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観察眼の追放魔術師

第3話 第3話

第3話

第3話

街道を半日歩く間、風はずっと同じ方角から吹き続けていた。

山裾の谷を一つ越え、枯れ沢を二つ渡り、やがて木々がまばらになった頃、それは唐突に現れた。赤茶けた崖の中腹、蔓に覆われた巨大な石の門。両脇に立つ柱は人の背の三倍を超え、表面には擦り切れた古い文字がびっしりと刻まれている。ロイドの眼には、その文字の一つ一つから、くすんだ金色の糸がゆらりと立ち上って見えた。朝の地図で視たものと、同じ色。同じ拍動。

(やっぱり、生きてる)

胸の奥で、冷たい何かが一度、強く脈を打った。

「おい、止まるな。先頭は俺だ」

ガラハドが赤い外套を翻し、隊列の先を切って門の内側へ踏み込んだ。松明を掲げた隊員が二人、その後ろに続く。リーゼは杖を構え、周囲に簡易の感知結界を巡らせた。青い線が細く広がる。ロイドの眼には、その青い線の向こうに、もっと深い層の金色が、ゆっくりと渦を巻いているのが視えていた。

誰にも、まだ視えていない。

「荷物、お前は最後尾だ。手を出すな」 「……はい」

ロイドは荷袋を背負い直し、石畳に足を下ろした。一歩目で、足裏に微かな痺れが走る。魔力の古い層が、石の下で呼吸をしている。息を吸うたびに、空気が粘つくように重くなっていく気がした。

通路は真っ直ぐ下っていた。

松明の炎が壁面のレリーフを舐め、古い戦士の顔や、見たこともない獣の姿を浮かび上がらせる。苔と黴と、それから鉄錆に似た魔力の匂い。隊員たちは声を潜め、足元だけを見て歩く。ロイドは最後尾で、視線を壁から天井へ、天井から床へ、絶えず動かしていた。

金色の糸が、通路の所々で交差している。

壁のレリーフの目のあたり。天井の継ぎ目。床石の、一見何の変哲もない繋ぎ目。そのいくつかに、小さな結節点が結ばれていた。過去の侵入者を試すために残された、古い術師の置き土産だ。多くは風化して、もう働かない。けれどいくつかは——まだ生きている。

三十歩ほど進んだところで、ロイドの眼が、ふと一点に吸い寄せられた。

通路の分岐。右へ折れる曲がり角の、ちょうど真ん中の床石。そこに、金色の線が五本、放射状に走っていた。線の先は、通路の壁と天井に沿って広がり、やがて一つの大きな円環を描いている。円環の外周には、小さな古い文字が等間隔に刻まれ、内側では無数の副次結節が蜘蛛の卵のように密集していた。息を呑んだ拍子に、舌の奥に鉄の味が滲んだ。

——拘束陣じゃない。

腹の底が冷えた。拘束陣なら、踏んだ者の足を縛るだけだ。これは違う。円環の中心から天井へ伸びる太い線が、通路そのものを切り離す構造になっている。踏んだ瞬間、この区画ごと別の層へ「落とす」。そして落とされた先では、五百年前の古い何かが、ずっと待っている。

ロイドの視界の中で、円環の外周の文字が一つ、また一つと、ゆっくり光り始めた。発動の前段。誰かが、もう重量を乗せかけている。指先が、自分の意思とは無関係に震え出す。喉の奥がからからに乾き、呼吸が浅く、速くなる。背中を冷たい汗が一筋、背骨をなぞって落ちていった。

「隊長——」

声が、喉の奥で一瞬詰まった。

ガラハドは振り返りもせず、赤い外套を翻して曲がり角へ足を踏み入れようとしていた。右足の爪先が、ちょうど円環の外縁に掛かっている。その次の一歩が、中心の床石を踏む。

視えた。踏んだ瞬間の未来が、設計図の上に重なって視えた。床が抜け、ガラハドの体が落ち、壁の奥から何かが這い出してくる。隊の半数が巻き込まれる。リーゼも、斥候も、松明の若い隊員も。若い隊員の、まだあどけなさの残る頬の輪郭まで、ロイドの視界の端にくっきりと焼き付いていた。

口を開けば、笑われる。臆病者の戯言だと罵られる。三年間、何を言っても嘲笑で返されてきた記憶が、喉の奥にぬめりとした膜を張る。それでも。

「——隊長!! 止まってください!!」

ロイドは叫んだ。三年間、殺し続けた声だった。腹の底から捻り出した音は、自分のものとは思えないほど掠れ、通路の壁に跳ね返って何度も重なった。

ガラハドの右足が、宙で止まった。

振り返った隊長の顔には、驚きと、すぐに湧き上がる苛立ちが同時に浮かんでいた。太い眉がぐっと寄り、口の端が歪む。

「……今、何と言った、荷物」 「足元の石です。踏めば、通路ごと落ちます。今、発動の前段が」 「前段?」

ガラハドは自分の足元を見下ろし、それから通路の壁を睨めつけた。何も見えない。当然だ。彼の眼には、金色の糸も、外周の文字も、天井へ伸びる太い線も、何一つ視えていない。

