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星霜のコンソメ

第3話 第3話

第3話

第3話

カプセルの扉が背後で密閉音を立てて閉じた瞬間、リクは床に膝をついた。  天井まで四十センチの樹脂の棺。換気口の細い唸りだけが、世界と繋がっている唯一の音だった。壁面HUDの時刻表示は深夜一時十七分。シフト明けから、もう四時間以上が経っている。それなのに、胸の奥の熾火は鎮まるどころか、歩いて帰るあいだに薪をくべ続けたように、じわじわと面積を広げていた。  懐から結晶を取り出す指は、もう震えていなかった。震える段階を、とうに越してしまっていた。代わりに、掌全体がひどく冷たい。血液が末端から中心へ、この六角柱に引き寄せられていくような錯覚があった。闇市で押しつけられたときには、埃をかぶった乳白色のガラクタにしか見えなかった欠片が、いま、裸電球の届かない狭い寝台の上で、内側から青白く脈を打っている。一拍、二拍、三拍──リクは無意識に自分の脈を数え、呼吸を止めた。合っている。結晶と、彼の心臓は、同じ時計を共有していた。  (ひとりきりの部屋で開けるな)  老婆の忠告が、乾いた紙のまま、耳の奥で一枚ずつめくられていく。準備のないままに目覚めさせると、呑まれる、と。  呑まれる、とはどういうことなのか。リクはようやく、その言葉の重さを考え始めていた。けれど考える時間は、もう残されていなかった。左胸の、心臓より少し上の一点──かつて施設の医師が「登録データに無い反応体」と呟いたあたりが、ふいに、小さな金属音のようなものを内側で鳴らしたからだ。  かち、と。  扉の鍵が外れるような音だった。

 熱が来たのは、その直後だった。  胼胝の乗った親指の付け根から、一気に肘の内側を駆け抜け、鎖骨の下を横切って、左胸の一点へ流れ込む。熱の通り道には、見えない川筋のようなものがあらかじめ刻まれていたのだと、リクは他人事のように悟った。筋肉ではなく、神経ですらなく、これまで誰にも名前を与えられてこなかった何かの水路。そこに、濃い蜜のような熱が、粘度を持ったまま押し入ってくる。流れ込んだ熱は、そこで止まらなかった。今まで沈黙していた未知の回路が、流入した熱をそのまま信号に変換し、脊髄を逆流させて脳幹へ送り返した。後頭部の内側で、昨夜聞いた錆びた鋼の声が、今度は囁きではなく、鐘のように響いた。  ──接続、開始。  視界が、白く裏返った。  リクは悲鳴を上げそうになり、しかし口から漏れたのは空気の掠れた音だけだった。閉じた瞼の裏に、見たこともない光景が、時系列を無視して押し寄せてくる。白いタイルの床。天井の高い、ドーム状の厨房。五つの紋章が掲げられた壁。銅鍋が三十個、整列して湯気を立てている。磨き抜かれたまな板の上、血を流さない白身魚が、鰭の向きまで決められた作法で並べられていく。自分のものではない手が、その魚の側線に沿って、ためらいなく刃を滑らせていた。刃が鱗の下の薄膜をかすめる、ほんのわずかな抵抗の感触までが、リクの指の腹に直接蘇った。生まれて一度も触れたことのない魚の、生まれて一度も嗅いだことのない潮の匂いが、鼻腔の奥でありありと立ち上がる。知らないのに、知っている。初めてなのに、何百回も繰り返してきた──その倒錯した確信が、喉の奥をきゅっと締めつけた。  次の瞬間、場面が切り替わる。  銀盆の上、青白く揺らぐ透明な椀。ep001のホロスクリーンで見た、あの微重力コンソメよりもさらに繊細な、光の入った液体。リクの──いや、彼の中の誰かの指が、椀の縁に添えられ、温度を測っている。三十八・二度。〇・一度でもずれれば、仕込んだ香りの分子が壊れる。だからこの手は、器の縁の厚みを通して、液体の温度を皮膚で読める。読めるどころではなかった。指先の毛穴の一つひとつが、独立した温度計として機能し、椀の底から立ちのぼる対流のわずかな偏りまでを数値に変えて報告してくる。香りの層は三段あった。上層に柑橘、中層に発酵乳、底に燻した骨。そのどれもが、リクが生涯を通じて一度も口にしたことのない香りのはずだった。それなのに、舌の奥が勝手に唾液を分泌し、頬の内側がきゅうと痺れた。  また切り替わる。  祝宴の広間。長卓の向こうで、五人の男女が杯を掲げている。正装の胸元に、見覚えのある紋章。ヴェルシーニ、と誰かが呼んだ。ホロスクリーンで何度も聞いた、あの上位区の家名だ。男たちの笑い声の奥で、誰かがそっと、銀の薬瓶から透明な雫を一滴、コンソメの椀に落とした。雫が液面に触れた瞬間、香りの層の一番下、骨の燻香の帯が、ほんのわずかに濁った。その濁りを、リクの舌は見ていないのに見抜いた。リクの視点から見えた手の甲には、五家のうちのひとつの紋章が、青い痣のように浮いていた。  ──見たか。  老人の声が、耳の奥でゆっくり言った。疲れた、しかし一語ごとに鉄の重みを沈めた声だった。  ──これが、お前が、本当に作っていたものだ。そして、これが、その見返りに受け取ったものだ。  場面が、また跳ねる。  今度は、石造りの独房。床に倒れているのは、白衣の男だった。顔は、物心ついたときから握りしめていたあの古い写真の、剥落した白い空白と完全に重なった。男の唇の端から、黒ずんだ泡が流れていた。毒。リクの舌が、見たことのないその泡の成分を、瞬時に分解する。アコニチン系列、変異株、解毒不能。自分の作った料理に、自分で盛られた毒の味を、その男は死の間際まで分析し続けていた。最後の一呼吸まで、彼は料理人だった。舌を裏切らなかった。リクの胸の奥で、何かが声もなく崩れ、同時に、何かが静かに立ち上がった。  ──思い出したか。  ──俺の名は、ガレンツォ。お前の、前世だ。  リクの喉の奥から、声にならない叫びが漏れた。

