第3話
第3話
馬車の車輪が石畳を打つ規則正しい音が、まるで遠い誰かの鼓動のように、車内の薄闇を満たしていた。
向かいの座席で、マレナは膝の上に古い文箱を抱えたまま、じっと俯いている。黒檀の蓋には、辺境ノルン家の古い紋章——三つ葉の常盤木と、それを貫く細い銀の筆——が、摩耗した金箔で浮き彫りにされていた。母が亡くなってから十七年、この箱が屋敷の蔵から出されたのは、今日で二度目のはずだ。一度目は、私が十の年の、母の命日。あのとき父は、箱の蓋を開ける前に、ひどく長い間、掌でその紋章を撫でていた。私はその仕草の意味を、今日ようやく理解できた気がした。
「お屋敷に着きましたら、まずお召し替えを」
マレナの声は、普段通りに整えられていた。けれど、その「普段通り」が、かえって彼女の動揺を雄弁に物語っている。私は窓の外へ目を遣った。王都の大通り、祝祭の名残の花弁が石畳の上を転がっていく。遠ざかる大聖堂の尖塔が、馬車の揺れに合わせて、ゆっくりと視界の端から滑り落ちていった。
掌の中心の熱は、もう消えかけていた。けれど、消えたわけではない。熾火のように、皮膚のすぐ下で静かに息をしている。その熱に、私はこれから火を入れる。今日でなくとも、明日でなくとも構わない。ただ、灯し続けるための最初の風を、私自身の手で起こさなければならなかった。
馬車が屋敷の門を潜る。見慣れた前庭の水盤、白薔薇の垣根、玄関ポーチに並んだ使用人たちの礼。——何一つ変わらない。変わったのは、私一人だ。
自室の扉が閉じられた瞬間、私は深く息を吐いた。
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鏡台の前に立つと、そこには、朝出かけたときと寸分違わぬ聖女の姿が映っていた。白絹の聖衣、銀糸で刺された七つの星の紋、項に垂れる紗、腰の金環。幼い頃から「お嬢様、今日もお美しゅうございます」と囁かれ続けてきた、そのままの姿。
けれど、鏡の中の女の瞳だけが、別人のものだった。
涙は、一粒もなかった。怒りも、まだ遠い。ただ、ひどく澄んだ水面のような静けさが、胸の奥いっぱいに広がっている。私は鏡の中の自分に、ゆっくりと微笑みかけた。——ごきげんよう、と。これまで一度も自分自身に向けたことのない、あの最上級の礼の言葉を。
マレナが、湯浴みの支度を整えにと席を外した。扉が閉まる音を確かめてから、私は両の手をそっと項へ回した。
まず、紗留めの銀の簪。
幼い日、神殿で初めて授けられたときには、子供の細い首にはあまりに重く感じたもの。今日までの十年あまり、この簪は一度たりとも私の項から離れたことがなかった。聖女の証、祈りの器としての印。——それを、私は自分の指で、ゆっくりと、息を殺しながら引き抜いた。
紗が、肩から背へと滑り落ちる。
意外なほど、軽い音だった。羽根が一枚、床に触れたほどの、ささやかな音。けれど私の耳には、それは何かの封印が解ける音のように響いた。紗は、絹の床を這うようにして、足元で小さな銀の海を作った。薄闇のなか、その海は月の残り香のようにほのかに白く浮かび、ふくよかな沈香の薫りを、かすかに、けれど確かに立ちのぼらせた。私はそれを跨ぎもせず、ただ静かに見下ろした。
次に、胸元の金環。
これは少し手間取った。留め金が小さく、指先が思うように動かない。けれど私は、誰の手も借りなかった。マレナを呼び戻すことも、使用人の鈴を鳴らすこともしなかった。この衣を、誰かの手で解かせてはならない。それは、私が私自身に誓う、最初の儀式でなければならなかった。
金環が外れ、掌の上に落ちてくる。ずしりとした重み。鍍金ではない、純金の。掌の皮膚が、その冷たさにわずかに粟立った。指の腹で縁をなぞれば、細やかな彫金の蔓草が、触れるたびに爪の先へ微かに引っかかる。——王家から下賜されたという触れ込みで、実のところ神殿の会計から支出されていたものだ。ふと、前世の「私」が書庫の台帳に走り書きした数字が、記憶の奥で揺らいだ。ひと月分の、辺境への救援米と同じ額。私は金環を、化粧台の上にそっと置いた。音を立てぬように。けれど、置いた指は迷わなかった。
聖衣の肩紐を解く。帯を緩める。幾重にも重ねられた薄絹の層が、ひとつ、またひとつと私の身体から離れていく。脱いでいるのは衣ではなく、十七年かけて身体に巻きつけられていた、細い細い無数の糸だった。糸の一本一本に、名前があった。「選ばれし血」「祈りの器」「王家の花」「沈黙する聖女」——。どの糸も、私自身が縒ったものではなかった。神殿が、王家が、父が、そして見知らぬ誰かの口が、私の代わりに選び、私の代わりに結び目を作ったものだ。解くたびに、名前がひとつずつ、足元に滑り落ちていった。
