦れの音が回廊の奥へ遠ざかり、やがて石の静寂だけが残った。
◆
夜。
レオンは第三実験棟の自室に戻り、寝台の下から古びた木箱を引き出した。中には、三年前に写した書庫の断片、独自に組んだ術式のメモ、そして母の形見の銀の指輪。兄に奪われたノートは「清書版」にすぎない。原本は、この箱の底にある。
彼は原本をそっと取り出し、蝋燭の火にかざした。インクはまだ鮮やかだった。第二層の位相反転。三層回路。兄が今朝、一言一句そらんじていた理論の、本当の出どころ。指先でページの端をなぞると、紙は乾いた羊皮紙の匂いを返してきた。自分の十四歳の字が、少しだけ震えていたのが懐かしかった。
指先に熱が戻ってくる。今朝、封蝋を直したときよりも、測定室で針を振り切らせたときよりも、ずっと深いところから。胸の底で眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ます感触。血が、一拍ごとに熱を帯びていく。
──認めない。
レオンは静かに決めた。
兄の取引には乗らない。ノートは諦めない。けれど、明日の審査会で大声を上げて訴えもしない。この学院の大人たちが、兄のどの一言も疑わないことを、もう知っている。弁明は、最初から封じられている。
それでも、黙って頷くことだけは、しない。
彼は原本のノートを一度きつく胸に抱き、それから箱の底に戻した。代わりに、一枚の紙片を取り出す。三年前、書庫の断片に書かれていた、古い文字の走り書き。それは詠唱ではなく、もっと奥──魔術が「学院の体系」になる前の、もっと素朴で、もっと獰猛な一節だった。指に載せると、紙そのものがかすかに脈打っているように感じられた。
レオンはその紙片を、ローブの内ポケットに滑り込ませた。兄の手は、ここまでは届いていない。
窓の外、雪が降り始めていた。今朝の霜よりも重く、静かに、学院の尖塔を白く塗り替えていく。ガラスの向こうで、雪片がひとつ、また一つと燭台の光を掠めては闇に落ちていった。
遠くで、夜更けの鐘が鳴った。
明日の朝、この鐘がもう一度鳴るとき、自分はおそらく「魔力暴走の危険人物」として演壇の前に立たされている。兄の指示どおりに頷くか、頷かずに追放されるか。どちらにせよ、この学院に彼の居場所はもうない。
けれど──と、レオンは蝋燭の火を見つめた。炎の芯の、青く透き通った一点を。
物差しの外側にある熱は、誰にも測れない。測れないということは、兄にも、まだその本当の大きさは見えていないということだ。
胸の奥で、熱が静かに円を描いた。蝋燭の炎が、呼応するように一度だけ大きく揺れ、そして元に戻った。
──明日、測られるのは僕じゃない。あなたの方だ、兄さん。
レオンは蝋燭を吹き消した。闇の中で、雪の落ちる音だけが、窓の外にひたひたと積もっていった。