第3話
第3話
街道の朝霧は、湿った麦袋の匂いに似ていた。 セレスは山裾を回る旧道を、荷馬車の轍の脇に沿って歩いていた。王都を発ってから、すでに丸二日が過ぎている。麻袋の中のパンの塊は、最初の夜に半分を齧り、残りは布で包んで胸に抱いていた。体温で温めておけば、酸味が落ちつき、翌朝の腹にも優しい――前世の厨房で、仕込みの合間に自分の胃をねぎらった時の、あの古い知恵だった。 道の両脇には、春先の雪解け水が細い筋をなして流れ、泥濘が靴底を重くしていた。遠くの畑では、瘦せた農夫が鋤を引いている。鋤先が土を返すたび、石と混じった灰色の塊が顔を出した。作物の種ではない。前年、雹に打たれたまま耕し込まれた麦の、朽ちた穂だった。――この土地は、まだ去年の凶作を抱えたままだ。セレスは指で額を拭い、炭の汚れを確かめた。顔を黒く汚したままでいるのは、王都からの追跡を警戒してのことだったが、街道を行き交う人々の顔もまた似たり寄ったりに煤けていた。戦線の近さは、人の皮膚の色にまで滲み出すものらしい。 正午近く、道は二股に分かれ、西の枝道の先に、薄茶色の瓦屋根がいくつか重なって見えた。風に乗って、乾いた藁と、古い油、それから微かに煮えた豆の匂いが流れてくる。煮豆の火加減は弱すぎる、とセレスの鼻が勝手に告げていた。豆は沸かしすぎれば皮が硬くなり、弱すぎれば芯が残る。あの宿は、きっと厨房に真っ当な手が入っていない。 街道の標に、煤けた文字で「灰塵亭」と刻まれていた。
宿場町は、町と呼ぶにはあまりに寂れていた。 目抜き通りは三町ほど。鍛冶屋、仕立屋、馬繋ぎ場、そしてその奥に、二階建ての木造宿「灰塵亭」が背を丸めて立っていた。看板の文字は半ば剥げ落ち、屋根の端で鴉が二羽、何かを啄んでいる。軒先の樽には雨水が溜まり、その水面に、通り過ぎる兵の胸甲の影が時折映っては消えた。前線の補給路がこの町を貫いている。だが、通り過ぎる兵たちの顔には、戦場へ向かう者の高ぶりではなく、何か諦めにも似た陰が差していた。 セレスは裏口に回った。表から入れば宿代を問われる。裏口の厨房扉が、湯気と脂の焦げた匂いを吐き出していた。覗き込めば、汗だくの中年女が大釜を掻き混ぜている。釜の縁で豆が膨らみ、底で焦げかけていた。女の腕は悪くない――だが、釜が一つしかない。煮ることと炒めることと焼くことを、同じ火で順繰りにこなしている。それでは、どれもが中途半端になる。 「皿洗いを、探してはおられませんか」 セレスは声をかけた。女主人は振り返り、煤けた頬の若い男を一瞥した。浮浪者にしては眼の光が強く、腕組みにも厨房者の癖が残っている。 「銭は出せぬよ。寝床と、残り物の飯だけだ」 「十分です」 「……腕は」 「皿を割らず、鍋を焦がさず、刃物で指を落とさぬ程度には」 女主人は鼻を鳴らし、顎で釜の脇を示した。木桶に積まれた皿の山は、昨夜からのものらしい。乾いた脂が縁にこびりつき、放っておけば一日で黒く焼きつく類いのものだった。セレスは袖を捲り、桶の前に膝をついた。最初の一枚を手に取った瞬間、掌は迷わなかった。灰と塩を混ぜ、湯で溶き、指の腹で縁を撫でる。前世の、見習いの頃の動作だった。三つ星の厨房でも、皿洗いから始めなかった者は一人もいなかった。 女主人は、しばらく男の背中を眺めていたが、やがて釜の火加減を直しに戻った。ただの浮浪者ではない、とだけ悟った様子だった。問い詰めなかったのは、この宿場町では、皆が皆、問われたくない過去を一つ二つ抱えているからだった。
午後、厨房の窓から、通りの方で荷馬車の軋む音が聞こえた。 車軸の油が切れかけている、嫌な音だ。鉄の輪が石畳を擦るたび、きしりきしりと、歯の根に染みる高い音が混じる。セレスは皿を拭く手を止め、窓辺に寄った。四頭立ての大型荷車が二台、兵糧輸送の旗を掲げて通り過ぎていく。旗の端はささくれ、縫い目から麻の繊維がほつれて垂れていた。前線まで何度往復したのか、数える気も失せるほどに、布地は汗と埃を吸って黒ずんでいる。幌の隙間から、積み荷の樽がいくつも覗いていた。――その瞬間、セレスの鼻の奥が、鋭く軋んだ。 甘い。甘すぎる。発酵の行き過ぎた、金気混じりの甘さ。喉の奥で小さな吐き気が頭をもたげ、舌の付け根に、覚えのある苦い唾が湧く。