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皿の上の戦争

第1話 第1話

第1話

第1話

刃が落ちる、その一瞬に、男は海老の殻を剥いていた。  ――いや、違う。剥いていたのは前世の自分だ。白い厨房、磨かれた包丁、銀盆に並ぶ甲殻類の赤。二十一世紀、東京の三つ星の厨で、真白い帽子をかぶった自分が振り向く。セレスはその目と、自分の目とを重ねた。鏡を覗き込んだわけでもないのに、瞳の奥で二つの光がぴたりと焦点を結ぶ。耳の奥では、遠い排気ダクトの唸りと、石畳を打つ雨音が、同じ拍子で鳴っていた。  二つの魂が、重なった。 「――王妃殺しの宮廷料理人、セレス・ヴァランタン。恩寵なき者として、首を刎ねる」  司祭の声が石畳を滑っていく。宮廷広場、群衆のざわめき、そして斬首台の黒い影。首枷の冷たさが項に食い込み、雨を吸った木の匂いが鼻腔を満たした。濡れた麻縄の繊維が皮膚を擦り、血の巡りを止められた指先が、白く痺れていく。セレスは顔を上げた。刃の銀色の向こうに、宰相派の四貴族が並んで立っていた。食道楽と名高いギルド伯爵の丸い頬が、愉しげに歪んでいる。その隣では痩せた財務卿が爪を噛み、さらに奥の二人は、退屈そうに空を仰いでいた。まるで、茶会の余興でも見にきたかのように。  ――そうか。あれが、私を売った口か。  前世と現世、二つの記憶が氷と湯のように絡み合い、心の底で一つの決意に凝った。舌の奥に、苦いコーヒーの残り香と、宮廷の白葡萄酒の甘さが、同時に滲む。刃が上がる。濡れた鉄の軋みが耳を裂いた。  落ちる。  ――落ち、そして、夜が来た。

 独房の藁の匂いで、セレスは目を覚ました。  まず手をやったのは喉元だった。指先が脈を探し、薄い皮膚の下で血が巡っているのを確かめる。繋がっている。首は、まだ繋がっている。爪の先が頸動脈を叩くたび、確かな熱がそこにあった。天窓から差す月明かりが、鉄格子の影を床に落としていた。処刑は、明朝。つまり今は処刑前夜。時は、わずかに巻き戻されていた。  ――前世の記憶。二十一世紀、日本、三つ星。  嚥下のたびに知識が押し寄せる。塩の脱水圧、澱粉のα化、発酵の温度管理、干し肉の亜硝酸塩処理、携行糧食の栄養設計。低温調理の時間曲線、乳酸菌の増殖温度、油脂の酸化速度、香辛料の揮発点。厨房の男が一生をかけて積み上げた技術の全てが、宮廷料理人セレスの手の中に降りてきた。指先が、見えない包丁の柄を握る形に、ひとりでに曲がる。  セレスは静かに立ち上がった。膝は震えていない。前世の自分は、長い仕込みに耐える脚を持っていた。十四時間、火の前に立ち続けても崩れなかった脚だ。足裏で藁の繊維の一本一本を数えるように、ゆっくりと重心を移す。  独房の隅、鼠も見向きしない黒パンの欠片。看守が飲み残した葡萄酢の瓶。壁の罅に寄生した薬草の芽。どれも食材だ。厨房ではない場所でも、食材は食材だ。彼は指先で黒パンを裂き、香りを嗅ぎ、舌先に一粒置いた。酸味、塩味、乾いた苦み。ライ麦の比率が高い。焼成温度は低めだったろう。酵母は死にかけているが、まだ仕事をする余地がある。使える。薬草の芽をひと茎折り、断面の汁を爪に擦りつけ、色の変化を月明かりに透かす。毒ではない。辛味の成分が強い。胃を温め、眠気を飛ばす。十分だ。

