第1話
第1話
鐘の音が、どこか遠くで鳴った気がした。
「シャルロッテ・ド・ヴァリエール。聖女エマを虐げた罪で、我が婚約を破棄する」
王立学園の卒業夜会、大広間の中央。磨き上げられた大理石の床に、わたくしの影だけがぽつんと伸びている。シャンデリアの光が、婚約者であったはずのアルベール殿下の金髪を冷たく照らしていた。殿下の腕には、薄紅のドレスをまとった一人の少女。男爵令嬢エマ・フォルシア。その瞳は涙に濡れ、唇は勝ち誇ったように、ほんのわずか吊り上がっている。あの唇の角度を、わたくしは知っている。鏡の前で何度も練習した者だけが作れる、計算された哀しみの形。鼻の頭だけを器用に赤らめ、睫毛を湿らせ、けれど頬には一筋の涙も流さない。そういう泣き方を、彼女はいつの間にか身につけていた。
ざわめきが、波のようにわたくしを取り囲んでいた。 「まあ、なんておそろしい……」 「あのヴァリエール家のご令嬢が、聖女様を……」 「以前から気位が高いとは伺っていましたけれど、まさか本当に……」
扇の陰から投げつけられる囁き。昨日まで「ごきげんよう、シャルロッテ様」と膝を折っていた令嬢たちの、よく知った声だった。マルグリット様。アデル様。それから、幼少のころ一緒に刺繍を習ったクロエ様の声まで混じっている。わたくしは息を吸う。吸ったはずなのに、胸の奥に届かない。冷たい広間の空気が、喉のあたりで凍ってしまったみたいだった。指先が、扇の骨をきつく握りしめている。爪の先が白くなるほどに。けれど、その痛みすら、どこか他人のもののように遠い。
『──ここで膝をついてはならない』
十八年、ヴァリエール公爵家の娘として叩き込まれてきた声が、背骨をそっと支える。母の声だった。家庭教師の声だった。そして、鏡の前で毎朝姿勢を正してきた、わたくし自身の声でもあった。背筋を伸ばしなさい。顎を引きなさい。どんなときも、足の裏で床を踏みしめていることを忘れてはならない。わたくしは扇をゆっくりと閉じた。その、ぱちん、という小さな音がした瞬間だった。
頭の奥で、鈍い鐘が鳴った。
──ああ。
ごうっ、と何かが胸の底から逆流してくる。見知らぬ天井。液晶の光。指先で画面を滑らせる感触。『断罪エンドへようこそ』という、冷たいゴシック体の文字。処刑台。泣き叫ぶ悪役令嬢。粗い雨の音。群衆の罵声。それらが、わたくし自身の思い出として、一息に流れ込んでくる。学生寮の狭いベッド。深夜までプレイした、あの乙女ゲーム。クリア後に見た「BAD END 03」の不愉快な達成感。そしてその翌朝、踏切の警報音。──そこで記憶は途切れていた。
『……そう。ここは、わたくしが前世で遊んだ、あの乙女ゲームの世界』
そして、自分が誰なのか。 どんな末路を辿る役どころだったのか。 すべてが、静かに腑に落ちた。
ほんの一瞬前までのわたくしなら、きっと血の気を引かせ、震える唇で殿下の名を呼んだだろう。「そんな、殿下、どうか」と。けれど今、胸の奥には別のものが息づいていた。鐘の余韻と入れ替わるように、ふつふつと、温かな光が灯っている。ろうそくの火ではない。もっと深く、もっと静かで、もっと確かな──まるで、幼いころに母の膝で聴いた子守唄の、いちばん優しい一小節が、胸の真ん中で繰り返されているような。
『これは、何』
手のひらの内側が、ほのかに白んだ気がして、わたくしは慌ててそれを胸元に押し当てた。ドレスの絹越しに、確かに脈打つ光。鼓動に合わせて、優しく、優しく。とくん、とくん、と。自分の心臓の音と、光の明滅が、少しずつ重なっていく。不思議と、恐ろしさはなかった。むしろ、ずっと昔から、わたくしの中でこの光が静かに眠っていたことを、身体のほうが先に思い出しているようだった。
──本物の聖女の覚醒魔法。
そんな言葉が、誰かに囁かれたかのように胸に降りてきた。ゲームには描かれなかった設定。台詞集にも、原画集にも、ファンブックにも載っていなかった色合い。公式が語らなかった、もうひとつの真実。けれど、今この瞬間、わたくしの中で間違いなく目覚めたもの。エマの纏う派手な光とは違う。祭壇の奥で大神官が掲げる聖印とも、どこか似て非なる質感。ひとことで言うなら──「静けさ」が光になったような、そんな魔力だった。