それは、王都の通用門であの若い衛兵が齧っていた黒パンと、同じ匂いの上位互換だった。あれはパン一個の腐敗。これは、樽一つ分の腐敗だ。乳酸菌が死に絶えた後に、雑多な腐敗菌が暴れ始めた時の、あの独特の饐えた甘みを、鼻腔が正確に嗅ぎ分けていた。――これを口にする兵の腹の中を、セレスは一瞬、ありありと思い描いてしまった。高熱、痙攣、脱水。戦場で剣を振るう前に、便所の穴で朽ちていく若い兵たちの顔が、前世の記憶と重なって滲んだ。 セレスは布巾で手を拭き、裏口からそっと通りへ出た。荷馬車は町外れの井戸端で小休止していた。御者の男たちは樽を降ろしもせず、ただ馬に水を飲ませている。馬たちでさえも、樽の方へは鼻面を向けようとしなかった。畜生の嗅覚は、人間よりもよほど正直だ。樽の側板には、宰相府の印章を模した紋が焼き付けられていた。その紋の下に、小さな別の印――丸に三本線の、見慣れぬ商家の刻印があった。セレスの記憶の引き出しが、一つ、音を立てて開いた。宮廷の厨房時代、食材帳の片隅で見たことがある。南方の乾物問屋の印だ。しかし、南方から干し肉を運ぶには、北方戦線はあまりにも遠い。迂回に迂回を重ねた荷は、着く頃には必ず腐る。腐らせるために迂回させているのではないか、と鼻が告げていた。 一人の御者が、樽の蓋を軽く叩いて舌打ちした。蓋の板が湿気で反り返り、打音はくぐもって濁っていた。 「また漏れとる。まあいい、着きゃあ将軍のとこの若造どもが泣いて食うさ」 「笑うなよ、次の納品で銀貨が増える。腐っとる分だけ、儂らの懐に化ける」 もう一人が、ひび割れた笑い声を漏らした。その笑いの底に、罪の意識のかけらもないことが、かえってセレスの背筋を冷やした。悪党の顔ではない。日々の駄賃を数えるだけの、ありふれた男の顔だった。ありふれた男たちの、ありふれた手つきで、前線の兵の腹が腐っていく。それが一番、恐ろしかった。 セレスは柱の陰で、指の節を静かに噛んだ。歯の下で皮が裂け、うっすらと鉄の味が広がる。腐敗は偶然ではない。帳簿の上で腐らせ、銀貨に変える仕組みが、この街道の上を堂々と走っている。前世の厨房で、仕入れ帳をごまかした見習いが一人、師に腕を折られた夜のことが、ふいに蘇った。――食い物で嘘をつく者は、いつか食い物に殺される。師は、そう言って自分の太い指を鳴らした。あの夜の、骨が軋む乾いた音までが、今、耳の奥で鮮やかに再生された。 荷馬車が再び動き出した時、セレスの目は、もう皿洗いの目ではなかった。樽の数を数え、間隔を読み、御者の交代周期を頭の中に刻み込む。戦線までの距離、腐敗の進行速度、日中の気温――計算は、厨房の火加減と寸分違わぬ精度で組み上がっていく。この戦の真の病巣は、前線の剣ではない。王都から戦場までを繋ぐ、一本の腐った腸管だ。そして、腸管を切り開ける刃は、剣ではなく包丁だった。
夕刻、灰塵亭の厨房に戻ったセレスは、女主人に断って厨房の隅を借りた。 昼の荷馬車から剥がし取ったわずかな干し肉の欠片――樽の縁にこびりついていたものを、指先で拾っておいたのだ。腐敗の境界を舌で確かめるためだった。皿洗いの合間、鍋の余熱で水分を飛ばし、塩と、軒先に干されていた野いちごの酸で締め直す。前世で覚えた、腐敗寸前の肉を食える形に戻すための、最も原始的な仕込みだった。出来上がった小さな塊を、セレスは葦紙に包み、胸の内側に収めた。これは食べるためではない。いつか、しかるべき人物の前に差し出すための、最初の証拠だった。 厨房の窓の外で、日が落ちていく。街道の向こう、北方の空が、夕焼けと篝火の色で二重に染まっていた。前線は、もう目と鼻の先だ。 ――剣では、あなた方に勝てない。 セレスは胸の葦紙の包みに、そっと掌を重ねた。ならば、この一片から始めよう。腐った腸管を断ち、新しい血を通す仕事を。 その時、宿の表戸が乱暴に開く音がした。続いて、床を打つ拍車の硬い響き。女主人の、珍しく引き攣った声が上がる。 「お、女将軍さま、こんな宿に、どうして……!」 厨房の板戸の向こうで、若く、しかし底冷えのする声が、低く応えた。 「――この町の兵糧が、どこで腐っているかを、確かめに来た」 セレスは、干し肉の包みを胸に押し当てたまま、静かに顔を上げた。