第2話
第2話
目覚ましのアラームが鳴る前に、リクは瞼を開けた。 カプセルの樹脂天井が、昨夜と同じ位置で自分の顔を歪ませて映している。だが、映っているものの中身が違っていた。頬の輪郭、眉の角度、瞳の奥の色──どれも昨日までのリクのはずなのに、その背後にもうひとつ、別の誰かの表情が薄く透けている気がした。夢の残滓ではない。瞼を閉じても、その気配は消えなかった。 指先を眼前にかざすと、かすかに震えていた。昨晩、誰かの心臓の裏側へ滑り込む軌道を描いた指だ。だが今は、その動きの記憶よりも、親指の腹に刻まれた胼胝の位置のほうが気になった。量産キッチンでは、こんなところにタコなどできない。成形機のレバーは人差し指で押すからだ。なのに右手の親指の付け根には、長年、何か重いものを握り続けた者にしかできない硬い皮膚の盛り上がりが、いつの間にか居座っていた。 (昨日までは、こんなものは無かった) 壁面のタッチパネルを叩くと、薄青いHUDが視界の右下に立ち上がる。量産キッチンD-14、シフト開始まで七時間。給料振込、完了。支給額──いつもと同じ、惨めな四桁。ただし今月は特別手当が一欠片だけ乗っていた。先月、廃棄ラインの詰まりを素手で解消したときの危険作業手当だという。 リクは指を止めた。 その数字を見ていたら、こめかみの裏で、昨夜の低く錆びた声が、もう一度、静かに囁いたのだ。 ──今日は、表通りを歩くな。
シフトを終えたリクは、気づけば第三下層の闇市ルートへ足を踏み入れていた。 本来、給料日は寄り道をしない。危険すぎるからだ。管制AIの巡回パターンが薄い区画ほど、電子スリと記憶ハッキングの密度が上がる。インプラントも持たないリクにとって、ここは地雷原を裸足で歩くようなものだった。それでも、足は勝手に、錆びた階段を下り、換気ダクトを縫うように伸びる狭い通路へと彼を運んでいく。 通路の両脇には、破れた防水シートで仕切られただけの露店が並んでいた。剥き出しの光ファイバーを無理やり引き込んだ裸電球が、青や橙に明滅している。売られているのは、軍用規格の古いチップ、封印シールを剥がされた記憶結晶、出所不明のニューロ・デコーダ、そして帝国時代の遺物を騙る真贋不明のガラクタたち。空気は、半田の焦げた匂いと、合成アンモニアの湿気と、どこかで沸かされている粗悪な合成茶の匂いが混ざり合い、舌の根にべったりと張りついた。 リクは息を浅くして歩く。露店主たちの光学センサーが、一斉に彼の胸元を走査した。月収四桁の下層労働者。装備ゼロ。カモには不十分、しかし獲物にもならない。興味を失った視線が次々と滑り落ちていく中で、ただ一点、奥まった暗がりから、機械ではない視線が、彼の背骨に粘りついた。 暗がりの奥には、皺の深い老婆が座っていた。 歳の頃は百に届くか届かないか。眼球は左右とも白濁し、安物のバイオスキャナを額に貼りつけている。その前には、埃をかぶった木箱がひとつ。中には、くすんだ乳白色の欠片が無造作に転がっていた。手のひらに乗るほどの、不格好な六角柱。角はどれも欠け、表面には蜘蛛の巣のようなヒビが走っている。 「坊や」 老婆の声は、乾いた紙のように薄かった。それでいて、通路のざわめきの層をするりと抜けて、リクの鼓膜の一番奥にだけ、妙にくっきりと届いた。 「あんた、昨夜、誰かの声を聞いたね」 リクは足を止めた。背骨の奥で、冷たい何かがざらりと逆立つ。膝の裏に、汗とは違う湿り気がにじんだ。喉の奥が貼りついて、唾を呑むのに、不自然な間が空く。 「……人違いだ」 声が掠れた。自分の喉から出たはずの音なのに、どこか他人の代弁のような響きがあった。 「人違いなものか。あんたの胸の奥で、今もまだ脈打っておる。あたしのこの目は潰れとるが、潰れた分だけ、余計なものが見えるんだよ」 老婆は鼻先で、ふっ、と短く笑った。その笑みは嘲りでも憐れみでもなく、ただ長い歳月のあいだに同じ目つきの若者を何人も見送ってきた者の、乾いた諦めの色を帯びていた。骨ばった指が、木箱の中から一番小さな欠片を摘まみ上げる。皺の谷に埃が溜まった人差し指の腹が、リクの手のひらの、ちょうど親指の付け根の胼胝の上に、狙い澄ましたように結晶を置いた。ひんやりとした重みが、指の腹の胼胝に、ぴたりと馴染んだ。まるで、そこに収まるために削られたかのように。 「持っていきな。二束三文でいい。ただ──」 老婆の白濁した瞳が、ほんの一瞬、焦点を結んだように見えた。その奥から、別の誰かが、こちらを静かに覗き返していた気さえした。 「今夜、ひとりきりの部屋で開けるんじゃないよ。あんたの頭の中の、もうひとりが目を覚ます。準備のないままに目覚めさせると、呑まれる」 リクは結晶を握りしめた。表面のヒビが、彼の体温に反応するように、ほんのわずか、青白く明滅した気がした。