おかしなことに、涙は出なかった。むしろ、長年胸の奥でつかえていた小さな棘が、するりと抜け落ちたような、奇妙な軽さがあった。アルベール殿下の冷たい眼差し。エマの哀れっぽい仕草。取り巻きの貴公子たちの軽蔑。──すべてが、急に遠い舞台の上の出来事のように見えはじめる。自分は客席に座って、ただ舞台を眺めているだけのような。いいえ、違う。わたくしは舞台に立っている。けれど、この脚本はもう、わたくしのものではない。
「シャルロッテ。何か申し開きがあるならば、言うがよい」
殿下の声が、苛立ちを帯びていた。おそらく、脚本ではわたくしがここで「そんな、殿下、誤解です!」と泣き崩れる手筈だったのだろう。都合の良い悪役令嬢として。都合の良い生贄として。泣き崩れ、髪を振り乱し、醜く取り乱すことで、聖女エマの清らかさをより引き立てるための、舞台装置として。
わたくしはドレスの裾を、ほんのわずか持ち上げた。絹が床をかすかに擦る音。その音さえ、今夜のわたくしには、戦いの太鼓のように聞こえた。
『泣き喚くのは、悪役令嬢のすること』
胸の中で、静かに自分に言い聞かせる。ならばわたくしは、今この瞬間から、悪役令嬢であることをやめる。脚本を破り捨てる側に回るのだ。誰かの物語の当て馬ではなく、自分の物語の主として、この床を踏む。
顔を上げる。シャンデリアの光が、視界の端でちかりと揺れた。殿下の向こう、ひな壇の最奥には、白い祭服をまとった大神官の姿がある。卒業夜会には、慣例として必ず大神官が招かれる。そのことを、わたくしは十八年分の令嬢教育の中で知っていた。──そして今ならば、その慣例が何を意味するかも。王家の儀式において、大神官の御前で偽りを述べた者は、その瞬間に聖印から裁きを受ける。古い、古い作法。ほとんど形骸化した、けれど決して廃止されてはいない作法。
ふ、と唇の端で微笑んでみせる。それは、昨日までのシャルロッテ・ド・ヴァリエールには決して作れなかった種類の微笑だった。凍った湖面のように静かで、湖の底に光をひとつだけ沈めたような、そんな笑み。見ていた近衛の一人が、思わず息を呑む気配がした。
「殿下」
声は、自分でも驚くほど澄んでいた。広間のざわめきが、ぴたりと止む。扇を握る令嬢たちも、杯を傾けかけていた紳士たちも、その一音に縫い止められたように動きを失った。
「謹んで、お話を承りました」
殿下の眉が、訝しげに寄せられる。エマの小さな肩が、びくりと跳ねた。その反応を、わたくしは見逃さなかった。──ああ、やはり。この方は、わたくしが泣き崩れないことを恐れている。脚本通りに動かない悪役令嬢ほど、彼女にとって厄介なものはないのだ。わたくしはその二人を視界の端に留めたまま、胸の奥の白い光を、そっと掌に集める。まだ、ここでは見せない。見せるのは、ほんの少しだけ、後。大神官の視線が、こちらに向けられる、その一瞬に。
広間の空気が、張り詰めた弦のように震え始めていた。誰かが、小さく喉を鳴らした。誰かの扇が、ぱたりと床に落ちた。けれど誰も、それを拾おうとはしなかった。
「ただ──婚約破棄をお受けする前に、ひとつだけ。ヴァリエール公爵家の名にかけて、王家の作法に則り、申し上げたき儀がございます」
わたくしはゆっくりと視線を持ち上げ、ひな壇の大神官をまっすぐに見据えた。胸の光が、応えるように、また一段、明るさを増した気がした。大神官の白い眉が、かすかに動く。その目が、わたくしの胸元に宿るものを、確かに捉えた。
『──ゲームの筋書きは、今夜限り』
心の中で、そう呟く。誰にも届かない、わたくしだけの宣言として。けれどそれは、どんな叫びよりも、深く、強く、この身体の芯に刻まれた。
シャンデリアの光を受けて、涙の一粒も流さぬまま、わたくしは断罪の夜の中央に、しずかに立っていた。