第2話
第2話
光が、額を射抜いた──その一瞬が、どれほどの長さであったのか、私は未だに測りかねている。
瞼の裏で、色彩が幾重にも層を成して崩れ落ちていく。赤、青、金。ステンドグラスの硝子越しに降り注ぐそれらの色が、私の額の一点でぶつかり合い、砕け、溶け合って、やがて一本の細い光の糸になった。その糸が、頭蓋の最奥、ずっと封じられていた場所まで、音もなく滑り込んでくる。
──鍵が、鍵穴を、正しく捉えた。
そう感じた次の刹那、私は己の膝が、石畳に触れかけていることに気づいた。
危うい。
絹の裾が大理石の冷たさを掠め、聖衣の銀糸が光を弾く。私は辛うじて右の足に力を込め、傾ぎかけた身体を押し留めた。左の掌を、すぐ脇の石柱にそっと添える。冷たい石の感触が、指先から肘へ、肘から肩へと伝わり、ようやく私の呼吸を現実へ呼び戻した。
「……お嬢様?」
遠くで、誰かの声がしたような気がした。けれどそれは、回廊の遙か後方、まだ大聖堂の内陣近くから漏れてくる囁きに過ぎない。誰も、私のこの一瞬を見てはいない。光の柱の内側は、奇妙なほど静謐な、世界から切り取られた小さな祭壇のようだった。
息を、ひとつ。
肺の奥に光が満ちていくような、不思議な感覚。吸い込んだ空気が、そのまま額の熱と呼応して、身体の芯で細い炎を灯す。掌の中心は、先ほどよりもはっきりと熱を帯びていた。まるで、長らく指に馴染んでいた筆を、ようやく握り直したかのような──そう、筆だ。私はかつて、この掌でたしかに筆を握っていた。紙ではない。羊皮紙でもない。もっと古い、樹皮を漉いた薄い膜のような紙に、墨ではない銀色の流体で、文字を刻んでいた。
その記憶が、来た。
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奔流、という言葉でしか表せなかった。
堰を切った水が、乾いた谷を一息に駆け下るように、前世の記憶が私の内側を流れ落ちていく。一つ一つの情景を確かめる間もなく、それらは私の血管を巡り、骨の髄まで染み渡り、そして当然のもののように、もとあった場所に収まっていった。水音に似た何かが、耳の奥で絶え間なく鳴り続けている。けれど不思議と、痛みはなかった。ただ、長く空き家にされていた部屋の窓が一斉に開け放たれ、澱んでいた空気が、外から吹き込む新しい風にゆっくりと押し流されていく──そんな、清々しささえ伴う震えだった。
石造りの塔。高い書見台。窓の外では、見知らぬ星座が夜ごと巡っていた。私は──いや、「私」と呼んでよいのかすら、まだ定かではない。その女は、長い銀の髪を背に垂らし、細い指で古代語の写本を繰っていた。爪の先には、いつも薄く銀の流体の染みが残っていた。名を、何と言ったか。舌の上には、まだ辿り着かない。けれど彼女が「識っていた」ものは、今、私の中に静かに降り積もっている。指の節の一つ一つが、その重みを懐かしむように、かすかに疼いた。
浄化の術式。魔力を糧ではなく媒介として扱う、古の作法。瘴気という現象の本当の成り立ち。大地の血脈と、そこに刻まれた幾何学の陣。──そして、聖典。
聖典。
私はその言葉に触れた瞬間、息を呑みかけて、辛うじて堪えた。石柱に添えた指先が、絹の手袋越しに、ぐっと力を込める。喉の奥で、声にならぬ問いが、熱い塊になって痞えていた。──どうして。どうして、こんなにも近くにあったものを、私たちはこれほど長く、遠ざけられてきたのか。
王国聖典・第三章、第七節。「光は東より来たり、選ばれし血に宿る」。幼い頃から暗誦してきた、聖女の資格を定める一節。──けれど、私は今、はっきりと視ている。あの一節の、本来の形を。
「光は内より顕れ、識る者の掌に宿る」。
そうだ。そうだった。「東」ではない。「選ばれし血」でもない。血筋ではなく、識ること。血統ではなく、学び。あの一節は、ある時代に、ある者たちの手によって、たった二つの語を差し替えられた。たった二つ。けれどその二つが、数百年にわたってこの国の聖女を縛り、王家の血の純度を神聖の根拠にすり替え、そして──本来は万人に開かれていたはずの古代魔法を、特権者の玩具へと貶めた。
改竄。
その二文字が、胸の奥でことりと音を立てて沈む。先ほど飲み込んだ「醜い顔ですよ」という一言が、井戸の底で、その二文字と静かに並んだ。二つの石は、触れ合うこともなく、けれど確かに同じ水の底にあって、同じ冷たさで私を見上げている。怒りではなかった。哀しみでも、まだない。ただ、長い間ずっと床板の下で鳴り続けていた、か細い軋みの正体を、ようやく突き止めた者の、静かな疲労のようなものが、胸の奥を満たしていた。
