第2話
第2話
香の匂いが、鼻の奥で揺れていた。
白檀に似た、けれどどこか冷たい香り。線香でも仏壇でもない、もっと古い──古書店の棚の最奥、祖父が誰にも触らせなかった革表紙の束から漂っていた、あの匂いに近い。俺はその香りを吸い込んで、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
石の天井があった。
蛍光灯ではない。電球でもない。高い梁の間に吊られた鉄の燭台、そこに灯る蝋燭の、橙色の揺らめき。炎が呼吸するたびに天井の影が膨らんだり縮んだりする。コンクリートじゃない。タイルでもない。黒ずんだ石を積み上げ、継ぎ目に乾いた漆喰を詰めただけの、粗い天井だった。
──ここは、どこだ。
起き上がろうとして、違和感が全身を貫いた。腕が短い。指が細い。掛けられていた麻の毛布を押しのけた手のひらが、見覚えのない小ささでそこにある。俺の手じゃない。ペンだこも、昨日の擦り傷もない。爪は短く整えられてはいるが、その下に汚れが残っていて、皮膚は青白く、血管が透けるほど薄い。
心臓が跳ねた。
寝台から転げ落ちるように床に降りる。足裏に石の冷たさが走り、その冷たさを感じる足の大きさにもう一度ぞっとした。部屋の隅、古びた水差しの横に、曇った銅鏡が立てかけてある。俺は──俺の身体は──縺れる脚でそこへ向かった。毛布を引きずり、ぜいぜいと肩で息をしながら、鏡の前に膝をつく。
鏡の中から、見知らぬ子どもがこちらを見返していた。
十歳くらいだろうか。銀に近い灰色の髪が肩まで伸び、栄養が足りていないのか頬がこけている。薄い唇、落ち窪んだ眼窩。けれど瞳だけが、不自然なほど濃い藍色で、こちらを射抜くように光っていた。その瞳の奥に、俺は確かに「周防聖哉」の気配を見つけた。十七歳の、凡才の、路地裏で死にかけた俺の気配を。
「……は、ぁ……」
喉から漏れたのは、自分の声ではない、高く、掠れた子どもの声だった。その声帯は長く使われていなかったのか、母音の輪郭がざらりと擦れて、子音の根元で微かに詰まる。自分の声じゃない、と脳が叫ぶのに、確かに自分の意思でその音は生まれていた。舌の裏に、塩気とも鉄気ともつかない苦みが薄く広がっていた。熱を出した子どもの、汗と薬草の名残のような味だ。
鏡を支える手が震える。銅の縁に指先が触れた瞬間、頭の奥でぱちん、と火花が散った。
知識が、弾けた。
それは記憶の想起ではなかった。ページをめくるような順序だった思い出し方ではなく、インクが水に落ちて広がっていくような、無秩序で一斉な流入だった。古代式の音節表、魔導書の余白に書かれた注釈、禁書目録の赤い背表紙、学院の講義で半分も理解できなかった術理の体系──その全部が、今の小さな脳に上書きされていく。前世の知識が、この身体の中で新しい座標を得て、次々と結線されていく感覚。頭蓋の内側で、見えない糸が張られ、ほどけ、また別の場所で結ばれ直していく。こめかみの奥がじんと痺れ、耳の奥では誰かの講義の声が遠く近く反響した。吐き気に似た眩暈が、しかし不思議と不快ではなく、むしろ渇いた喉に水が染み込むような快さで、身体の芯に降りていく。
同時に、この身体の持ち主の記憶も、細い糸のように混ざり込んできた。
──セイ。呼ばれていた名前はそれだった。辺境伯ドレスデン家の落胤。妾腹の子。生母は産後の肥立ちが悪く死に、引き取られた本家では継母に疎まれ、七歳の頃からこの塔に押し込められている。窓は鉄格子。扉の外には見張りの兵。食事は日に二度、冷めたパンと薄いスープ。読み書きを教わる機会もなく、ただ「忘れられるため」にここに置かれた子ども。塔の石壁に爪で刻まれた、数えきれない縦棒──日付を数えるのをやめた痕が、記憶の端にちらりと映った。誰かを待っていた。迎えに来るはずの、もういない誰かを。その待ち続けた時間の重さが、胸の奥にずしりと沈んでくる。俺のものではないはずの寂しさが、俺の肋の内側で確かに疼いた。
──そして、昨夜。高い熱で魘された末に、この子は息を引き取ったのだ。
その空白に、俺が滑り込んだ。
鏡の中の少年が、眉を寄せた。俺の意思で、眉が動いた。濡れた睫毛の先で蝋燭の火が揺れる。
「……転生、ってやつか」
声に出してみて、初めて実感が追いついた。路地裏の冷たいコンクリート。銀の鎖。喰魔の呼気。あの瞬間、俺は確かに死にかけていた。影の底で鳴った鎖の音、「まだ終わらせるな」という囁き、そして「やっと、見つけた」という低い声。
