第2話
第2話
川の水は、骨の髄まで凍てついていた。 セレスは下水の鉄柵から数十間ほど下った浅瀬で身を起こし、葦の繁みに腹這いになった。濡れた麻衣が肌に貼りつき、呼気が白く散る。王都の外壁は背後に黒く聳え、そのさらに向こう、処刑広場のある内郭では、まだ篝火が赤く揺れていた。城門の衛兵交代を告げる角笛が、風に乗って届く。夜明けまで、あと二刻もないだろう。 ――老看守は、朝の点検までに私の不在を知る。 セレスは指の節を噛んで血の巡りを戻しながら考えた。老人は鍵束の紛失を隠し通せる男ではない。だが、鉄皿を舐めたあの眼差しは、自らの処分と引き換えに沈黙を選ぶことも教えていた。ならば、彼の沈黙を無駄にしてはならない。生きて、もう一度、誰かの前で鍋を振るうこと――それだけが、老人への返礼だった。 前世の記憶が、冷たい指先に温もりを返してくる。低体温症の閾値、筋肉が動かなくなる中心体温、濡れた衣服のままでいられる限界時間。数字は厨房の火加減と同じ顔をして、頭の奥に並んでいた。セレスは葦を掻き分け、川下へ滑り出た。
夜明け前の王都は、二重の顔を持つ獣だった。 外郭の石畳には、すでに荷馬車の輪が軋み始めている。肉屋、乾物屋、炭焼き、乳搾りの女たち。日々の糧を運ぶ者たちが、貴族の朝食のために市場区へ流れ込む。鉄の輪が石を噛む音、牛の鼻息、湿った藁の匂い、そして遠くの竈から立ちのぼる焦げた麦の香り。五感のひとつひとつが、凍えた身体に生きていることを思い出させた。その群れに紛れるには、濡れ鼠の罪人では目立ちすぎた。 セレスは市場の裏路地、朽ちかけた物置の陰に身を滑らせた。そこには干された麻袋が積まれ、藁と糠の匂いに、鼠の糞と古い脂の饐えた気配が混じっていた。彼は一枚を拝借し、肩から被る。粗い麻の繊維が首筋を擦り、濡れた肌に小さな痛みを走らせたが、その痛みがかえって意識を研ぎ澄ませた。次に、炭焼きの荷車からこぼれた黒い粉を掌で掬い、頬と首筋に塗りつけた。指先に残る炭の軋みは、前世で鍋底を擦ったあの夜の感触によく似ていた。顔色の悪さと無精髭の影が、一瞬で浮浪者のそれに変わる。前世の厨房で覚えた、客前に立つための身支度――ただし、今日は目立たぬための身支度だった。化粧も偽装も、煎じ詰めれば同じ手技なのだと、セレスは胸の内で乾いた笑みを噛み殺した。 同じ頃、城内の武官詰所では、宰相派の近衛隊長ボルツが不機嫌に舌打ちしていた。広場に敷かれるはずだった斬首台の木屑が、未だ片付けられずに雨を吸っている。濡れた木の匂いが、血を洗い流せなかった朝の不吉さと重なって、彼の鼻の奥にこびりついた。 「罪人セレス・ヴァランタン、独房に異状なしか」 「……っ、はっ、ただいま確認を」 若い副官が走り去るのを、ボルツは冷たい目で見送った。食道楽のギルド伯爵からは、わざわざ「処刑の見届けを頼む」と銀貨を握らされている。掌の中で重みを計った時の、あの脂ぎった満足げな笑みが、今も耳の奥で粘ついていた。四貴族の興を削げば、自分の首も安くはない。雨に濡れた斬首台の木目を睨み、彼は鞘の柄頭を指で叩いた。苛立ちが、指先で小さな拍子を刻んだ。 ――同じ指で、別の男もまた、拍子を刻んでいた。
外郭から城壁外へ抜けるには、西の通用門を潜らねばならない。物資搬入の刻限に合わせて開け放たれる、唯一の隙間だった。セレスは乳搾りの女たちの列の後ろに、麻袋の荷を担いで並んだ。前には、牛の腸を詰めた木桶を引く老人。後ろには、野菜屑を運ぶ痩せた少年。どの顔も、眠気と寒さで半ば死んでいる。白い息が列の上に低く漂い、誰も言葉を発さず、ただ足を擦るような歩みで門へ近づいていった。 門の横の衛兵小屋、その戸口に寄りかかった若い兵が、手に持った黒パンを齧っていた。齧りながら、顔を顰めている。セレスの足が、一瞬、止まった。 ――あれは、酸敗している。 鼻が、そう告げていた。水気を吸って悪くなった麦の、金気に似た臭い。舌に乗せる前から皮膚が察する、あの嫌な湿り気。若い衛兵は、それを自分の朝食と信じて口に運んでいる。宰相派の兵站は、斬首台の下にいた男ばかりではなく、門を守る兵の口にまで腐臭を運んでいた。怒りとも哀れみともつかぬ感情が、セレスの喉を一度、きつく締めた。 セレスの前で、牛腸の老人が通り、乳搾りの女が通り、野菜屑の少年が通る。衛兵は面倒そうに手を振るだけで、麻袋の中身までは検めない。あと一歩で、自分の番だった。