第2話
第2話
大神官の白い眉が、ほんのわずかに持ち上がった。
それは、長い年月を祭壇のそばで過ごし、王家の儀にも神殿の秘儀にも立ち会ってきた老爺の、職業的な訝しみの色だった。わたくしの胸元。ドレスの絹越しに、確かに宿っているもの。その気配を、彼の眼は見逃さなかったのだ。わたくしは背筋を伸ばしたまま、もう一度、絹の裾を静かに撫でる。ふわり、と広間の空気が揺れた。シャンデリアのろうそくが、どれか一本、原因もなく一斉に瞬いた気がした。
「殿下」
わたくしはもう一度、澄んだ声で呼びかけた。アルベール殿下の顎が、苛立たしげにわずかに上がる。エマはまだ、殿下の腕にしがみついたままだ。その指先が、ドレスの金糸をきゅっと握りしめているのが見える。握りしめる、という動作が、今の彼女にとってどれほど必死なものか。わたくしはそれも、ただ静かに見ていた。
「先ほど申し上げました通り、王家の作法に則って、ひとつだけお願いがございます」
「……作法、だと」
「はい」
わたくしはゆっくりと、扇の先でひな壇の最奥を示した。大神官の座が据えられた、その場所を。白い祭服の裾が、石畳にかすかな影を落としている。
「王立学園の卒業夜会には、慣例として神殿より大神官猊下が臨席なさる。これは、王家の御代が始まって以来、一度も欠かされたことのない作法と伺っております。そして──」
ひと呼吸、間を置く。広間のざわめきが、わたくしの次の一語を待つために、自分から身を引いていくのが分かった。
「猊下の御前にて、身の潔白を問われたる者は、その場で聖女鑑定の儀を請うことができる。古き王法第七条。──違いましたでしょうか、猊下」
ひな壇の大神官が、そのとき初めて、わずかに身を乗り出した。白い髭が胸元で揺れる。老いた唇が、小さく動いた。
「……いかにも」
たったひと言。けれどその一言は、広間の空気を、ぴしり、と割った。
アルベール殿下の口の端が、引き攣ったように歪んだ。
それもそのはず。王法第七条は、歴代の王子たちが学ぶ帝王学の最初の章に記されている条文であり、けれど実際に発動された例は、ここ百年ほど、ほとんど記録にない。形骸化した古い作法。誰もが「そういうものがある」と知っているだけで、まさか断罪の夜会で持ち出されるとは、殿下自身、夢にも思っていなかったのだろう。その顔を、わたくしは正面から見つめ返した。
「なっ……何を、何を言っている、シャルロッテ」
「わたくしは、聖女エマ様を虐げたとして断罪を受けました。ならば、その『虐げられた聖女』が、真に聖女であられるか──それを王家の作法に則り、大神官猊下の御前で明らかにしていただきたい。それだけでございます」
エマの肩が、びくりと跳ねた。
今度は、さきほどよりずっと大きく。
広間のあちこちで、息を呑む音がした。扇の陰で、誰かが小さく「まあ」と呟いた。マルグリット様だろうか。アデル様だろうか。昨日までわたくしを「ごきげんよう」と迎え、今日は扇の陰で「まあ、なんておそろしい」と囁いた、あの声たちが、今度は別の種類の動揺に揺れていた。
『──さあ、脚本の外側へ』
胸の奥で、わたくしはそっと呟く。白い光が、応えるように、また一段、静かに燃える。
「シャルロッテ、貴様、まさか聖女エマを疑うのか!」
殿下の声が、ようやく怒気を取り戻した。けれどその怒りには、明らかに焦りが滲んでいる。脚本通りに泣き崩れるはずの悪役令嬢が、古い王法を持ち出してきた──この予想外の展開を、殿下の頭はまだ処理しきれていない。当然だろう。この方はゲームでも、自分の台詞以外には興味を持たない王子様だった。
「疑うのではございません。ただ、確かめていただきたいのです」
わたくしは視線を殿下からエマへと移した。
エマの水色の瞳は、涙のかわりに、今は別のものを宿しかけていた。恐怖。ただの恐怖ではない。「設定されていない展開」に踏み込んでしまった者の、薄い、薄い恐怖。わたくしはそれを、前世の記憶の中で、鏡越しに何度も見たことがある。──深夜、クリアできないイベントに詰まったときの、自分自身の顔だ。
「わたくしが聖女エマ様を虐げたというのであれば、鑑定の儀で、エマ様が正真の聖女であると示されるのは、むしろエマ様の潔白を証すことにもなりましょう。この場で儀を拒まれる理由は、何ひとつないはずですわ。──ねえ、エマ様?」
「わっ、わたくし、は……」
エマの声が、初めて掠れた。あの、計算された涙声ではない。もっと生々しい、舞台裏の地声に近いものが、ほんの一音だけ漏れた。殿下の腕にしがみつく指が、よりいっそう強く金糸を握りしめる。その仕草を、わたくしはもう見届けたくなかった。代わりに、ひな壇の大神官へと、再び向き直る。