闇市を抜けて、リクはカプセルへは戻らなかった。 戻れなかった、と言う方が正しい。老婆の忠告が耳の奥で反響していた。ひとりきりで開けるな。ならば、どこで開ける。誰と開ける。この階層に、彼を庇ってくれる人間はいない。 気づけば、彼の足は量産キッチンD-14の裏口へと向かっていた。シフトが切れた直後の厨房は、冷却待機モードに入って静まりかえっている。蒸気は止まり、コンベアも止まり、ただ換気扇だけが低く唸っていた。無人の通路を進むと、照明センサーが一拍遅れて反応し、リクの足元にだけ、白い光の輪がぽつぽつと生まれては消えていく。 彼は、最奥の冷蔵室の脇、打ち捨てられた試作ラインの死角に身を滑り込ませた。ここなら、監視カメラの角度が届かないことを、彼は量産キッチンで働く五年のあいだに誰よりも正確に把握していた。床は冷たく、背中に当たる金属壁からは、どこか遠くの配管を流れる冷媒のかすかな振動が伝わってくる。 リクは懐から結晶を取り出した。 裸電球の黄ばんだ光の下で、六角柱の表面のヒビが、今度は確かに、内側から青白く脈動していた。まるで、閉じ込められた極小の恒星が呼吸しているかのように。光の点滅のリズムは、リクの心拍と完全に同期していた。いや、同期しているのではない。こちらが引きずられているのだ。 結晶を握った右手の、親指の胼胝が、かすかに熱を持ち始めた。 熱は胼胝から掌へ、掌から手首へ、手首から肘の内側へと、細い川のように這い上がってくる。流れる先は、鎖骨の下、左胸の奥──心臓ではなく、その少し上。昨夜、整備工が「帝国時代の記憶残滓」と呼んだ場所のあたりだった。リクは持っていない、はずだった。味覚拡張インプラントを。月給の四十倍を、彼は一度も支払えたことがない。 なのに、そこに、何かが在った。 熱を受け取り、熱を返している、小さな回路のようなもの。 (俺の、体の中に──) リクの呼吸が浅くなる。幼い頃、施設の医師が何度か、彼の胸元にスキャナを当てて首を傾げていた記憶が、唐突に蘇った。「出生時登録データに無い反応体が視える。だが悪性ではないから、今は触るまい」。あの時の医師の言葉が、十数年越しに、ようやく意味を結び始めていた。 結晶の脈動が、ふいに速くなった。 それに呼応するように、胸の奥の微熱も、じわりと強まる。耳の奥で、昨夜の低い声が、今度はもっと近くで響いた。まるで、後頭部の内側に誰かが口を寄せているかのように。 ──ようやく、たどり着いたか。リク、と今は呼ばれているのか。 リクは結晶を取り落としそうになった。 声は、昨夜よりはっきりしていた。錆びた鋼の奥に、かすかな笑みの気配さえ混じっている。それは、怒ってもいなかったし、急いでもいなかった。ただ、長い夜の果てで、やっと迎えを見つけた老人のような、深い疲れと、深い安堵に満ちていた。 リクは震える指で、結晶を両手で包み込んだ。老婆の忠告が、もう一度頭をよぎる。ひとりきりの部屋で開けるな。準備のないままに目覚めさせると、呑まれる。 だが、と彼は思った。 準備など、どうすればいい。 自分の中のもうひとりが、すでに、外から来た熱に応えてしまっている今となっては。
カプセルに戻る通路の途中、リクは立ち止まった。 懐の結晶は、もう外から見えるほどには光っていない。けれど、それに触れている胸の奥の一点が、小さな炉のように、確かに熾火を抱き続けていた。歩を進めるたび、その熾火は、ひとつ、またひとつと、見知らぬ筋肉の記憶を呼び覚ましていく。指の握り方。肘の運び方。呼吸の止め方。どれも、量産キッチンでは決して必要とされなかった動作ばかりだった。 頭上、換気ダクトの隙間から、ほんの一瞬、夜の空が覗いた。 その黒い帯の上を、音もなく、観測ドローンの微かな赤い光が横切っていく。 リクは気づかない。 ただ、胸の熾火が、今夜、眠りにつくことを決して許さないだろうという確信だけが、背骨の芯で、静かに、鋭く、研ぎ澄まされていた。