「お前、何を血迷った。ただの床石だろうが」

苛立ちを抑えた声が、低く通路に響く。隊員たちが息を呑み、リーゼが杖を握り直した。松明の炎が、ガラハドの赤い外套の裾を揺らす。その裾の先が、円環の二つ目の外周に触れた。

文字が、二つ目まで光った。

「隊長、後ろへ下がってください。今すぐ」 「口の利き方を——」 「下がってくださいッ!」

ロイドは荷袋を投げ捨て、前へ飛び出した。石畳を蹴る自分の足音が、やけに遠くで聞こえた。隊員たちの間をすり抜け、リーゼの肩を掠め、曲がり角の手前でガラハドの腕を掴む。掴んだ瞬間、赤い外套の裾から金色の光が一筋、ロイドの指先に移った。冷たい。氷の針が、皮膚の下に一本、まっすぐ通っていくような冷たさだった。その冷たさは指先から肘へ、肘から肩へと這い上がり、心臓の裏側で一度、鋭く弾けた。

ガラハドの体を、渾身の力で後ろへ引く。

十六歳の細い腕に、大男は動かない——はずだった。けれど、引いた。引けた。恐怖が、ロイドの全身を一瞬だけ別のものに変えた。歯を食いしばった奥歯が、きしりと鳴る。ガラハドの長身がよろめき、赤い外套が宙を舞い、二人は一緒に通路の後方へ倒れ込んだ。

その瞬間、円環の中心の床石が、音もなく沈んだ。

ゴォ、と低い音が腹の底に響き、曲がり角の先の通路が、下向きに裂けていく。天井から太い金色の線が走り、壁の石が一枚、また一枚と剥がれ落ちる。奈落のような闇が、ほんの数歩先で口を開けた。冷気と、古い鉄錆の匂いと、何か生き物の気配が、その闇の底から這い上がってくる。

隊員たちの悲鳴が通路を満たした。

沈黙が落ちたのは、砂埃が収まってからだった。

ロイドは石畳の上に倒れたまま、ガラハドの重い体を押しのけるようにして身を起こした。掌はひどく擦り剥けていた。血が滲み、石の粉がこびりついている。けれど、痛みは遠かった。全身が、自分のものでないみたいに熱く、同時に、指先だけがひどく冷たかった。耳の奥で、自分の鼓動だけが、不揃いな太鼓のように鳴り続けている。

奈落の手前で、通路は半ばから断ち切られていた。踏み込んでいれば、全員が落ちていた。疑う余地のない光景だった。

隊員たちが、ゆっくりとロイドの方へ視線を向ける。

リーゼは杖を下ろしたまま、唇を微かに開いていた。彼女の白い瞳の奥に、昨日の焚き火のそばで見せた、あの「ためらい」ではない、もっと鋭い色が浮かんでいた。——気づきかけた者ではない。気づいてしまった者の、眼。

「ロイド、あなた——」 「……怪我は、ありませんか」

ロイドは彼女の問いを遮るように、ガラハドへ向き直った。尻餅をついたままの隊長は、肩で息をしていた。赤い外套に石の粉がまみれ、長い髭に土埃が絡んでいる。その顔に浮かんでいたのは、恐怖でも、感謝でもなかった。

屈辱だった。

自分が、荷物以下の雑用係に、命を救われた。隊員たちの前で、部下の前で、三年間ずっと足蹴にしてきた相手に。

ガラハドの目の奥で、何かが音を立てて歪んでいくのを、ロイドは視た。術式でもなく、魔力経路でもなく——人間の中の、もっと脆い場所にある何かが。その眼の底で、昨日までの「主従」の線が、もう元の形を保てないほどねじれていくのを、彼の眼ははっきりと視てしまった。感謝に変わるはずだった熱が、行き場を失って濁り、恨みの色へと煮詰まっていく——その変質の過程までが、残酷なほど鮮明に視えた。

気づいたときには、遅かった。

「……下がれ」 「隊長、掌の傷を——」 「下がれと言っている!!」

怒号が通路に反響し、隊員たちがびくりと肩を揺らす。ガラハドは荒く立ち上がり、砂埃の外套を払いもせずに奈落の縁へ歩み寄り、それから踵を返した。ロイドの方は、もう見なかった。見ようとしなかった。その「見ない」という拒絶こそが、何よりも雄弁だった。

ロイドは静かに膝をつき、擦り剥けた掌を見下ろした。血の滲む皮膚の上で、ほんの一瞬、金色の糸の残像がちらついて、すぐに消えた。救ったのに。救ったはずなのに。胸の奥で、別の足音が、今朝よりもはっきりと鳴り始めていた。

——視えてしまったのは、罠の陣だけではなかった。

今、隊長の眼の奥で、自分に向けられた何かが、確かに形を変えた。その形の名前を、ロイドはまだ知らない。知らないまま、それでも、明日からの空気がもう昨日までとは違うことだけは、指先の冷たさで分かっていた。

奈落の底から、微かな風が這い上がってくる。遺跡の、もっと奥の方から。五百年前の古い何かが、ゆっくりと、こちらへ息を吐いている気がした。

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