心臓が、肋の裏で重たく脈を打つ。 その時、若い衛兵が、ぐっと喉を詰まらせて咳き込んだ。黒パンの欠片が気管に入ったらしい。顔が赤黒く染まり、片手で胸を叩く。もう片方の手は槍の柄を掴もうとして空を掻き、指先が小刻みに震えていた。喉の奥からは、掠れた笛のような呼気が漏れ、吸うことも吐くこともできぬ音になっていく。列の誰もが顔を逸らした。宰相派の兵に関われば、余計な詮議を招くと知っているからだ。沈黙は群衆の自衛であり、同時に、彼ら自身を少しずつ腐らせていく毒でもあった。朝靄の底で、誰かの草鞋が、そろりと半歩だけ後ずさる音がした。 セレスの足は、一瞬迷い、そして前に出た。迷いを断ち切ったのは、頭ではなく、掌の記憶だった。見殺しにした者の味は、いつか必ず自分の鍋に返ってくる――前世の厨房で、師がそう言って眉を寄せた夜の低い声が、耳の奥に蘇っていた。 「――息を吐いて、止めないで。背を、叩きます」 低い声で告げ、衛兵の背後に回る。麻袋の隙間から覗いた手は、罪人のものではなく、厨房の手だった。掌の付け根で肩甲骨の間を二度、的確に叩く。骨の鳴る感触が掌に返り、筋の強張りが一瞬ほどけるのがわかった。二度目の打撃に合わせて、セレスは自身の息も短く吐いた。厨房で熱い鍋を振るうときと同じ、呼吸と動作を重ねる古い癖だった。気道の異物を落とすための、前世で何度も見た救命の角度。若い兵は大きく咳き込み、黒い欠片を石畳に吐き出した。荒い息が、白く尾を引いた。涙の滲んだ目が、ようやく焦点を取り戻していく。その瞳に映った自分の影が、罪人のものでも浮浪者のものでもなく、ただ一人の料理人の輪郭をしていることに、セレスは胸の奥で小さく驚いた。 礼を言う隙も与えず、セレスは袋から葦紙に包んだ小さな塊を取り出した。独房で練った黒パンと薬草の残りを、川辺で形を整え直したものだった。酢の酸が雑味を締め、蝋の脂が保湿膜となっている。寒い朝の、空きっ腹に滑り落ちる形に丸められていた。葦紙を開くとき、指先に残る酢の匂いがふと鼻を掠め、セレスは前世の厨房で最後に握った握り飯のことを、ほんの一瞬だけ思い出した。 「腐ったパンは、捨てなさい。これを、どうぞ」 若い衛兵は、紅潮した顔のまま受け取った。ひと噛みして、目を見開く。酸味と辛味と、麦の甘み。舌の上で順に立ち上がる三つの層が、冷えた頬の内側までじんわりと熱を送る。胃の腑が、久しく忘れていた温度を思い出していく。 「お前……こんなもの、どこで」 「通りすがりの、ただの下働きです」 衛兵は、セレスの顔をまじまじと見た。炭で汚れた頬、痩せた顎、けれど真っ直ぐな眼差し。その瞳の奥に、飢えでも怯えでもない、何か静かな熱のようなものが灯っているのを、彼は確かに見た。彼は、自分の口の中に残る味と、その眼差しを、どうしても結びつけることができなかった。――結びつけないことを、選んだ。結びつければ、自分もまた腐った側の人間になると、舌が先に知っていたのかもしれない。 「……通れ。早くしろ」 門は開いていた。セレスは頭を下げ、麻袋の縁を引き寄せ、一歩、また一歩と外の道へ出た。足裏に伝わる石畳の感触が、城壁の内と外とで、不思議と違って感じられた。背後で、若い衛兵がもうひと口、小さな塊を口に運ぶ気配がした。味が、彼の記憶に残る。それでいい。いつか、記憶が証言になる日が来るかもしれない。
城壁の影が足元から剥がれ落ちた瞬間、セレスは振り返らなかった。 振り返る代わりに、路傍の石に指を置き、一筋の線を引いた。下水の川面に引いたのと、同じ線だった。石の冷たさが指に残り、やがて朝霧が線を消していく。だが、引いた線は、もう彼の中から消えない。 東の空が、薄い藍色に染まり始めていた。雲の切れ間から一筋の光が降り、遠い街道の向こう、地平線の彼方に、低い山並みが灰色の背を起こしている。あの山裾を回れば、前線近くの宿場町があると聞いていた。腐った兵糧に怒る若き女将軍の噂が、酒場の噂話にまで流れ込んでいる町。 セレスは、歩を進めた。麻袋の中で、練り残したパンの塊が、体温でわずかに温まっていく。それは、これから出会う誰かのための、まだ名前のない最初の一皿だった。 背後で、王都の朝の鐘が鳴り始めた。斬首台の片付けを命じる声と、罪人不在を告げる慌ただしい足音が、鐘の音に混じって城壁を駆け上がっていく。 ――灰塵亭、と人は呼ぶそうだ。 次に包丁を握る厨房の名を、セレスは風の中で小さく呟いた。