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婚約破棄されましたので、辺境で真実の聖女になります

第1話 第1話

第1話

第1話

王太子殿下の唇が、次の言葉を紡ぐ前から、私は既にそれを知っていた。

 王都大聖堂、春の祝祭の朝。祭壇の白百合が甘く匂い、朝の光が高い硝子窓から幾筋もの柱となって床へ落ちている。百合の香に混じって、焚かれた乳香のわずかに苦い煙、磨き抜かれた大理石が放つ冷たく澄んだ匂い、そして貴婦人たちの髪に振りまかれた薔薇水の甘さが、重なり合って私の鼻腔を満たしていた。居並ぶ貴族たちの衣擦れと、遠く鐘楼から響く祝いの鐘。絹と絹が触れ合うたび、まるで囁きを交わし合うかのように、さらさらと微かな音が空間を撫でる。その華やぎのただ中で、第二王子ルシアン殿下は一段高い壇上から私を見下ろし、微かに唇の端を歪めた。いつも通りの、けれど今日ばかりはどこか勝ち誇ったような、歪んだ微笑。隣には、真新しい純白の聖衣を身にまとう見知らぬ令嬢が、怯えるようなふりをして殿下の袖を握っている。その指先が袖口の金糸刺繍に触れる仕草まで、あらかじめ稽古されていたかのように滑らかだった。

「アンナリーゼ嬢。──いえ、セレスティア」

 わざわざ聖女名を呼び直されたその響きに、私は深く息を吸う。肺の奥まで冷たい大理石の匂いが満ちていく。吸い込んだ空気がそのまま胸の奥で凍りつき、心臓の鼓動を静かに鎮めてゆくようだった。

「私は、あなたとの婚約を破棄する」

 広間の空気が、一斉にざわめいた。けれどそれは驚愕ではなく、むしろ予期されていた芝居の幕が開いたような、品のない囁きの波だった。──ああ、やはり。誰もが知っていて、私一人が知らぬ芝居だったわけでもない。私もまた、幕が上がるその瞬間をずっと前から予期していた。ただ、台詞の一つ一つが、こうして実際に空気を震わせると、想像していたよりも薄く、軽く、安っぽく聞こえるのだと初めて知った。殿下は声を張る。

「理由は、もはや誰の目にも明らかであろう。聖女の加護は陰り、祈りは天へ届かぬ。──国の安寧を担うに足る力を、そなたはもはや持たぬ」

 持たぬ、ではなく奪われた、と言うべきでしょうに。私は内心で、ひどく静かに訂正した。奪った者の名を、奪われた時と場所を、私はひとつひとつ覚えている。けれど今はまだ、それを口にする時ではない。

 私は一歩進み出て、深く腰を落とす。絹の裾が大理石の上に波のように広がった。冷たい石の感触が、薄い靴底越しに膝まで昇ってくる。胸の前で指を組み、額がほとんど床に触れるほど、丁寧な、最上級の礼。この礼の形を、私は幼い頃から幾百度となく繰り返してきた。背筋の角度、指の組み方、呼吸の長さ。そのすべてが、今日この瞬間のためだったかのように、身体は迷いなく動いた。

「──承知いたしました、殿下」

 声は震えなかった。自分でも不思議なほど、澄んでいた。喉の奥に確かに熱い塊があったはずなのに、それは言葉になる寸前で不思議と溶けて消えた。

「長らくの、ご厚誼に。謹んで、感謝申し上げます」

 私は顔を上げない。上げてしまえば、この壇上に立つ男がどれほど貧しい顔をしているか、居並ぶ者たちの前で言葉にしてしまいそうだったから。ああ、あなたは今、とても醜い顔をしていますよ──そんな一言を、私は飲み込む。飲み込んだそれは、胸の奥のどこか遠い場所で、ことりと小さな音を立てて沈んだ。

 貴婦人たちの扇の陰から、忍び笑いが漏れる。誰かが小さく「まぁ、あの気高いセレスティア様が、なんて潔い」と囁き、別の誰かが「潔いのではなくてよ、諦めたのよ」と応じた。さらに別の声が、「哀れね」と、哀れみですらない平板な響きで付け足した。私は微笑みすら返さなかった。ただ、祈りの形に組んだ指先だけが、絹の手袋の下で、ほんの微かに震えていた。爪の先が掌に食い込み、絹越しにもわかる小さな痛みが、かろうじて私を今この場所に繋ぎ止めていた。

 その震えを、誰にも見せてはいけない。見せた瞬間、私は彼らの物語の「哀れな元婚約者」になってしまう。彼らが好む筋書きの端役に堕ちてしまえば、私はもう二度と、自分自身の物語の主語に戻れない。私は静かに立ち上がり、もう一度、今度は浅く頭を下げた。