私はゆっくりと目を開ける。ステンドグラスの賢者が、開いた掌に光を受け止めている。その掌の形を、私はもう他人のものだとは感じなかった。──あなたは、私の、遠い日の姉妹のような人。あるいは、私自身の影。どちらでも構わない。ただ、あなたが掌に受けているその光を、私は今、同じ形で受け取ることができる。それだけで、十分だった。
額の熱が、ゆっくりと引いていく。代わりに、背筋の芯に、鉄の芯が一本、新しく通ったような感覚が残った。震えは、既にどこにもない。
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どれほどの時が経ったのか、私は石柱から掌を離した。
絹の手袋の内側には、ほんのりと汗が滲んでいた。けれどそれだけだ。外からは、何一つ変わらぬ聖女アンナリーゼ・セレスティアの姿に見えるはずだった。白い聖衣の裾、銀糸の刺繍、項に垂らした紗。立ち姿の角度まで、先ほどと寸分違わず。──ただ、その内側に宿るものが、すべて入れ替わっただけ。
回廊の先から、慌ただしい足音が近づいてくる。聞き慣れた、侍女頭マレナの靴音だった。短く刻まれた歩幅、けれど決して急ぎすぎぬ品。彼女は私の二歩手前で立ち止まり、深く腰を落とす。
「お嬢様。……お加減は」
マレナの声は、平静を装っていた。けれど、私の顔を下から覗き込んだその瞳の奥には、隠しきれぬ動揺が揺れている。長年仕えてくれた彼女は、私の背筋の角度、瞬きの間、唇の結び方──そのどれかの、ほんの僅かな変化を、既に嗅ぎ取ったのだろう。
「ええ、マレナ。ごきげんよう」
私は微笑んだ。先ほどまでの、祈りの形に整えられた微笑ではない。もっと静かで、もっと深いところから浮かぶ、別のものだった。
「少し、光に眩んだだけ。──心配をかけましたね」
「…………はい」
マレナは、それ以上を問わなかった。賢明な人だ。私は彼女に軽く頷き、再び歩き出す。絹の靴が、石畳を打つ。先ほどと同じ音、けれど、耳に届く響きの質が、まるで違っていた。一歩ごとに、床の下の大地が、私の足裏に答えてくれる──そんな、ごく微かな共鳴。
大聖堂の正面扉が、開け放たれたまま私を待っていた。外では春の光が、広い石段の上に溢れている。祝祭の人波、華やかな色彩、遠くから流れてくる弦楽の音。──その眩しさの中へ、私は一歩ずつ降りていく。
自分が今、何を手にしたのか。そして、何を失ったふりをしなければならないのか。
失ったのは、婚約でも、聖女の地位でも、王家の庇護でもない。失ったのは、己を縛っていた太い鎖のうちの、ほんの一本だ。残りの鎖は、まだ私の足首に巻きついている。神殿の位階、聖典への服従、そして、この国の「聖女とはかくあるべし」という物語そのもの。──それらを、これから一つずつ、静かに外していかねばならない。
奪われた側が、奪った者の土俵で戦ってはいけない。かつての「私」が、書庫の奥で誰に向けるでもなく書き残した一文が、ふと蘇った。戦うのではない。ずらす。足場を、こちら側へ。
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馬車寄せの石段を降りきったところで、私は一度だけ振り返った。
高く聳える大聖堂の尖塔が、春の空を貫いて立っている。その頂の、黄金の意匠。幼い頃、父に抱き上げられて初めて見上げたあの尖塔を、美しいと思った。今も、美しいと思う。──ただ、美しいだけのものとして、見ることができるようになった。神の家ではなく、人の建てた石の塔として。
マレナが、私の背後で小さく息を呑む気配があった。彼女は何も言わない。けれど、その沈黙が、何か途方もないものの予感に震えているのが、私には伝わった。
「マレナ」
私は前を向いたまま、静かに呼びかける。
「馬車に戻ったら、一つ、頼みたいことがあります」
「……はい」
「母上の、形見の文箱を。──あの、辺境の印が押された、古い手紙の束を」
マレナの足が、ほんの一瞬、止まった。それから、彼女は深く頷く気配を返してきた。
「畏まりました、お嬢様」
私は微かに微笑む。春の風が、聖衣の裾をそっと攫っていった。掌の中心には、まだ先ほどの熱が、灯火のように残っている。その灯火は、これから私が進む長い夜道の、最初の一歩を照らすには、十分な明るさだった。
──思い出すのではなく、ようやく、私は私に還る。その最初の一歩を、今、ここで踏み出したのだ。