第3話
第3話
わたくしの絹の裾が、石畳を、もう一度、しずかに擦った。
その音だけが、広間のすべてだった。シャンデリアの光はさきほどと同じ明るさで天井から降り注いでいるはずなのに、わたくしの視界では、黒檀の台の上の乳白色の球だけが、世界の中心のようにくっきりと浮かび上がっている。エマ・フォルシアはよろめくように二歩、三歩と後ずさった。薄紅のドレスの裾が、彼女自身の踵にからまり、ほとんど転びかける。それを支えたのはアルベール殿下ではなく、近くに控えていた従神官の手だった。殿下は、一度もエマの肩に触れようとはしなかった。腕に縋られていたはずのその腕は、いまや居所のない木の枝のように、だらりと身体の横に垂れている。
『──ああ、殿下。あなたはもう、この方を庇う余裕もないのね』
胸の中でそう呟いた自分の声が、思いのほか静かで、わたくしはかすかに驚いた。軽蔑でも、勝ち誇りでもない。ただ、長らく無理に灯していたろうそくが、ついに燃え尽きる瞬間を見届けたような、奇妙な凪があった。
「ヴァリエール公爵家が娘、シャルロッテ」
大神官の低い声が、わたくしを呼んだ。
「前へ」
「はい、猊下」
わたくしは顎を引き、背筋を伸ばしたまま、一歩を踏み出した。絹が石畳を撫でる音。自分の靴の踵が床に落ちる、ほんの小さな衝撃。その一歩、一歩が、今夜のわたくしを静かに作り変えていく。ヴァリエール公爵家の娘として十八年。悪役令嬢として、ほんの一刻ほど。そしてこれからは──。
黒檀の台の前に、わたくしは立った。聖核石は、すぐ目の前にあった。乳白色の球面に、わたくしのドレスの銀糸と、シャンデリアのあかりが、ちいさく歪んで映っている。石は沈黙している。けれどそれは、さきほどエマの前で見せた「無関心な沈黙」とは、まるで違うものだった。息を潜めて、待っている。そう感じた。まるで、長い冬を耐えた庭の土が、春の最初のひと雫を待っているように。台座のふちに触れた指先から、ひやりとした石の肌ざわりが伝わってくる。それは冷たさというより、清められた井戸の水に指を浸したときのような、深く澄んだ冷ややかさだった。
「聖核石に、手をかざせ」
大神官の言葉に、わたくしは左手で扇を胸元に引き寄せ、右手を、ゆっくりと石の上へ差し伸べた。指先が、球面から指一本分だけ離れた高さで、ぴたりと止まる。わたくしは目を閉じはしなかった。閉じる必要がなかったから。胸の奥の、あの静かな白光が、自分の意思で、するりと腕を下っていくのを、わたくしははっきりと見ていた。肘を通り、手首を通り、てのひらの中央へ。そこから、指の腹へ。光が通り過ぎる肌の下は、熱くも痛くもなく、ただ、長く張りつめていた絹糸が一本ずつ解かれていくような、やわらかな安堵があった。
──そして、石へ。
最初、それはためらいのような、淡い燐光だった。聖核石の芯のあたりに、ぽっ、と小さな光点がひとつ灯る。ひとつ、ふたつ、みっつ。鼓動に合わせて増えていく。ちいさな星が、乳白色の闇のなかで、次々とまたたきはじめる。誰かが、扇を取り落とした。床に当たる音すら、広間のどこか遠くから聞こえた気がした。背後で、ひとり、またひとりと息を呑む音が、波のように連なって後ろへ退いていく。けれどその音は、もうわたくしの耳まで届かぬほど、石と指のあいだの静けさは深かった。
星は、やがてひと筋の流れになった。流れは、球の内側を幾重にも巻き、渦を成し、中心でひとつに束ねられ──そして、弾けた。
白光。
夜会の大広間を、一瞬、まっしろに塗り替えるほどの、白光。
悲鳴はなかった。誰も悲鳴を上げる余裕すらなかったのだと思う。ただ、貴婦人たちが一斉に腕で目元を庇い、紳士たちが半歩、無意識に後ずさる気配だけが広間を満たした。光はろうそくのように熱を孕まず、雪のように冷たくもなく、ちょうど母の手のひらの温度に似た、そんなあたたかさで、わたくしの指先と石とをひとつに繋いでいた。その温度は、幼い頃に熱を出した夜、額にそっと置かれた掌の記憶を、遠いところから呼び戻した。ああ、わたくしはずっと、この温度を知っていた。知っていて、知らぬふりをしていたのだ。
わたくしは、その光のむこうで、ひな壇の大神官がゆっくりと膝をつこうとする動きを見た。従神官たちが慌ててそれを支えたけれど、老爺の白い眉は深く震え、唇が何事かの古い祈りを紡いでいる。「ああ」と、わたくしのすぐ後ろで誰かが漏らした。「ああ、これは──これは、本物の……」言い切れずに、その声は掠れて消えた。
