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落ちこぼれは古代魔術の継承者

第3話 第3話

第3話

第3話

朝の鐘が、雪の降り積もった学院の尖塔から響いた。

ひと晩で世界は白かった。中庭の敷石は雪に呑まれ、噴水は氷の薄皮を被り、回廊の柱にはつららが一本ずつ細く垂れている。レオンは内ポケットの紙片を指先で確かめ、灰色のローブの裾をひと払いして歩き出した。雪は足音を吸い、背後の気配を遠ざける。昨夜、蝋燭を吹き消したあとに闇の中で決めたことは、朝の光でも、ひとつも色褪せていなかった。

審査会場は大講堂。普段の講義では使われない、石造りの半円形の広間だ。天井の高い位置には歴代学院長の肖像画が並び、正面の壇上には樫の長机。今日はそこに、白い法衣の審査官が七人座っていた。最年長は学院長ヴァルデス。その右隣に、教官席代表として兄のエリクが座っている。

扉をくぐった瞬間、空気が変わった。ざわめきが、波が引くように遠ざかる。傍聴席には研究班の同期たちが並び、最前列にはカイルの顔が見えた。後ろのほうに、ミラの黒髪が見える。彼女はこちらを見ていなかった。壇上の兄の背中だけを、まっすぐに見ていた。

レオンは中央の証言台に進んだ。石の床に、自分の足音だけが小さく響く。雪解けの滴が床に一粒落ち、すぐに吸い込まれていった。

「第七等学生レオン。前へ」

ヴァルデスの声は枯れていた。羊皮紙をめくる乾いた音が、広間の隅々まで届く。レオンは一礼し、顔を上げた。審査官たちの視線が、刃の束のように降ってきた。けれど胸の奥の熱は、昨日の測定室のときよりも深いところで、静かに円を描いている。

──物差しの外側にある熱は、誰にも測れない。

もう一度、自分に言い聞かせた。

「本日の審査事項を述べる」

ヴァルデスが羊皮紙を広げた。

「学生レオン。過日、第三実験棟において、無許可の魔術行使により試薬の封蝋を破損させ、さらに当該区画に魔力暴走の痕跡を残した嫌疑。加えて──」老人の目がちらりとエリクを見やる。「上級研究員エリクの新術式草案を盗み出し、私的に写本した嫌疑」

広間が、かすかにどよめいた。

レオンは、ほんの一瞬だけ息を止めた。盗んだ。盗んだ、とこの老人は言った。三年前、あの夜、兄のインクで汚れた指がページを撫でた光景が、瞼の裏をよぎる。

「告発人、エリク殿。述べられよ」

兄が立ち上がった。上級ローブの銀刺繍が、高窓から差す雪明かりを受けて、冷たく光った。

「心苦しい役目です」

エリクの声は、朗々と広間を満たした。朝の演習で百人の学生を頷かせた、あの声だ。

「私はこの一年、弟の研究姿勢を案じてきました。彼には、正規の魔力量がない。にもかかわらず、深夜の実験棟に頻繁に出入りし、触媒の残量が合わないと管理係から何度も報告が上がっています。先日、私の研究室の抽斗から、新術式の草案ノートが持ち出されました。──これです」

兄は懐から、紺色の表紙のノートを取り出した。レオンの原案ノートの、清書版。昨日、回廊の窓から見下ろした、あの一冊だった。

「筆跡は弟のもの。書庫の鍵の使用記録には、弟の名と、私の名しかありません。私は盗んでいない。ならば──」

兄はそこで言葉を切り、悲しげに目を伏せた。傍聴席から、小さな溜息が漏れた。

「魔力暴走の痕跡については、第三実験棟の壁に焼き付いた魔力残滓が証拠です。測定班の検分書もここに。弟の魔力量はゼロと記録されていますが、この痕跡は、第七等の学生に制御できるものではない。つまり──隠していた、ということです」

ヴァルデスの目が、ゆっくりとレオンに向いた。

「弁明は」

レオンは口を開きかけた。封蝋を直したのは、吹き飛ぶはずだった実験を止めるためだと。ノートの原本は自分の木箱の底にあると。術式の初稿は三年前、十四歳の震える字で書いたのだと。

けれど──喉まで来た言葉が、ふっと重くなった。ヴァルデスの目は、すでに結論の位置で止まっている。審査官たちの羽根ペンは、まだ一文字も書いていないのに、羊皮紙の上で構えだけを取っていた。カイルは、笑いを噛み殺していた。

弁明は、最初から封じられている。昨夜そう決めていたはずだ。それでも、喉の奥が焼ける。言葉にしたい衝動が、熱と一緒にせり上がってくる。舌の根が痺れ、奥歯の裏側に鉄の味が滲んだ。レオンはそれを、一度だけ奥歯で噛み砕いた。噛み砕いた破片が、胃の底にゆっくりと落ちていく。