それらが全部、この身体に繋がっているのか。
膝が抜けて、そのまま床に座り込んだ。石畳の冷たさが、薄い寝間着を通してじかに尻へ伝わる。塔の壁を伝って、遠くから鐘の音が聞こえた。三つ、四つ──五つ。朝を告げる鐘らしい。鉄格子の向こう、細い窓から差し込む光はまだ青く、夜明け前の藍色をしていた。その藍は、鏡の中の少年の瞳とほとんど同じ色で、窓と瞳のあいだに細い糸が張られているような錯覚がした。どこか遠くで鳥が一声だけ鳴き、石の廊下にその余韻が短く跳ねて消えた。
俺はゆっくりと、自分の手のひらを見下ろした。
小さい。細い。ペンだこもない。けれど、前世で積み上げた五百回の朝の詠唱は、この小さな手のひらの記憶にはなくても、俺の「思考」の中にはまだ残っている。舌の奥に染みついた金属の味も、四時起きの習慣で澱んだ脳の回し方も、全部ここにある。身体は子どものものだが、術理を組み立てる回路は、十七年分の俺のままだ。
試しに、指先に意識を集めてみた。
この世界の魔素がどうなっているのか、まだわからない。けれど前世の学院で習った「初級火球」の基礎詠唱を、口の中で小さく転がしてみる。音節がなめらかに舌を滑った。──噛まない。朝四時の実習室で何度も噛んだあの音節が、この身体では噛まない。詠唱の速度が、前世の倍ある。息継ぎの位置が、頭で考えるより先に身体の側から指定されてくる。まるでこの喉が、生まれる前からその詠唱を知っていたかのように。
呼吸が浅くなった。
そんな馬鹿な、と思いながら、もう一度試す。別の詠唱。禁書の端にだけ載っていた、古代式の音節列。前世では口にすることすら許されなかった響きが、この小さな舌の上で、さらりと形になる。唇の裏がかすかに痺れ、頬の内側に甘い痺れが走った。
才能だ。
この身体は、前世の俺が喉から手が出るほど欲しかった「才能」を、最初から持っている。
指先に、青白い光が灯った。
蛍火ほどの、頼りない光。けれど確かに、俺の意思に応えて生まれた魔素の塊だった。前世の学院でなら、教師が鼻で笑い飛ばしたであろう規模。けれど俺には、その光の重みがわかる。五百回の朝を積み重ねても、ついに手に入らなかったものが、今、目覚めて最初の一分で掌の上にある。指先に伝わる微かな熱──いや、熱ではない。熱と冷たさのちょうど境目の、皮膚が判断を迷うような感触。その感触に、前世の記憶の中の教師たちの嘲笑が重なって、頭の奥でぐしゃりと潰れた。
視界が滲んだ。
悔しさなのか、喜びなのか、自分でも判別がつかない。ただ、前世の路地裏で血を吐きながら抱いた怒り──「報われない努力の、これが答えか」という叫び──その答えが、遅れて届いたような気がした。涙は頬を伝う前に、子どもの薄い皮膚にじわりと吸われて消えた。声を上げて泣くには、俺はもう十七年ぶんだけ大人すぎた。
答えは、これじゃない。まだ、これじゃない。けれど、続きを見ることは許されたらしい。
そのとき、塔の下のほうで、重い扉が軋む音がした。
続いて、石段を上ってくる複数の足音。鎧の擦れる金属音。兵士だ。見張りが、朝の交代に来たのだろうか。それとも──夜のうちに死んでいるはずの子どもの様子を、確かめに来たのか。
俺は慌てて指先の光を消した。蝋燭の炎が、呼応するようにぐらりと揺れる。毛布を引きずって寝台に戻り、身体を丸めて目を閉じた。小さな心臓が、肋の内側で打楽器のように暴れている。その鼓動の一つ一つが、耳の奥にまで響いて、呼吸の音を隠してくれない。唾を飲む音さえ、この静けさの中では響きすぎる気がした。
足音が、扉のすぐ外で止まった。
鍵を回す、乾いた音。
「……まだ息があるか、確かめてこい」
低い、気だるげな男の声。面倒事を押し付ける響きが、言葉の端にべたりと貼りついていた。続いて、若い兵士のためらうような返事──「は、はい」と一度だけ、喉の奥で何かを飲み込むような間があった。扉の向こうの短いやりとりを、俺は息を殺して聞いていた。この塔の中で、俺は「忘れられるため」に置かれた子ども。生きていることが、誰かにとって不都合かもしれない子ども。
前世の凡才は、少なくとも誰にも憎まれてはいなかった。嘲笑はされても、殺されはしなかった。
けれど、ここは違う。
毛布の下で、俺は静かに拳を握った。小さな、けれど前世の知識を抱えた拳を。爪が、皮膚の薄い掌に半月の痕を刻む。影の底で鳴った銀の鎖の音が、耳の奥で微かに蘇る。──まだ終わらせるな。あの囁きは、きっとこの瞬間まで届いている。
扉の鍵が、ゆっくりと開いた。