 数百年分の時間が、数十秒のうちに、脳の襞を削りながら流れ込んでいった。  宮廷料理人として過ごした七十二年。無数の食材の分子構造。絶滅した光合成蘭の花弁の広げ方、恒星風で研磨された岩塩の砕き方、水素プラズマを閉じ込める器の曲率、銅鍋の底をいつ火から離すかの、零コンマ一秒単位の感覚。それらすべてが、リクという容れ物にはあまりに大きすぎる荷物として、一斉に雪崩れ込んできた。容れ物の継ぎ目が、軋む音を立てた。鼻血が、右の鼻孔から一筋、唇を越えて顎まで伝った。塩辛い赤は、しかし、彼の知っている血の味とはどこか違っていた。もっと古く、もっと正確な鉄の味がした。  ──耐えろ。  老人の声は、今度は命令ではなかった。ただ、昔の自分を抱きしめるような、静かな響きをしていた。  ──全部は、受け取らなくていい。お前がいま必要な分だけ、手が覚える。あとは、時間が引き受ける。  リクの視界が、ゆっくりと暗転していく。  最後に見えたのは、自分の右手だった。結晶を握りしめたまま、親指と人差し指のあいだで、見えない何かを極薄のスライスに切り分ける動きを、勝手になぞっていた。リズムは正確で、ためらいがなく、量産キッチンの五年では決して得られない種類の優雅さを帯びていた。指の腹の胼胝が、ようやく、本来の持ち主の手に収まったように、静かに落ち着いていた。  意識が途切れる直前、彼は思った。  (これは、俺の手じゃない。けれど──たしかに、俺の手だ)

 目を覚ましたとき、HUDは午前五時四十三分を示していた。  寝台の上に仰向けになったまま、リクはしばらく動けなかった。天井の樹脂が、いつもと同じ角度で顔を歪ませて映している。けれど、映った顔の表情は、昨日までの落ちこぼれ料理人のものではなかった。目の奥の光が、落ち着いている。怯えも、諦めも、どこかへ沈んでいた。代わりに、見知らぬ静けさが、瞳の底に沈殿していた。  右手を、顔の前に持ち上げる。  親指の胼胝が、夜のあいだに、ほんの少し厚みを増した気がした。試しに、空中で包丁を構える真似をしてみる。指は、もう震えなかった。手首の角度が、勝手に二十七度で止まる。肘の高さが、勝手に鎖骨と水平になる。刃を落とす深さが、まな板の木目を傷つけないぎりぎりの二ミリに収まる──見たこともない動きが、見たこともない精度で、当たり前のように彼の体から流れ出していった。  リクは、左胸にそっと手を当てた。  結晶は、寝台の上に転がっていた。表面のヒビからは、もう光は漏れていない。役目を終えたように、静かに冷え切っていた。代わりに、胸の内側の一点が、昨夜の熾火を消さずに小さな炉として燃え続けている。その炉の扉の奥で、老人の声が、最後にひとことだけ、ぽつりと落とした。  ──明日から、お前の手は、お前の記憶を裏切る。驚くな。  HUDの右下に、青いシフト通知が灯る。量産キッチンD-14、開始まで一時間。  リクは、ゆっくりと体を起こした。  今日から成形機のレバーを握る指先が、何を勝手に思い出してしまうのか。彼にはまだ、何ひとつ分かっていなかった。ただ、ひとつだけ確かなことがあった。昨日までの自分は、もうこのカプセルに戻ってこない。  ──そしてカプセルの外、最下層の遥か上空では、観測ドローンの赤い光が、昨夜よりも長く、彼の番号の上で停止していた。

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