第2話
第2話
夜明け前の空は、まだ藍の底に沈んでいた。
ロイドは宿の裏手の井戸端で、冷たい水を桶に汲み上げていた。縄が軋み、桶の底が石壁にこつんと当たる。隊の朝食の支度は、いつも彼の仕事だ。釜に火を入れ、干し肉を刻み、硬いパンを焙り直す。隊員たちが起きてくる頃には、すべてが湯気を立てていなければならない。昨夜の胸のざわつきは、まだ指先に残っていた。梟の声も、逆向きの風も、夢ではなかった気がする。
井戸の水面に、自分の顔が揺れて映る。寝不足の目の下に薄い影。髪は跳ねたまま。十六歳の少年というには、どこか削げた横顔だった。水を一口すすると、喉の奥まで冷たさが落ちていった。
——大丈夫だ。今日も、いつも通りにやればいい。
そう言い聞かせて立ち上がったとき、背後で軽い足音がした。
「ロイド、もう起きてたの」
リーゼだった。外套の前を合わせ、寝起きの白い髪を指で梳いている。焚き火のそばで別れたときの強張りは、もう顔に残っていなかった。残っていないふりをしている、と言うべきかもしれない。
「……おはようございます」
ロイドは視線を少し落とした。彼女の周りには今、術式は展開されていない。ただの人間の少女だ。それだけの姿が、妙にまぶしく見える朝だった。
「昨日の話、悪かったわ。隊長の指揮、確かに凄かった」
リーゼはそう言って、桶の縁に指を添えた。白い指の関節に、まだ薄く魔力の名残が残っているのが、ロイドの眼にだけ視えている。昨日の第三節の魔力配分の、ほんの僅かな歪み。自分が撫でた跡。痕跡は、他の誰にも視えない。けれど彼女自身も、どこかで感じていた——その気配が、眼差しの奥にある。
「いえ。僕は、何も」
ロイドは首を振り、桶を抱え直した。水が揺れて、自分の顔が砕ける。砕けたままでいい、と思った。
◇
朝食のあと、隊はガラハドの天幕に集められた。地図が卓上に広げられている。羊皮紙の端が焦げており、古いインクのにおいがした。鞣し革と蝋と、それから微かに鉄錆に似た、魔力の古い匂い。ロイドの鼻の奥が、ちりちりと痺れた。
「今日の任務は遺跡調査だ」
ガラハドは剣の柄で地図の一点を叩いた。谷の奥、山脈の裾野に描かれた、黒く塗り潰された四角形。周囲には赤で「立入禁止」の古い印が押されている。赤は、長い年月に褪せて、血の乾いたような色に変わっていた。
「五百年前の戦役で封じられた施設らしい。領主からの指名依頼だ。中に何があるかは知らん。だが、報酬は通常の三倍だ」
隊員たちがざわついた。三倍。その響きだけで、十数人の目の色が変わる。誰かが喉を鳴らし、誰かが小さく笑った。銅貨の音が頭の中で鳴っているのだろう。ロイドは天幕の隅で、荷物を抱えたまま立っていた。耳の奥で、昨夜の梟の声が小さく蘇る。五百年前——その言葉が、胸の底で微かに反響した。自分の生まれる、ずっと前。父も、父の父も、まだ土の下にすらいなかった時代の話だ。
「荷物。地図をよく見ておけ。お前は雑用だが、目だけはある」
ガラハドがぞんざいに顎をしゃくる。ロイドは一歩進み、地図に視線を落とした。その瞬間、羊皮紙の上に、彼にしか視えない線が立ち上がった。
古い術式の残滓だった。地図を描いた術師が、遺跡の位置を示すために使った魔力の痕跡——その痕跡の奥に、もっと深い層の何かが蠢いている。描き手も気づいていない、五百年前の「縫い目」の残響。青でも銀でもない、くすんだ金色の線が、四角形の中心から外へ向かって、ゆっくりと脈打っていた。一拍、また一拍。まるで分厚い土の下で、巨大な何かが緩慢に呼吸をしているかのようだった。線の節々には、見たこともない古い文字が、露のように小さく結んでは消える。意味は分からない。けれど、拒まれている、と肌で分かった。近づくな、と囁かれている気がした。
(……生きてる)
息が止まりかけた。遺跡の中の何かが、まだ生きている。封じられたまま、呼吸をしている。ロイドは視線を一瞬だけ外し、何でもない顔で地図の縁に指を添えた。震えそうになる指先を、革の手袋の内側で丸める。手袋の裏地に、汗が滲んでいくのが分かった。
「……谷筋から入るルートが、最短に見えます」 「そうか。下がれ」
ガラハドはそれ以上聞かなかった。ロイドは一礼して後ろへ下がる。背中に、リーゼの視線を感じた。振り返らなかった。振り返れば、きっと自分の眼に残る金色の残像を、彼女に気取られてしまう気がした。