「猊下。古き王法第七条に基づき、この場にて、聖女鑑定の儀を請い願います。ヴァリエール公爵家の娘、シャルロッテの名にかけて」
広間の一同が、一斉に大神官を見た。
老爺は、長い沈黙を挟んだ。シャンデリアの光が、白い祭服の肩を静かに照らしている。彼の眼差しが、ゆっくりとアルベール殿下を捉え、それからエマを、そして最後にわたくしを順に見た。その順序に、神殿という存在が王家からどれほどの距離を保って生きてきたのかが、そっと滲んで見えた気がした。
「……よかろう」
大神官の声は、低く、けれどよく通った。
「王家の作法は、王家の一存によって曲げられるものではない。儀を執り行う」
「猊下!」
殿下が叫んだ。けれど、大神官は片手を軽く上げただけで、それを制した。王冠を戴く者と、神印を戴く者。その二つの権威がかすかに擦れ合う音を、わたくしは確かに聞いた。アルベール殿下は、ぐっと喉を詰まらせたまま、一歩下がった。エマの指先が、殿下の袖から、ほんのわずか離れかけた。
従神官たちが、しずしずと動き出す。ひな壇の裏手から、黒檀の小さな台が運び出された。その中央には、乳白色の石が──拳ほどの大きさの、丸く磨かれた石が、紫の絹に包まれて収められている。
聖核石。
神殿が代々守り伝えてきた、聖女の資質を映し出す石。その名を、わたくしは前世の攻略サイトでしか知らなかった。「ゲーム本編には登場しない神殿裏設定」と紹介されていた、あの石。まさか現物を、自分がこんな形で目にすることになるとは。けれど、驚きはなかった。むしろ、胸の奥の白い光が、その石の気配を、まるで旧い友のように、静かに迎え入れている。
従神官が絹をほどく。乳白色の球面が、シャンデリアの光を受け、ほのかに、ほのかに透けた。わたくしは扇を閉じたまま、両手を前に組み、少しだけ脇に退いた。──まずは、聖女エマ様から。脚本通りに、順序は守らねばならない。
「聖女エマ・フォルシア殿」
大神官の声が、広間を静かに渡った。
「前へ」
エマの身体が、目に見えて固まった。
殿下の腕に縋りつく指が、白くなるほどに力を込めている。顔から、血の気がすっと引いていくのが、遠目にもわかった。あれほど器用に作り上げていた「薄紅の頬」が、見る間に、蝋のような色へと変わっていく。
「さあ、エマ様。猊下がお呼びです」
わたくしは、できるだけ穏やかな声でそう言った。糾弾ではなく、勧めるように。あくまで、「虐げられた聖女」を気遣うような声音で。広間の貴婦人たちが、その声の温度に気づいて、扇の陰で小さく目を瞠るのが分かる。──シャルロッテ様は、先ほどから一度も、エマ様を悪しざまに呼んでいらっしゃらない。そう気づき始めた人が、ひとり、またひとり、増えていく。
殿下が、半ば無理やりエマの背を押した。「行け、エマ。堂々と示してやれ」──そう囁いたのだろう。けれどその囁きには、もう先ほどまでの自信はなかった。押し出されたエマの靴が、磨かれた床の上で、かすかに滑った。
一歩。
二歩。
三歩。
エマが黒檀の台の前に立ったとき、広間の誰もが、息を止めていた。
従神官が、恭しく聖核石をエマの前に差し出す。大神官の白い指が、石の上でしずかに印を切る。古い祈りの言葉が、低い声で紡がれた。わたくしの知らない言語。けれど、胸の奥の光が、その響きにかすかに共鳴するのを感じる。
そして──。
石は、沈黙した。
ほんのかすかな、ためらいのような薄紅を一瞬だけ走らせ、それきり。乳白色の球面は、何事もなかったかのように、ただそこにあり続けた。光らない。震えない。応えない。
広間の時間が、止まった。
扇の動きが止まり、杯の傾きが止まり、貴婦人たちの呼吸が止まった。誰もが、何が起きたのかを一瞬理解できず、そしてまた、何が起きていないのかを一瞬遅れて理解していく。聖核石は、聖女の前で、決して沈黙してはならない石だった。たとえ資質がわずかでも、淡い桃色の光を返すはずの石だった。それが、何も返さない。まるで、目の前の少女を、「見ていない」かのように。
エマの唇が、わなわなと震え始めた。
「そ、そんな……そんな、はず……」
大神官の白い眉が、深く、深く寄せられた。その目が、ゆっくりとわたくしへと向けられる。先ほどまでの職業的な訝しみは、もうそこにはない。代わりに宿っているのは──静かな、けれど揺るぎない問いだった。
『では、そなたは』
言葉にならぬ問いを、わたくしは胸の光で受け止めた。扇を閉じたまま、一歩、前へ。絹の裾が、石畳を、しずかに、しずかに擦る。シャンデリアの光が、わたくしの胸元で一度、とくん、と応えた。
次に聖核石に触れるのは、わたくしだ。