第3話
第3話
街道を半日歩く間、風はずっと同じ方角から吹き続けていた。
山裾の谷を一つ越え、枯れ沢を二つ渡り、やがて木々がまばらになった頃、それは唐突に現れた。赤茶けた崖の中腹、蔓に覆われた巨大な石の門。両脇に立つ柱は人の背の三倍を超え、表面には擦り切れた古い文字がびっしりと刻まれている。ロイドの眼には、その文字の一つ一つから、くすんだ金色の糸がゆらりと立ち上って見えた。朝の地図で視たものと、同じ色。同じ拍動。
(やっぱり、生きてる)
胸の奥で、冷たい何かが一度、強く脈を打った。
「おい、止まるな。先頭は俺だ」
ガラハドが赤い外套を翻し、隊列の先を切って門の内側へ踏み込んだ。松明を掲げた隊員が二人、その後ろに続く。リーゼは杖を構え、周囲に簡易の感知結界を巡らせた。青い線が細く広がる。ロイドの眼には、その青い線の向こうに、もっと深い層の金色が、ゆっくりと渦を巻いているのが視えていた。
誰にも、まだ視えていない。
「荷物、お前は最後尾だ。手を出すな」 「……はい」
ロイドは荷袋を背負い直し、石畳に足を下ろした。一歩目で、足裏に微かな痺れが走る。魔力の古い層が、石の下で呼吸をしている。息を吸うたびに、空気が粘つくように重くなっていく気がした。
◇
通路は真っ直ぐ下っていた。
松明の炎が壁面のレリーフを舐め、古い戦士の顔や、見たこともない獣の姿を浮かび上がらせる。苔と黴と、それから鉄錆に似た魔力の匂い。隊員たちは声を潜め、足元だけを見て歩く。ロイドは最後尾で、視線を壁から天井へ、天井から床へ、絶えず動かしていた。
金色の糸が、通路の所々で交差している。
壁のレリーフの目のあたり。天井の継ぎ目。床石の、一見何の変哲もない繋ぎ目。そのいくつかに、小さな結節点が結ばれていた。過去の侵入者を試すために残された、古い術師の置き土産だ。多くは風化して、もう働かない。けれどいくつかは——まだ生きている。
三十歩ほど進んだところで、ロイドの眼が、ふと一点に吸い寄せられた。
通路の分岐。右へ折れる曲がり角の、ちょうど真ん中の床石。そこに、金色の線が五本、放射状に走っていた。線の先は、通路の壁と天井に沿って広がり、やがて一つの大きな円環を描いている。円環の外周には、小さな古い文字が等間隔に刻まれ、内側では無数の副次結節が蜘蛛の卵のように密集していた。息を呑んだ拍子に、舌の奥に鉄の味が滲んだ。
——拘束陣じゃない。
腹の底が冷えた。拘束陣なら、踏んだ者の足を縛るだけだ。これは違う。円環の中心から天井へ伸びる太い線が、通路そのものを切り離す構造になっている。踏んだ瞬間、この区画ごと別の層へ「落とす」。そして落とされた先では、五百年前の古い何かが、ずっと待っている。
ロイドの視界の中で、円環の外周の文字が一つ、また一つと、ゆっくり光り始めた。発動の前段。誰かが、もう重量を乗せかけている。指先が、自分の意思とは無関係に震え出す。喉の奥がからからに乾き、呼吸が浅く、速くなる。背中を冷たい汗が一筋、背骨をなぞって落ちていった。
「隊長——」
声が、喉の奥で一瞬詰まった。
ガラハドは振り返りもせず、赤い外套を翻して曲がり角へ足を踏み入れようとしていた。右足の爪先が、ちょうど円環の外縁に掛かっている。その次の一歩が、中心の床石を踏む。
視えた。踏んだ瞬間の未来が、設計図の上に重なって視えた。床が抜け、ガラハドの体が落ち、壁の奥から何かが這い出してくる。隊の半数が巻き込まれる。リーゼも、斥候も、松明の若い隊員も。若い隊員の、まだあどけなさの残る頬の輪郭まで、ロイドの視界の端にくっきりと焼き付いていた。
口を開けば、笑われる。臆病者の戯言だと罵られる。三年間、何を言っても嘲笑で返されてきた記憶が、喉の奥にぬめりとした膜を張る。それでも。
「——隊長!! 止まってください!!」
ロイドは叫んだ。三年間、殺し続けた声だった。腹の底から捻り出した音は、自分のものとは思えないほど掠れ、通路の壁に跳ね返って何度も重なった。
◇
ガラハドの右足が、宙で止まった。
振り返った隊長の顔には、驚きと、すぐに湧き上がる苛立ちが同時に浮かんでいた。太い眉がぐっと寄り、口の端が歪む。
「……今、何と言った、荷物」 「足元の石です。踏めば、通路ごと落ちます。今、発動の前段が」 「前段?」
ガラハドは自分の足元を見下ろし、それから通路の壁を睨めつけた。何も見えない。当然だ。彼の眼には、金色の糸も、外周の文字も、天井へ伸びる太い線も、何一つ視えていない。