「──ひとつだけ、お尋ねします」

声は、自分でも驚くほど低く、静かだった。自分の声ではないみたいだ、と他人事のように思った。

「兄上。そのノート、第四十二葉、下段。三層回路の第二層における位相反転の式──係数の分母は、いくつと書かれていますか」

広間が、しんと静まった。高窓の外で、雪が屋根から滑り落ちる鈍い音が、やけに遠くで響いた。

兄の指が、一瞬止まった。ほんの一瞬。雪片が窓の外を一つ落ちるほどの間。けれどレオンの目には、その停止が、永遠のように引き延ばされて見えた。兄の喉仏が、かすかに上下する。ページを押さえる親指の腹に、血の気が一瞬だけ引いた。

「……それが、何だと」

「答えられないのですか」

レオンは顔を上げた。証言台の冷たい木肌に、指先をそっと添える。

「その式の分母は、七ではなく、十一です。七のままでは、位相反転の瞬間に回路が焼き切れる。三年前、僕は書き直しました。けれど清書版には、最初の間違いのほうが、そのまま残っている」

静寂。

エリクの頬が、ほんのわずかに強張った。誰にも気づかれないほどの変化。けれどレオンには見えた。兄は今朝の演習でも、分母を七と唱えていた。一言一句、そらんじて。幼い頃、同じ寝台で数式を諳んじ合った夜の声のままに。

「──詭弁ですね」

兄は微笑み直した。笑顔は完璧に戻っていた。

「弟は、盗んだノートの細部まで覚えているようだ。ヴァルデス院長、これは自白ではありませんか」

広間の空気が、音もなく裏返った。レオンの指摘は、告発の証拠にすり替えられた。審査官たちが一斉に頷き、羽根ペンが走り始める。羊皮紙を引っ掻く音が、雪を踏む足音のように重なって、広間の床を這った。

「評決」

ヴァルデスが立ち上がった。法衣の裾が、雪明かりを引きずって広間の石を撫でた。

「第七等学生レオン。魔力暴走の嫌疑、および上級研究員の草案を盗用した嫌疑、ともに相当と認める。学籍剥奪のうえ、北方辺境街道へ追放。身分証を没収し、今日より王都内の立ち入りを禁ずる」

羽根ペンが、最後の一文字を打った。乾いた音が、広間の隅まで届いた。

レオンは息を吐いた。白い息が、証言台の前で薄く溶けた。

──予定どおり。

不思議なほど、胸は凪いでいた。怒りも、悲しみも、今は来ない。来ないことが、少しだけ怖かった。けれど、胸の奥の熱だけは、昨夜よりもさらに深いところで、静かに脈打っている。

審査官が立ち上がり、兵士がレオンの両脇に立った。鎖は打たれなかった。打つ必要もないと思われているのだ。無能な弟に、暴れる力はない。誰もがそう信じている。兄のエリクでさえ、今はもう、そう信じ込もうとしている顔をしていた。

引かれていく途中、レオンは傍聴席を見た。カイルは顔を逸らした。同期のひとりは、机の下で拳を握っていたが、口は開かなかった。友人と呼べたはずの者たちの沈黙が、雪のように積もっていく。

最前列を過ぎるとき、ミラと目が合った。

彼女の瞳が、一瞬だけ揺れた。昨日の測定室で、何か言いかけてやめた、あの揺らぎと同じだった。唇が、小さく動いた気がした。「ごめんなさい」だったかもしれないし、「逃げて」だったかもしれない。けれど声にはならず、彼女はすぐに目を伏せた。睫毛の影が、頬に落ちた。

──ああ。もう、戻らないんだな。

昨日と同じ言葉が、今日は少しだけ乾いて聞こえた。

壇上の兄は、もうこちらを見ていなかった。ノートを閉じ、ヴァルデスに何か耳打ちしている。その横顔は、朝の演習のときと寸分変わらない、穏やかな「至宝」の顔だった。

けれどレオンは見た。兄のノートを持つ指が、さっきより強くページを押さえていることを。分母の数字が、今も兄の喉の奥で引っかかっていることを。

──七では、焼き切れる。

その一言は、明日ではなくても、いつか必ず、兄自身の術式を内側から焼く。

大講堂の裏門が開かれた。雪はまだ降っていた。

兵士がレオンの胸から銀の学生章を外し、代わりに薄い麻の外套を一枚投げてよこした。肩に掛けると、継ぎ当てのローブの上に冷たい雪解けの滴が染みた。北方街道行きの護送馬車が、門の外で白い息を吐いていた。

レオンは振り返らなかった。ただ、内ポケットの紙片──三年前、書庫の奥で見つけた古い一節──を、指先でもう一度確かめた。紙は、胸の鼓動に合わせてかすかに脈打っていた。

馬車に乗り込む直前、空を仰ぐ。雪片がひとつ、瞼に落ちて溶けた。

──別に構わない。むしろ、好都合だ。

誰にも聞こえない声で、レオンは呟いた。物差しの外側に、やっと出られる。

馬車が軋みを上げて動き出す。学院の尖塔が、雪の向こうに小さく遠ざかっていく。

遠い北の空の下、まだ見ぬ街道の果てで、何かが静かに彼を待っている気がした。胸の奥の熱が、そちらの方角を指して、今朝はじめて、まっすぐに燃え始めていた。

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