 同じ夜、王都から遠く離れた北方戦線では、若き女将軍リディア・ファルケンが陣幕の中で吐き気を堪えていた。 「――また、腐っていたか」  兵糧樽の蓋が開かれ、饐えた湯気が立ち上る。干し肉は緑に濁り、粥は酸い。樽の底には黒い汁が溜まり、蠅の卵が白く浮いていた。副官の顔が青ざめた。リディアは短剣の柄を握りしめ、床几を蹴った。木の脚が泥に刺さり、倒れた床几の上で、蝋燭の炎が一度だけ激しく揺れる。炎の影が天幕の布を舐め、彼女の頬骨に深い隈を刻んだ。 「宰相府は、兵を何と心得ている。飢えた犬に、腐肉を投げつけて戦えと申すか」 「将軍、しかし――」 「黙れ。数えよ、今日倒れた兵を。兵站は戦の半分だ。半分を奪われた軍が、どうして勝てる」  副官は口を噤み、ただ指を折って数えた。七人。昨日は五人。一昨日は三人。数字は、静かに倍加していた。幕の外、雪解けの泥に膝をついた兵が、空の椀を抱いて震えていた。若い兵だった。頬に血の気はなく、唇の端に乾いた嘔吐の跡があった。少年の指は椀の縁を握ったまま離れず、爪の下には凍えた土が黒く詰まっていた。その背後では、もう一人の兵が膝を抱えて小さく呻き、泥の上に細い涎の糸を垂らしていた。遠く、夜鴉の鳴き声が森の奥から届く。リディアは歯を噛んだ。奥歯が鳴るほど強く。敵は前方にいるのではない。背後、王都の華美な回廊の奥、兵站利権を貪る四貴族――宰相派の腐敗そのものが、自軍を内側から殺しているのだ。彼女は胸甲の下で、心臓が冷たく固くなっていくのを感じた。怒りではない。怒りはもう通り過ぎた。残ったのは、鉛のように重い、静かな決意だけだった。 「天が、料理人を寄越してくれればよいのだがな」  副官は意味を図りかねて主を見上げた。リディアは自嘲の笑みで応え、破れた天幕の布越しに、南の空を睨んだ。星は雲に隠れ、ただ一筋、薄い光がその隙間を縫っていた。その光は、彼女の瞳の奥で一度だけ瞬き、そして消えた。  ――同じ空の下、別の厨房で、一人の男が夜を越えようとしていた。

 独房のセレスは、鉄の小皿に黒パンを砕き、薬草を刻み、葡萄酢と溶かした蝋の脂を滴らせた。指先で温度を測り、舌先で塩梅を確かめる。酸味が立ちすぎたら、パンの澱粉で丸める。苦みが勝ちすぎたら、脂の膜で包む。厨房の全ての原理が、鉄皿ひとつの上に凝縮されていく。鉄格子の向こうで看守がうたた寝をしている。老いた男だ。皺の深さに飢えの歴史が刻まれている。痩せた頬、落ち窪んだ眼窩、歯の抜けた口元。長年、誰かの残飯を自分の食事だと思い込むことで生き延びてきた男の顔だった。 「……見張り殿」  セレスは声をかけた。看守の片目が開いた。 「何だ、罪人」 「最後の晩餐に、代わりになるものを。あなたの分はない。私の分だけで構わない」  彼は木匙の背で練り、鉄皿を格子の外へ差し出した。香りが、廊下の冷気を割って立ち上る。酸と脂と香草が絡み合い、ひと呼吸ごとに輪郭を変えていく。腐った藁と汗の臭気に慣れた鼻腔に、それは、一瞬、故郷の匂いを呼び起こす一杯だった。麦畑、竈の煙、母親のエプロン、そんな遠い記憶の匂いだった。  看守は匙を取った。節くれ立った指が、わずかに震えていた。一口、二口。老いた喉が鳴った。目の縁に、本人にも分からぬ理由で、薄い涙が滲んだ。匙を持つ手が止まり、しばらく動かなかった。 「……お前、本当に王妃を殺したのか」 「いいえ」  セレスは静かに答えた。真偽を問うた言葉ではなく、確かめたかったのだ。老看守は、それを知っていた。鉄皿の底に残った最後の一滴を、舌で拭うように味わい、深い息を吐いた。  鍵束が、床に落ちる音がした。  看守は格子から顔を背けていた。肩が、ほんの少し震えていた。セレスはゆっくりと鍵を拾い、錠を外した。鉄の軋みは、意外にも小さかった。 「――あなたの分を、取っておくべきでした」 「次に作れ。生きて、次に作れ」  老人の声は掠れていた。その掠れの底に、長い歳月、誰かに差し出されることのなかった一杯への渇きが、確かに沈んでいた。セレスは深く頭を下げ、闇の廊下へ踏み出した。歩みは静かだった。前世の厨房で覚えた、熱いフライパンの前で崩れぬ足運びのまま。  城壁の下、下水の鉄柵を潜り、冷えた川面に出る。水が腰まで来た時、彼はようやく振り返った。濡れた衣が重く纏わりつき、体温を奪っていく。だが、胸の奥の熱は消えなかった。朝日はまだ遠い。四貴族の屋敷を包む王都の灯が、遠い星のように滲んでいる。  セレスは誓いを口にはしなかった。代わりに、指先で水面に一筋、線を引いた。盤上の線だ。波紋が広がり、やがて消える。だが、引いた線は、彼の中に残った。  ――剣では、あなた方に勝てない。  ――ならば。

 川下へ下れば、前線近くの宿場町がある。腐った兵糧に怒り、救いを求める者たちの町が。  セレスは濡れた肩で夜を裂き、歩き出した。一歩ごとに、泥が足裏に吸いつき、そして離れていく。胸の中で前世の包丁が、まだ熱を持って鳴っていた。  ――次に作る一皿から、王国の地図が、少しずつ書き換わっていく。

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