「お前、何を血迷った。ただの床石だろうが」
苛立ちを抑えた声が、低く通路に響く。隊員たちが息を呑み、リーゼが杖を握り直した。松明の炎が、ガラハドの赤い外套の裾を揺らす。その裾の先が、円環の二つ目の外周に触れた。
文字が、二つ目まで光った。
「隊長、後ろへ下がってください。今すぐ」 「口の利き方を——」 「下がってくださいッ!」
ロイドは荷袋を投げ捨て、前へ飛び出した。石畳を蹴る自分の足音が、やけに遠くで聞こえた。隊員たちの間をすり抜け、リーゼの肩を掠め、曲がり角の手前でガラハドの腕を掴む。掴んだ瞬間、赤い外套の裾から金色の光が一筋、ロイドの指先に移った。冷たい。氷の針が、皮膚の下に一本、まっすぐ通っていくような冷たさだった。その冷たさは指先から肘へ、肘から肩へと這い上がり、心臓の裏側で一度、鋭く弾けた。
ガラハドの体を、渾身の力で後ろへ引く。
十六歳の細い腕に、大男は動かない——はずだった。けれど、引いた。引けた。恐怖が、ロイドの全身を一瞬だけ別のものに変えた。歯を食いしばった奥歯が、きしりと鳴る。ガラハドの長身がよろめき、赤い外套が宙を舞い、二人は一緒に通路の後方へ倒れ込んだ。
その瞬間、円環の中心の床石が、音もなく沈んだ。
ゴォ、と低い音が腹の底に響き、曲がり角の先の通路が、下向きに裂けていく。天井から太い金色の線が走り、壁の石が一枚、また一枚と剥がれ落ちる。奈落のような闇が、ほんの数歩先で口を開けた。冷気と、古い鉄錆の匂いと、何か生き物の気配が、その闇の底から這い上がってくる。
隊員たちの悲鳴が通路を満たした。
◇
沈黙が落ちたのは、砂埃が収まってからだった。
ロイドは石畳の上に倒れたまま、ガラハドの重い体を押しのけるようにして身を起こした。掌はひどく擦り剥けていた。血が滲み、石の粉がこびりついている。けれど、痛みは遠かった。全身が、自分のものでないみたいに熱く、同時に、指先だけがひどく冷たかった。耳の奥で、自分の鼓動だけが、不揃いな太鼓のように鳴り続けている。
奈落の手前で、通路は半ばから断ち切られていた。踏み込んでいれば、全員が落ちていた。疑う余地のない光景だった。
隊員たちが、ゆっくりとロイドの方へ視線を向ける。
リーゼは杖を下ろしたまま、唇を微かに開いていた。彼女の白い瞳の奥に、昨日の焚き火のそばで見せた、あの「ためらい」ではない、もっと鋭い色が浮かんでいた。——気づきかけた者ではない。気づいてしまった者の、眼。
「ロイド、あなた——」 「……怪我は、ありませんか」
ロイドは彼女の問いを遮るように、ガラハドへ向き直った。尻餅をついたままの隊長は、肩で息をしていた。赤い外套に石の粉がまみれ、長い髭に土埃が絡んでいる。その顔に浮かんでいたのは、恐怖でも、感謝でもなかった。
屈辱だった。
自分が、荷物以下の雑用係に、命を救われた。隊員たちの前で、部下の前で、三年間ずっと足蹴にしてきた相手に。
ガラハドの目の奥で、何かが音を立てて歪んでいくのを、ロイドは視た。術式でもなく、魔力経路でもなく——人間の中の、もっと脆い場所にある何かが。その眼の底で、昨日までの「主従」の線が、もう元の形を保てないほどねじれていくのを、彼の眼ははっきりと視てしまった。感謝に変わるはずだった熱が、行き場を失って濁り、恨みの色へと煮詰まっていく——その変質の過程までが、残酷なほど鮮明に視えた。
気づいたときには、遅かった。
「……下がれ」 「隊長、掌の傷を——」 「下がれと言っている!!」
怒号が通路に反響し、隊員たちがびくりと肩を揺らす。ガラハドは荒く立ち上がり、砂埃の外套を払いもせずに奈落の縁へ歩み寄り、それから踵を返した。ロイドの方は、もう見なかった。見ようとしなかった。その「見ない」という拒絶こそが、何よりも雄弁だった。
ロイドは静かに膝をつき、擦り剥けた掌を見下ろした。血の滲む皮膚の上で、ほんの一瞬、金色の糸の残像がちらついて、すぐに消えた。救ったのに。救ったはずなのに。胸の奥で、別の足音が、今朝よりもはっきりと鳴り始めていた。
——視えてしまったのは、罠の陣だけではなかった。
今、隊長の眼の奥で、自分に向けられた何かが、確かに形を変えた。その形の名前を、ロイドはまだ知らない。知らないまま、それでも、明日からの空気がもう昨日までとは違うことだけは、指先の冷たさで分かっていた。
奈落の底から、微かな風が這い上がってくる。遺跡の、もっと奥の方から。五百年前の古い何かが、ゆっくりと、こちらへ息を吐いている気がした。