第1話
第1話
森は湿った土と血のにおいに満ちていた。
ロイドは荷袋を背負い直し、前衛の足跡を追って低木をくぐる。第三討伐隊の後尾。雑用係の定位置だ。水筒、予備の矢、包帯、魔石の換え——十六歳の肩には重すぎる荷物が、今日も音もなく揺れている。革紐が肩口に食い込み、擦れた皮膚がじくじくと熱を持っていた。昨日の夜、包帯を巻きかけて、やめた。巻けば気づかれる。気づかれれば、また何か言われる。だから痛みは、痛みのまま背負って歩く。
「遅れるなよ、荷物以下」
前を行く斥候が振り返らずに言った。笑い声が一つ、二つ、梢に吸い込まれていく。ロイドは何も答えなかった。答えれば口答えになり、口答えをすればまた蹴られる。沈黙は、彼が三年かけて身につけた唯一の鎧だった。足元で折れた小枝の音さえ、できるだけ殺す。息も、足音も、気配も。存在そのものを森に溶かしてしまえたら、どれほど楽だろうと、何度思ったかわからない。
——けれど、眼だけは閉じない。
枝の向こう、前衛の魔術師リーゼが杖を構えている。白い指が印を結び、詠唱の第一節が紡がれた瞬間、ロイドの視界に、他の誰にも視えないものが走った。
青い線。銀の格子。彼女の周囲に展開する術式が、設計図のように宙に浮かび上がる。魔力経路、結節点、制御式——そのすべてが、ロイドの眼には丸ごと透けて視える。蜘蛛の巣のように繊細で、鍛冶師の図面のように精密で、それでいて生き物のように脈打っている。常人には見えない、世界の裏側の縫い目。
(第三節、魔力配分が一割多い。このままじゃ右端の結節点が焼ける)
暴発寸前。リーゼは気づいていない。焼ければ、杖を握った彼女の右手から先が吹き飛ぶ。術者自身が最初に死ぬ種類のミスだ。骨が爆ぜ、血が霧になり、白い髪が一瞬で赤く染まる光景が、望まぬまま脳裏に浮かぶ。ロイドは奥歯を噛んだ。想像の中でさえ、彼女を死なせたくない。
ロイドは息を殺し、荷袋の陰で指先を一本だけ動かした。自分の魔力はゼロ。だが、他人の術式の「線」を、ほんのわずかに撫でて逸らすことはできる。長年の訓練と、誰にも言えない秘密の産物だった。指先が触れるのは空気ではない。誰も知らない層の、薄氷のように張った魔力の膜だ。強く押せば破れる。弱すぎれば届かない。その加減を、彼は三年かけて身体に刻んだ。指先の神経の一本一本にまで、呼吸ほどの繊細さを覚え込ませた。
——そっと。風に乗せるように。
青い線が一筋、正しい位置へ滑り落ちる。次の瞬間、リーゼの杖先から火球が放たれ、斜面に潜んでいたゴブリンの群れを正確に焼いた。悲鳴。焦げた草のにおい。鼻の奥を刺す硫黄めいた残り香が、ロイドの指先の震えを隠してくれる。
「さすがリーゼ!」 「やっぱり俺たちの切り札だな」
隊員たちが歓声を上げる。リーゼは小さく息を吐き、汗を拭った。自分の術式が今日も完璧だったと、信じて疑わない顔で。その横顔に、ロイドはほんの一瞬だけ眼を留めた。誇らしげで、少し疲れていて、美しかった。彼女が生きていることが、今日も嬉しかった。嬉しい、と感じてしまう自分が、ほんの少しだけ怖かった。
ロイドは視線を落とし、荷袋の紐をきつく締め直した。
◇
陽が傾く頃、隊は谷間で足を止めた。敵魔術師一名を含む盗賊団——それが本日の本命だった。
「偵察、戻りました」
ロイドは片膝をついて報告する。顔を上げないのが、この隊での作法だ。隊長ガラハドは赤い外套を風に鳴らし、腕を組んで見下ろしていた。長身、濃い髭、目だけがいつも獲物を値踏みしている。
「で、何が視えた、荷物」 「……敵魔術師は右腕を庇っています。詠唱時、左手で印を結ぶ癖があり、防御結界の展開が〇・五秒遅れます。攻撃なら左前方から。あと——」
ロイドは言葉を選んだ。言いすぎれば疎まれる。言わなければ、誰かが死ぬ。喉の奥で、伝えるべき情報と、伝えてはいけない情報を仕分けていく。術式の構造までは言えない。ただの「観察」で済む範囲に、事実を削ぎ落とす。舌先で一度、言葉の角を丸めてから、ようやく吐き出す。