最後の一枚、肌着の上に羽織っていた白絹の上衣を、肩からそっと滑らせる。
鏡の中に、ひとりの女が立っていた。
聖女ではない。王太子の元婚約者でもない。アンナリーゼでも、まだ完全なセレスティアでもない。——ただ、これから自らの名を取り戻しにゆく、ひとりの、背筋の通った女だった。
私はその姿に、今度は深く頭を下げた。祈りの形ではない、敬意の形で。長い間、この身体の中で息を潜めて待っていてくれた人に、ようやく「お待たせいたしました」と、静かに挨拶ができた気がした。
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扉が、控えめに叩かれた。
「お嬢様、湯の支度が整いましてございます」
マレナの声。私は「お入りなさい」と答えた。自分でも驚くほど、声はいつも通りだった。いや、いつも通りよりも、わずかに低く、落ち着いていた。
扉が開き、マレナが足を踏み入れる。そして、止まった。
両手に抱えた清拭用の布が、ほんの一瞬、揺れた。彼女は声を上げなかった。悲鳴も、狼狽も、問いかけも。ただ、その場に縫い止められたように動きを止め、足元に広がる白絹の海と、化粧台の上に置かれた金環と、そして——鏡の前に佇む私の横顔を、順繰りに見た。
最後に、私の横顔で、彼女の視線は止まった。
長い、長い沈黙があった。その沈黙の中で、マレナの喉仏が、ひとつ、ゆっくりと上下した。息を呑む音すら立てぬほどに堪えて、けれど堪えきれなかったものが、代わりに彼女の睫毛を微かに震わせた。
私は鏡越しに、彼女と目を合わせた。
マレナの瞳の奥に、私はこれまで見たことのない光が宿っているのを見た。驚愕ではない。哀れみでもない。それは、長年大切に世話をしてきた庭の片隅で、ある朝ふと、誰も植えた覚えのない稀な花が芽吹いているのを見つけた、老いた庭師の——そういう種類の、畏れに似た眼差しだった。
「……マレナ」
私は静かに呼びかけた。
「驚かせてしまいましたね」
「……いえ」
マレナは掠れた声で答え、それからゆっくりと、膝を折った。抱えていた布を胸に抱き直し、床に広がった白絹の裾の、その縁に、そっと片手を添える。形見の品を扱うような、恭しい仕草だった。
「……お嬢様」
「はい」
「差し出がましいことを、申し上げます」
マレナの声は、震えていた。けれどその震えは、怯えではなかった。
「私は、今日まで、アンナリーゼお嬢様にお仕えしてまいりました。——この先も、もし、お許しいただけるのでしたら」
彼女は顔を上げた。目尻に、涙ではない、もっと鋭く澄んだ光が滲んでいた。
「これからお仕えする方のお名前を、どうか、私にだけでも、お教えくださいませ」
私は息を呑んだ。——この人は、わかっている。私が何を脱ぎ捨てたのか、そして何を着直そうとしているのか、その輪郭までは見えずとも、少なくとも、目の前の女が朝の女とはもう別人であることを、彼女は既に受け入れている。
私は、鏡の前で身体をゆっくりと回した。マレナの正面に立ち、一度だけ、深く頷いた。
「マレナ。——これから私は、母の名を、静かに取り戻していきます」
マレナの瞳が、ほんの一瞬、大きく見開かれた。それから、深く、深く伏せられた。額が、床の白絹にほとんど触れるほどに。
「……畏まりました」
その一言の中に、彼女が長年呑み込んできた何かが、ようやく正しい形で吐き出された気がした。私は、その髷の頂に、そっと目を落とした。——ありがとう、とは、まだ言わなかった。言う時は、もっと後だ。もっと、すべてが済んだ後で。
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マレナが部屋を辞した後、私はひとり、文箱の前に静かに座した。
黒檀の蓋を開ける指先に、もう迷いはなかった。束ねられた古い手紙の、一番上——辺境ノルンの印が押された一通を、私は静かに手に取った。封蝋は、まだ破られていない。母の指が最後に触れた蝋の形が、十七年の時を越えて、今、私の掌の中にあった。
窓の外で、春の夕暮れが、ゆっくりと屋敷の屋根を染め始めている。
明日の朝、私は神殿長の元へ参る。——聖職辞退の、書状を携えて。