「では、失礼いたします。どうぞ、新たな聖女様と共に、健やかなる御代を」

 殿下が何か言いかけたのが、気配でわかった。けれど私はそれを待たず、踵を返した。絹の靴が石畳を打つ、その音だけが、やけに鮮明に耳に残る。一歩、また一歩。自分の足音がこれほど澄んで聞こえたことは、これまでになかった。

 祭壇を背にして歩き出す。新しい聖女候補の方が、ちらりと私を見た気がした。けれど、その目を確かめる必要はない。私が見ていたのは、ずっと先、大聖堂の出口へ続く長い回廊、その奥で私を待っている光だった。なぜ「待っている」と感じたのか、自分でもわからなかった。ただ、あの光の奥に、私のための何かが置かれている──そう確信に近い予感が、胸の底で静かに脈を打っていた。

 高い尖塔窓から差し込むその光は、ステンドグラスを通して、床に聖者たちの色彩を零している。赤、青、金。歩みを進めるたび、私の白い聖衣の裾にそれらの色が次々と宿り、そして流れ落ちていく。まるで、私自身が色彩の川を渡っていくかのように。

 背後では、祝祭の奏楽が何事もなかったかのように再開された。王家に仕える楽士たちの、慣れきった美しい旋律。聖歌隊の少年たちが高らかに神を讃える。──神を。私を「聖女」と呼びながら、その力の源が何であるかを、誰ひとり知ろうともしなかった者たちの、神を。あの旋律を、かつての私は美しいと思っていた。今はただ、上手に整えられた嘘のように響く。

 指先の震えが、次第に別のものへと変わっていく。怒りではない。悲しみでもない。どこか懐かしい、遠い水底のような、奇妙な静けさ。深い井戸の底に沈んだ古い鍵が、誰かの手に掬い上げられるのを、長い長い間ずっと待っていたかのような──そんな静けさ。

 ふと、目の端に、回廊の壁に掛けられた古い刺繍画が映った。大賢者と呼ばれる、伝説の人物を描いたとされるものだ。長い髪、細い指、書物を開く横顔。──なぜだろう、その横顔の角度を、私は知っている気がした。鏡の中で、幾度も見たことがあるような。胸の奥で、何かが小さく呼応する。ひび割れた器の底から、わずかに水が滲み出すような、そんな気配。

 歩を緩めそうになる自分を、私は内心で叱咤する。まだ駄目。まだ、ここで足を止めてはいけない。回廊の終わりまで、せめて誰もいない場所まで、この背筋を折ってはならない。一歩でも揺らげば、今日という日の記憶に「惨めさ」という染みが落ちる。その染みを、私は自分の物語に残したくなかった。

 聖女とは、祈る者の姿勢である。折れぬ背であり、震えぬ声である。殿下、あなたが今日捨てたのは、その意味すら知らぬ、ただの肩書きにすぎないのだと──私は胸の奥で、そっと呟いた。

 そのとき、回廊の正面、ひときわ大きなステンドグラスの前に、私は差し掛かった。朝の光が最も強く降り注ぐ場所。古代の賢者が、開いた掌に光を受け止めている意匠。無数の色彩が、床一面に聖なる紋様を描き出している。その紋様は、幼い頃から幾度も通り過ぎてきたはずなのに、今日に限って、まるで初めて目にするかのように、鮮やかに私の視界へ飛び込んできた。

 一歩、踏み込む。

 光が、額を射抜いた。

 瞬間、私は知った。頭蓋の奥深く、ずっと昔から眠っていた何かが、硝子にひびが走るような、微かな、けれど決定的な音を立てた。耳の奥だけに届く、誰にも聞こえぬ音。けれど、それは確かに世界の在り方を一つ、書き換えた音だった。

 封が、砕ける前兆の音だった。

 私は立ち止まる。息が、一瞬、止まる。色彩が視界の端で、ゆっくりと渦を巻き始めるのが見えた。赤が、青が、金が、知らぬはずの文字の形に並び替わっていく。──これは。この文様を、私は、識っている。知っているのではなく、識っている。思い出すのではなく、もともと私のものだったものが、長い眠りから目を覚ましつつある、その感覚。

 指先の震えが、ぴたりと止んだ。代わりに、掌の真ん中が、じんわりと熱を持ち始める。まるで遠い昔に握りしめていた何かの輪郭を、皮膚が先に思い出しているかのように。

 ごきげんよう、殿下。

 唇が、誰にも聞こえぬ声で、そう呟いた。あなたが今日、自らの手で投げ捨てたものの名前を、私はこれから──思い出すことになるようです。

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