『聖女』
誰かの唇が、そう形作った。扇の陰で、貴婦人のひとりが。その隣の令嬢が。そのまた隣の紳士が。さざ波のように、広間のあちこちで同じ二文字が、声にならない声で伝わっていく。けれどその二文字を、わたくしはまだ自分のものとして受け止めずにいた。胸の奥の光は、聖核石と呼応しながら、わたくし自身にも静かに問いかけてくるようだった。──本当に、受け取るの。あの重いふたつの字を。あなたは。
わたくしは返事をしなかった。ただ、石に添えた指を、ほんのわずか引いた。光は、引く動きに合わせて素直に収まっていく。渦が解け、流れが散り、星がひとつずつ消え、やがて球面は再び乳白色に戻った。けれど、もうさきほどまでの沈黙した石ではなかった。わたくしの手が離れたあとも、その芯のあたりには、あかるいろうそく一本分ほどの、小さな光が、ぽつりと灯ったままだった。
「……な、なにかの、間違いですわ」
掠れた声が、背後から聞こえた。エマだった。
「なにかの、間違い。そうでしょう? だって、だって、わたくし……わたくしがっ、聖女、のはず、で」
振り返らずにいるつもりだった。けれど、わたくしは静かに半身だけを向けた。エマの水色の瞳は、大きく見ひらかれ、涙のかわりに、乾いた恐怖だけを溜めていた。あの、計算された哀しみの角度はもうどこにもない。両手で胸元を掻きむしるように握りしめ、金糸を幾本もほどいてしまっている。
「そんな、石が、きっと古いのよ。古くて、おかしくなっているのよ。わたくしの前ではたまたま、たまたま応えなかっただけで──ねえ、殿下! 殿下、そうでしょう? そうおっしゃって、殿下!」
アルベール殿下の喉が、上下した。けれど、言葉は出てこなかった。その金髪の下、整ったはずの顔立ちが、いま初めて、年相応に頼りなく見えた。王太子という肩書きを脱がされたら、そこに立っていたのは、ただ、脚本を失った一人の青年だった。殿下はエマを見た。聖核石を見た。大神官を見た。わたくしを見た。──見て、そして、視線の置き場を失った。
わたくしは、そのどれにも応えなかった。応える必要がなかった。応えるのはわたくしではなく、いま、黒檀の台の上で静かに息づいている、小さな白光だった。
「猊下」
わたくしは、大神官へとまっすぐ向き直った。
「儀は、滞りなく終わりましてございましょうか」
「……ああ。ああ、ヴァリエール公爵家が娘よ」
老爺の声は、かすかに震えていた。けれどその震えは、老いのせいではなかった。
「儀は、終わった。──否、儀は、今宵、始まったと言うべきかも知れぬ」
大神官が、ゆっくりと、けれど深々と、頭を垂れた。白い祭服の肩が、シャンデリアの光のもとで静かに波打つ。従神官たちもそれに倣う。一拍遅れて、広間の貴族たちの何人かが、どうしてよいかわからぬままに、膝を折りかける。昨日までわたくしを扇の陰で笑っていた令嬢たちの、その膝が。わたくしは、そのどれをも、急かしはしなかった。
エマは、もう声を立てなかった。唇だけが、何度も「間違い」「間違い」と形作っては、音にならずに崩れていく。殿下の手が、ようやく、ためらいがちにエマの背へ伸びた。けれどその手は、支えるでもなく、引き寄せるでもなく、ただ宙で迷って、やがて力なく落ちた。
わたくしは、扇をそっと開いた。
ぱちん、ではなく、ふわり、と。
その小さな絹の音に、広間のざわめきが、もう一度、ひそりと身を引いた。わたくしは顎を引き、広間の中央で、ゆっくりと息を吸った。胸の光は、もうわたくしの掌のなかに納まっていた。いつでも呼び出せる。いつでもしまえる。──そう、わかった。十八年間、この身体の奥で、静かに眠っていた本物が、ようやく、ようやく、わたくしと一緒に目を開けたのだ。
白光を見たばかりの貴族たちが、これから何を語り始めるか。殿下の冷たい顔が、明朝までに何色に変わるか。エマの「間違い」という言葉が、どこまで彼女自身を守ってくれるのか。──そのすべてを、わたくしは、もう、客席からではなく、舞台の中央から静かに見届けるつもりだった。
扇の陰で、わたくしはほんの少しだけ、唇の端を上げた。
『さあ、次は──婚約破棄の、お返事をいたしましょう』
胸の奥で、鐘が、もう一度、しずかに鳴った気がした。