「——地面に伏せた術式の痕跡が三つ。おそらく拘束陣。踏めば動けなくなります。赤土の変色している箇所を避けてください」
沈黙。ガラハドはしばらく黙って谷を見下ろし、それから鼻を鳴らした。顎髭を指でしごきながら、値踏みするようにロイドを一瞥する。その視線は、犬を見るのと変わらない温度だった。
「ふん。臆病者の戯言だが、まあ聞いておいてやる。下がれ」
「はい」
ロイドは後退した。背中に、隊員たちの無関心な視線が刺さる。谁ひとり、彼の進言がどれほど命を救ってきたか、気づく者はいない。気づかれなくていい、と自分に言い聞かせる。気づかれた瞬間、この居場所は消える。雑用係として黙って立っていられる、それだけの余白が、彼に与えられた世界のすべてだった。
◇
戦闘は十数分で終わった。
「左前方から斬り込め! 魔術師は左手を封じろ! 赤土を踏むな!」
ガラハドの怒号が谷に響き、隊は面白いほど正確に動いた。リーゼの支援魔法が決まり、前衛が敵魔術師を無傷で捕縛する。拘束陣を踏んだ者は一人もいなかった。剣戟の音、短い悲鳴、土を蹴る足音。すべてが、ロイドの読み上げた台本の通りに進んでいく。まるで彼が事前に描いた地図の上を、駒が勝手に走っていくような錯覚さえあった。
「流石は隊長だ!」 「完璧な指揮でしたね!」
戦いが終わると、ガラハドは血のついた剣を拭いながら胸を張った。
「俺の読み通りだったろう。魔術師ってのはな、右か左か、見りゃわかる。お前らは俺の眼を信じて動けばいい」
どっと笑いが起きる。ロイドは少し離れた岩陰で、倒れた敵の装備を回収していた。耳には届いている。全部、届いている。剣帯を外し、魔石の欠片を拾い、血に濡れた革袋を裏返す。手は慣れた作業を続けながら、胸の奥だけが、ゆっくりと冷えていく。冷えて、鈍って、やがて何も感じなくなる。そうなるまで、あと何分かかるかも、もう分かっていた。
——別に、いい。
彼は胸の奥で、今日も同じ言葉を繰り返した。戦えない自分に価値などない。魔力測定値ゼロ。魔術師にも剣士にもなれない落ちこぼれ。隊に置いてもらえるだけ、ありがたい。雑用でも、荷物以下でも、食事と寝床があれば生きていける。誰かの手柄の陰で、誰かの命を陰から繋ぎ止められるなら、それで十分だ。十分のはずだ。
そう、言い聞かせる。
けれど、岩陰でしゃがみ込んだ指先が、かすかに震えていることに、ロイド自身はまだ気づかないふりをしていた。拾い上げた魔石が、掌の中でこつんと小さく鳴った。
◇
野営地に戻ると、焚き火の周りで酒が回されていた。ロイドには一杯も配られない。水を汲みに谷川へ下りる彼の背中に、リーゼの声が追いついてきた。
「ロイド」
振り返る。白い髪の魔術師は、焚き火の光を背負って立っていた。ほんの一瞬、何か言いたげに唇が動く。——今日の第三節、少し変だった。誰かが触れたような。そう訊ねるような目だった。その瞳の奥には、疑いよりも、もっと柔らかい何か——気づきかけた者だけが持つ、ためらいの色があった。
ロイドは静かに首を振り、先に口を開いた。心臓が一度、大きく跳ねる。
「隊長の指揮、凄かったですね」
リーゼの表情が、わずかに強張った。それから、何も言わずに踵を返した。焚き火の方へ戻っていく背中が、少しだけ遠くなったように見えた。自分で遠ざけたのだと、ロイドは知っている。
谷川の水は冷たかった。顔を洗い、両手で水をすくう。指先がかじかむほどの冷たさが、今日一日の熱と埃を洗い流していく。水面に映った少年の眼——そこにだけ、誰にも言えない光が宿っている。青い線を、銀の格子を、世界の裏側の設計図を映してしまう眼。
ロイドは水面を崩すように、そっと指先を沈めた。映った自分の顔が、波紋の中で歪み、砕け、消えていく。
明日の朝、新しい任務の指令が下りる。古代遺跡の調査——そう噂されている。なぜか、今夜に限って、胸の奥がざわついて仕方がなかった。遠くで梟が一度だけ鳴いた。風が、いつもと違う方角から吹いていた。
視えてしまう眼は、まだ自分の運命までは映さない。