◇
天幕を出ると、隊員たちは装備の点検に散っていった。ロイドは物陰で荷袋を広げ直しながら、自分の掌を見下ろす。指先に、まだ金色の線の感触が残っていた。触れてなどいないのに、皮膚の下を、細く冷たい糸が這っているような気配。あれは触れてはいけないものだ、と本能が告げていた。
そのとき、宿の裏の酒場から、間延びした笑い声が流れてきた。昼前だというのに、もう杯を傾けている冒険者たちがいる。ロイドは荷物をまとめ、酒場の脇を通って倉庫へ向かった。通り道だった。通り道の、はずだった。
酒場の窓際で、ひとりの男が術式の練習をしていた。若い魔術師だ。仲間に見せびらかすように、掌の上で小さな火球を回している。
「見ろよ、第二階梯の火球術だぜ。俺の才能ならもうすぐ——」
ロイドの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
男の掌の上に展開された術式が、彼の眼には丸ごと視えていた。詠唱構文、魔力経路、結節点の配置、制御式の入れ子構造。すべてが、羊皮紙に書かれた楽譜のように明瞭だった。第二階梯どころではない。構造だけなら、第四階梯の術式を無理やり二階梯の形に押し込んでいる。無駄が多い。歪みがある。第七結節が半拍ずれ、制御式の三段目に余分な分岐が一本。放っておけば、遠からず男の右腕の腱を焼くだろう、とまで視えてしまう。けれど、視えるのだ。丸ごと。一片の欠けもなく。
——視えすぎている。
胸の奥で、初めて、その言葉がはっきりと輪郭を持った。
他人の術式が視えるだけなら、観察眼の強い者にはいるかもしれない。けれど自分は、構文の並びまで、制御式の癖まで、術者自身が意識していない深層の階層まで、丸ごと読み取ってしまう。まるで、紙に書かれた文章を読むように。子どもが絵本をめくるように。ページをめくる手を、止める術を知らないまま。
この眼は、ただの「よく見える眼」ではない。
ロイドは壁に背を預け、息を整えた。鼓動が早い。耳の奥で、自分の血の流れる音が、やけに大きく聞こえた。知っていた。ずっと前から、薄々、知っていた。ただ、言葉にしてしまうのが怖かっただけだ。言葉にすれば、それは「力」になってしまう。力を持った瞬間、自分は「雑用係」ではなくなる。居場所が崩れる。崩れたあとに、何が残るのか——それがずっと怖かった。母の遺した、あの古びた木の匙ひとつ分の居場所さえ、消えてしまう気がした。
けれど、今朝の地図の金色の線が、胸の奥で脈打っている。あれを視てしまった以上、何でもないふりは、もう難しい。
酒場の男が火球を消し、仲間たちが大げさに拍手した。ロイドは静かに壁から離れ、倉庫へ向かって歩き出した。一歩、二歩。足音は、今日も殺している。けれど胸の奥で、もうひとつ別の足音が鳴り始めていた。それは、彼自身の中で、何かがゆっくりと立ち上がる音だった。
◇
昼過ぎ、隊は出立の準備を整えて街道の端に並んだ。
秋の陽が、白く乾いた道を照らしている。ロイドは最後尾で荷車の縄を締め直し、空を見上げた。昨夜と同じ方角から、風がまた流れてくる。遠くの山脈の稜線が、薄い霞の向こうで小さく震えているように見えた。気のせいだ、と思いたかった。思いたいのに、眼が勝手に稜線の奥に焦点を合わせてしまう。
先頭でガラハドが声を張り上げる。
「出るぞ! 遺跡までは半日だ。遅れる奴は置いていく!」
隊員たちが歓声とも呻きともつかない声を上げて歩き出した。ロイドも荷袋を背負い直し、最後尾に続く。革紐が昨日の擦り傷に食い込み、小さな痛みが走った。その痛みが、今日はなぜか、少しだけ遠く感じられた。
リーゼが一度だけ振り返り、彼と目が合った。何か言いたげな唇が、開きかけて、また閉じる。結局、彼女は前を向き直して歩き続けた。
胸の奥のざわつきは、もう消えなかった。
地図の金色の線。酒場の男の掌。自分の指先に残る、触れてはいけないものの感触。すべてが、同じ方角を指していた。半日先の、黒い四角形。五百年前から呼吸をやめない何か。
——視えてしまう眼は、まだ自分の運命までは映さない。
けれど今日、その眼が初めて、自分自身の輪郭をうっすらと映し始めていた。街道の端で、ロイドは空を見上げ、ひとつだけ深く息を吸った。風は、遺跡の方角から吹いていた。